Angel Birthday 1


 わたしは身体の芯を刺し貫いた痛みの余韻で、まだベッドの上から動けないでいた。
 男はもう殆ど身支度を終え、鏡の前で少ない髪をなでつけているところだ。
 上等な布地に脂肪でたるんだ肉体を押し込んだそいつは、かなり上機嫌のよう。
 逆にわたしは吐き気と目眩で死にそうな気分だ。
 男に加虐趣味の気があったせいで、身体のあちこちが痛む。
 それが無数の痣になっているだろうと考えると、わたしはますます憂鬱になった。

「ヴァイオレット。」

 男はこの部屋へ来たときと同じ格好に戻ると、少し枯れた声でわたしの名前を呼んだ。
 散々わたしの上で叫んでいたときより少し落ち着いたというだけの声。

「なかなか良かったぞ。
 高い金を出したかいがあった。」

 うるさい。
 ブタめ。
 わたしは叫びだしたい気持ちをぐっと堪えた。
 そんな事を言って得意客を無くせば、またおかみさんにこっぴどく折檻される。
 殴られるのは構わないが、食事も水も抜かれて働かされるのは辛い。

「だが、ひとつ忠告しておくと”最中”にはもっと声を出した方がいいな。
 これからお前も客をとるようになるんだ。
 覚えておいて損はなかろう。」

 うるさい!
 帰れ!
 わたしは歯をくいしばり、シーツを握りしめた。
 そうでもしないと、この男のありあまる脂肪にサイドテーブルの果物とともに置いてあるナイフの刃を埋め込んでやりたいという衝動を抑えられそうにもなかったからだ。
 男は返事をしないわたしに向かってやれやれと肩をすくめると、部屋を出ていった。
 安っぽいベッド。
 安っぽい部屋。
 汚くて狭いその空間に、裸のままのわたしと天井裏から入ってきた子ネズミだけが取り残された。


 ヴァイオレット、というのは本当の名前ではないらしい。
 らしい、というのはわたしが本当の名前というものを知らないからだ。
 かなり小さいときに親に売られたらしく、物心ついたときにはもうこの娼館にいた。
 その名前を誰が考えたかしらないが、随分安易につけられたものだとわたしは思う。
 わたしのすみれ色(ヴァイオレット)の瞳は、おかみさんに伸ばすよう言われている黒い髪に映えるらしい。
 おかみさんは厳しいひとだ。
 女として役に立たない幼いわたしが食べさせて貰うには皿洗いから部屋の掃除、洗
濯までなんでもやらなければならなかった。
 それでも失敗して食事を抜かれたりひどくぶたれたりする事もある。
 だが、追い出されたらのたれ死ぬしかない。
 だからわたしはおかみさんの必死でいいつけを守ってきた。
 生きなければならなかったから。
 ……生きて成長すれば、いずれこういう日が来るとは知っていた。
 知っていたけど。

「……はい、もういいわ。」

 わたしの痣に軟膏を塗ってくれていたアイシャが顔をあげた。
 立ち上がると、椅子に座っているわたしより随分上に頭が移動する。
 彼女の金髪がふわりと波打った。
 静かな物腰でチェストのところまで行くと、引き出しに軟膏の瓶をしまう。
 薬はとても高価だ。
 だからこれはアイシャが自分で薬草を摘んできて作ったもの。
 素人の作ったものだから本当に効き目があるかどうかは少し怪しい。
 だけど、わたしは彼女の気遣いが嬉しかった。

「ありがとう。」

 わたしは小さくお礼を言う。
 この娼館でわたしを気遣ってくれるのはむっつ年上の彼女だけだった。
 ここで生活している十数人の娼婦達の中で、煙草を全く吸わないのも。
 アイシャがここへ売られてきたのはわたしと彼女が同じくらいの年齢のときだったろうか。
 そのときにはもう胸を患っていて、後でそれを知ったおかみさんが「もっと買いたたくんだった」と悔しがっていたっけ。

「いいのよ、お礼なんて。
 どちらかといえばいつも助けられてるのは私のほうなんだから。」

 アイシャがにっこりと笑うと、アイスブルーの瞳が穏やかに揺れる。
 こうして笑っていると胸の持病が嘘のようだ、と思う。
 発作の時の彼女は本当に地獄の炎に焼かれているように苦しむのだ。
 わたしがいなくなったら、彼女が発作の時に手を握っててあげられる人がいなくなってしまう。
 だから、私は生きていなくてはならない。

「明日一日おいたら、毎日お客がつくようになるわ。
 ゆっくり休まないと、ね。」
「……ん。」

 そう。
 わたしは今日、はじめてのお客をとった。
 おかみさんは”はじめて”という事で競りにかけ、普段の何十倍もの値段を取ったらしい。

「アイシャ。
 今日、一緒に寝てもいい?」

 わたしは親も兄妹も知らない。
 おかみさんも親ではない。
 彼女はわたしのことも一緒に暮らす十数人の女も、商品としか思っていないのだから。
 だけど、アイシャは好きだった。

「……いいわよ。」

 余計なことは何も言わず、アイシャはわたしの頭をなでてくれた。
 十四歳の冬。


<続劇>




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