Angel Birthday 2


「……だいぶ、衰弱しているようだね。
 本当はどこか空気のいいところで静養するのが一番なのだが……。」

 白い顎髭をたくわえた医者の言葉を、わたしは黙って聞いていた。
 場末の娼婦にそんなお金があるわけがない。
 はじめてわたしがお客を取った日からいくつもの季節が過ぎ、この商売にすっかり慣れてはいたけれど。
 お客が払うお金は殆どおかみさんのもので、わたし達娼婦のところへはごく僅かしか回ってこない。
 それでも客からのチップをおかみさんに隠したりしてなんとか貯めたへそくりで、わたしはアイシャの為に医者を呼んだ。
 もしへそくりをしていたことがばれればわたしはひどい折檻を受けるだろう。
 しかし、アイシャの命と比べればそんな事は些細な事だ。
 彼女の発作は時を経る毎に間隔が短くなり、症状はひどくなるばかりだった。
 医者は帰り際、逡巡したのちに「今すぐ手を打たないと、彼女はあといくばくも生きられないだろう」と私に告げた。

「ヴァイオレット。」

 裏口で医者を見送り、小さな薬の瓶を持って二階に上がってきたわたしを階段の上から誰かが呼んだ。
 娼館の仲間である、ひとりの女。
 同じ屋根の下に寝起きし、ただ同じ仕事をこなしているだけのそれを仲間と呼ぶのならば、の話だが。
 赤くてくせの強い髪。
 半分とろんとした瞳は、ぼんやりとわたしを映していた。
 彼女からいつも煙の臭いがする。
 燃やして吸い込むととてもいい気持ちになって嫌なことを何もかも忘れられるという、あの煙の草の臭いが。
 しかし、わたしはあの煙が嫌いだった。
 吸った直後は馬鹿みたいに涎を垂らし、うわごとを言う。
 しかも、常用すると歯がぼろぼろになってゆくのだ。
 彼女は黒ずんだ色をした細い腕で、階段の入り口を通せんぼするように塞いでいた。

「あれ、医者だろう。
 あの病気持ちの為に呼んでやったのかい?」

 彼女がいるために奥に行けないわたしは、必然的に彼女の目の前で立ち止まる。
 何が言いたいのだろう、この女は。
 わたしには、この煙中毒がアイシャのことを気遣っているとはとても思えなかった。
 無表情なまま、彼女の顔を見上げる。

「それだけの金持ってんなら、あたいにも少しおよこしよ。」

 筋張った手をわたしの方に伸ばしてくる。
 そうか、そういうこと。
 彼女の言いたいことが解って、わたしは内心ため息をついた。
 おかみさんにへそくりで医者を呼んだ事をいいつけられたくなかったら、口止め料を渡せというのだ。
 そうして得たお金でまた煙の草を買うのだろう。
 わたしはスカートのポケットを探ると銀貨を二枚、彼女にくれてやった。

「なんだい、これっぽっちかい。」
「勘弁してよ。
 今ので殆ど使っちゃったんだ。」

 不満そうに鼻を鳴らす彼女に、わたしは精一杯困った顔をしてみせた。
 これは、アイシャの薬を買う為のお金だ。
 本当はびた一文だってくれてやりたくはない。
 だが、おかみさんに言いつけられて全部巻き上げられるよりはましだった。

「しょうがないね。
 今日のところはこれで勘弁してやるよ。」
「すまないね、姉さん。」

”姉さん”。
 便利な言葉。
 この女の名前なんか呼んでやるもんか。
 わたしは精一杯卑屈なそぶりで彼女の脇をすりぬけると、アイシャの寝ている部屋へと戻った。
 後ろ手でゆっくりと、なるべく音を立てないように扉を閉める。
 でも、アイシャは目を覚ましていたようだった。
 
「ヴァイオレット……。」

 部屋へ帰ると、アイシャがベッドの上から苦しい息でわたしの名前を呼ぶ。
 私は慌てて側へとんでいった。
 発作が収まっても、暫くは安静にしていなければならない。

「大丈夫、わたしならここにいるから。
 ちゃんと寝てなくちゃ良くならないよ。」

 薄い毛布の下へ片手を滑り込ませ、アイシャの手を握る。
 彼女は返事をする代わりに微かに笑った。

「アイシャが良くなるように、薬だって貰ったんだ。」
「薬だなんて……お医者さまを呼ぶだけでも………大変だったでしょうに。」

 わたしの言葉に、彼女は途切れ途切れに返事をした。
 握ったわたしの手を精一杯の弱々しい力で握り返しながら。
 わたしは慌てた。
 彼女を安心させる為に言ったのに、それがかえって心配を掛けるようではしょうがない。

「ううん、お金ならあるから。
 何も心配しないで、アイシャは身体を治すことだけを考えて。
 ……ね?」
「………ごめん、ね……。」

 アイシャの目の端からすうっと涙が流れて、継ぎ後だらけのシーツに落ちる。
 わたしは、彼女が眠ってもその場を離れることはなかった。


<続劇>




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