Angel Birthday 4
わたしはお客のグラスに酒を注ぎながら、営業用の笑顔を作っていた。
金持ちにはなるべく多くのお金を落としていって貰わねばならない。
娼婦たちとお客で賑わう酒場の空気は、下心と打算でどろどろと渦巻いていた。
お客達は一階の酒場で一夜の恋人を決め、おかみさんに相談して料金を払って二階の部屋へと上がっていくのがこの娼館の決まりだ。
きっと、今夜のわたしのお相手はこの男になるのだろう。
目の前でにやついている骨ばった顔を見ながらそう思った。
この男の顔は数回見たことがある。
嗜虐趣味も加虐趣味もなく、ただ夜の寂しさを女で埋めたいだけの男。
比較的楽といっていい部類に入る。
そのとき、ドアベルに乾いた音をさせて誰かが酒場に入ってきた。
条件反射的にそちらの方を振り返ってその男の顔を見た途端、わたしの背筋に悪寒が走る。
長身を漆黒のコ−トに包んだ男。
やたらと青白い顔色が衣服の黒と対照的で、それはわたしに死をイメージさせた。
わたしは不安に駆られて酒場の中に居る筈のアイシャの姿を必死で探す。
客と話している彼女の姿を確認して一瞬安心したものの、その客が誰なのかを知ってわたしは更に焦った。
下腹部と顎にぶよぶよとした脂肪をたくわえた男。
そいつは年月を経るにつれてますます身体にしまりがなくなっているようだ。
わたしの、はじめての客。
金持ちではあるが加虐趣味があり、男としては最低の部類に入る。
今、身体の弱っているアイシャにはかなりきついだろう。
わたしは慌ててその場を離れた。
骨張った顔の男が後ろでなにか言ったようだが、意に介さない。
途中で先刻の黒衣の男にぶつかってしまうが、僅かに頭を下げてすぐにすり抜ける。
「旦那、最近お見限りじゃないの。
今夜はわたしじゃ駄目かしら?」
アイシャのところへ辿り着き、わたしはブタ男の背後から精一杯甘えた声を出してしなだれかかった。
「ん? ああ、ヴァイオレットか……。」
ブタ男はたるんだ頬を震わせながらわたしの方を振り向いた。
これでアイシャを辛い目に遭わせなくて済む、と内心ほっとしたわたしを裏切るようにブタ男は片手を振った。
「今日はお前の気分じゃなくてね。」
わたしを嘲笑うように口の端を歪めると、アイシャの腰に手を当てた。
アイシャは声には出さず口だけで「ありがとう、大丈夫よ。」とわたしに伝える。
わたしはきつく奥歯をかみしめて、二人が階段を上がっていくのを見送るしかなかった。
「ヴァイオレット。 ちょっとおいで。」
ブタ男から受け取った金の勘定が終わったらしいおかみさんが、厳しい声でわたしを呼んだ。
気がつけば、さっきの骨張った顔の男はいなくなってしまっている。
酒場の中で異彩を放つ黒衣の男は隅に陣取ったままでいるのが目の端で解った。
わたしが重い足取りでおかみさんの所へ行くと、彼女は肉厚の手でわたしの腕をきつく掴んだ。
「ひとの客にちょっかい出してるんじゃないよ。
おかげで一人、別の客を逃したじゃないか。」
わたしを引きずるようにして酒場からは直接見えない位置に連れ込むと、おかみさんは凄みのある声で言った。
そして、わたしの腕を逆手に捻りあげる。
「か……堪忍して下さい……っ。
もう、しません……から。」
ここでみっともなく悲鳴をあげて酒場に声を漏らせば、もっとひどく折檻される。
わたしは痛みを堪えながら、おかみさんに許しを求めた。
「ふん。
今まで育てて貰った恩を忘れて思い上がるんじゃないよ。」
おかみさんは捻っていた私の腕を放すと、もう片方の手でわたしを壁に突き飛ばした。
わたしは壁に額をしたたかにぶつけ、僅かによろける。
部屋の奥にいたおかみさんの男が、片眉を上げて面白そうにわたしを見ていた。
と。
わたしが額を押さえながら立ち上がった、その時。
二階から、ブタを絞め殺した時のような汚い悲鳴が聞こえてきた。
アイシャ!!
その悲鳴の声は決して彼女のものでは無かったが、わたしは何か直感のようなものを感じて走り出していた。
凄く、嫌な予感がする。
わたしは二階に駆け上がると、アイシャの部屋へ一直線に走った。
戸口のところでへたり込んでいた肉のかたまりを突き飛ばして、ベッドで苦しんでいる彼女の側へ向かう。
アイシャは両手で胸を押さえながら、身体をくの字に曲げている。
彼女の白い肌には男につけられたのであろうひどい痣が数カ所出来ており、額には玉の汗が浮かんでいた。
「アイシャ……アイシャ。」
わたしは祈る思いで彼女の名前を呼ぶ。
そっと毛布をかけ、手を握るとアイシャはきつくつむっていた目をうっすらと開いた。
「……ヴァイ……。」
アイシャはわたしの名前を言いかけて、大きく息を吐く。
ひどい発作が起こり、呼吸が出来なくなっているのだ。
わたしは彼女の背中をさすった。
「今、薬持ってくるから。 待ってて。」
そう言って、立ち上がろうとしたわたしの服をアイシャは掴んだ。
彼女はまるで「行かないで」と言ってるように首を左右に振る。
「でも……。」
「いいの……もう……。」
不規則な呼吸の中で、アイシャはあえぐようにそう言った。
彼女は今まで見た中でも一番優しい、天使のような微笑みを浮かべている。
わたしは例えようもない不安感に心臓を締め上げられた。
アイシャの手を両手で包み込むようにそうっと握る。
「ちょっと。 死にかけてんのかい。」
いつの間にかやってきていたおかみさんの不機嫌そうな声が背後で聞こえる。
男は「わしのせいじゃない」とかなんとかぶつぶつと呟いているようだった。
わたしはもの凄い勢いで振り返ると、視線で射殺せとばかりに畜生どもを睨みつけた。
二人が黙ると、すぐにアイシャの方へ顔を戻す。
「ごめんね……ありがとう……大好きよ。」
アイシャは単語をひとつひとつ区切りながら、わたしにゆっくりと伝えた。
嫌だ。
これが、最後の言葉だなんて。
彼女の呼吸音がだんだんとか細くなってゆくのを感じて、わたしの目から熱い滴が止めどなく流れだす。
「やだ……アイシャ、いっちゃやだ。」
わたしは幼い子供に戻ったように懇願し、左右に首を振った。
神様。
今まで信じたことなんて一度もなかったけど。
神様、アイシャを救って下さい。
わたしはどうなっても構いません。
今、奇跡を起こしてくれたらどんな代償でも払います。
わたしの生涯に一度のお願いです。
神様。
……神様……っ!!
わたしの願いは、聞き届けられなかった。
アイシャの身体はゆっくりと冷たくなっていった。
<続劇>
|