Angel Birthday 6


 男がそっと胸から唇をを離しても、わたしの動悸はなかなか収まらなかった。
 キスされた痕と、身体の芯が疼く。
 身体の火照りが収まるのを待ってそっと身を起こすと、わたしから少し離れた椅子に彼は座っていた。
 冷徹そうな唇の端を微妙に歪め、冷たい瞳でじっとわたしを見つめている。
 何かを待っているような様子だ。
 わたしは怪訝そうに彼の方を伺いながら、自然と片手を胸元に手をやる。
 予期していなかった感触が指先に伝わってきて、わたしは視線を落とした。
 赤。
 深紅の染みが薄ものの胸元からへその下あたりまで大きく広がっている。
 ぼうっとなった頭でそれが自らの血だと理解するのには数瞬を要した。
 不思議と痛みはない。
 よく見ると血の染みの真ん中に二つの穴が穿たれている。
 意識が少しはっきりしてくると舌にも傷が出来ているようだった。
 男の白い顔と自分の胸を見比べていると、彼はこれ見よがしに笑ってみせた。
 その口元から鋭い二本の犬歯がのぞく。
 どうやら彼はわたしが最初に会ったときに直感した通り、死の使いのようだった。
 先刻までの感覚がこの世ならざる世界からもたらされたものなら、納得もいく。
 わたしは僅かに肩をすくめると、もう一度ベッドに横たわった。

「……私が恐ろしくはないのか。」

 どうやらわたしが泣きも叫びもしなかったのは、彼の意表をついた行動だったらしい。
 椅子が軋み、彼が立ち上がってわたしのほうへやってくる気配がした。

「この世に未練なんてないもの。」

 わたしはふうっと息をつく。
 ふいに彼の顔が真正面に現れた。
 ベッドの傍らに立ち、わたしの顔をのぞき込んでいる。

「何故だ。」

 男はあまり表情を動かす事が無かったが、それでも何故か少々楽しげに見える。
 わたしは彼の瞳の奥に、はじめて生気のようなものを感じた。

「本当に、何もないのか。」

 虚空を彷徨っていたわたしの視点が一瞬彼の瞳に定まった。
 この世でたったひとつやり残した事があるとすれば、それはアイシャを殺したあの男に報いをくれてやることだ。
 わたしが何かを願ったのが解ったのだろう。
 男はわたしの頬に手を掛けると、自分の方へと顔を向かせた。

「私の名は、ルードヴィヒ。
 お前の名は?」
「……ヴァイオレット。」

 何故素直に返答しているのか自分でも不思議だった。
 しかし催眠術にかかっているわけでも何でもない、自分の意志だとちゃんと解っている。
 
「ヴァイオレット。
 お前の人生、私に預ける気はないか。」
「………?」
「その望みを成せる新しい力と、新しい世界を見せてやろう。」

 わたしがけだるげに首を傾けると、ルードヴィヒと名乗った男の顔が間近まで迫っていた。
 わたしは肯定の意を示す代わりに、ゆっくりと瞼を閉じる。
 どうせ、わたしはアイシャとともに死んだも同然なのだ。
 何が起こったとしても今以上に悪くなることはないだろう。
 ルードヴィヒはわたしの背中とシーツの間に腕を差し入れると、上半身をそっと抱き起こした。
 わたしは目を開いて彼の瞳をまっすぐに見つめた。
 彼が視線をわたしへ返したのを確認すると、もう一度目を閉じる。

「お前に闇の口づけを与えよう……。」

 囁くようなルードヴィヒの声。
 何かを噛みきるような小さな音がした後、彼の唇がわたしの唇に重なった。
 どろりとした液体が私の喉へと滑り込んでくる。
 微かに鼻の奥をつく錆のような香りが、それが彼の血であることを告げていた。
 甘いくて苦い、とろけるような味が脳幹を痺れさせる。
 もっと。
 もっと、欲しい。
 わたしは彼の頸部に両腕を回すと、自分の方から流れ込んでくる液体を舐め取りにいった。
 唇と唇、舌と舌を交わす音だけが辺りに響く。
 そして、それは突然やってきた。

「……っあ! あ………あああぁぁぁっ!!」

 わたしはルードヴィヒの身体を突き飛ばすようにして、彼から離れた。
 全身を襲う今までに感じたことのない激痛。
 四肢がバラバラにされ、五感のひとつひとつを引きちぎられ、心身が細胞レベルまで粉砕される。
 わたしは暴れ狂う自分の身体を両腕で押さえつけるようにしながら、ベッドの上をのたうち回った。

「誕生の痛みだ。」

 ルードヴィヒは事も無げに言うと、手の甲で唇の端についた自分の血を拭った。
 普段なら舌で舐め取るところなのだろうが、今、自分の舌には大きな穴が穿たれている。
 そして、わたしは薄れゆく意識の中ではじめて自分の運命の行く末を案じた。


<続劇>




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