Angel Birthday 7
気を失っていたのはほんの数時間だったらしい。
わたしの意識が闇の淵から浮上してきたとき、窓の外はまだ暗かった。
普通の睡眠から目覚めたように健やかな気分で、激痛の片鱗も残ってはいない。
先刻までの出来事は夢で、本当は何もなかったのだと言われても信じられそうな気がした。
だが夢では無かった証拠に、ルードヴィヒが側にいる。
彼はわたしの横たわるベッドの端に腰掛け、窓から見える月の光を眺めていた。
「ルードヴィヒ………。」
その姿はまるで腕のいい彫り師が精魂込めて端正に作り上げた彫像のようで、わたしは思わず彼の名を呟いていた。
銀色の髪に月の光を浴びていた人ならざる者が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「気がついたか。
……ルーイ、でいい。」
わたしの髪を弄ぶようにしながら、彼ははじめて心から微笑んだように見えた。
「……わたし、どうなったの……?」
ふと胸元に手をやると、先刻ルードヴィヒからつけられた牙の痕は跡形もなく消えていた。
「お前は、闇の世界へ生まれ変わったのだ。
……これからはセラフィナ、と名乗るがいい。」
「セラフィナ…?」
「ヘブライ語で”天使”という意味だ。」
闇の世界の天使。
普通はそれを悪魔と呼称する。
そう思ってわたしはすこしおかしかったが、それでも新しい名前をとても気に入った。
ただ色分けされただけの”ヴァイオレット”より余程いい。
わたしは上半身を起こすと、新しい瞳で世界を見回した。
古くなって所々腐りかけている木の床板も、汚れて剥がれかけている壁紙も、継ぎ接ぎだらけのカーテンさえ、何故か生まれ変わったように美しく見える。
「新しい世界のしきたりを教えておこう。」
ルードヴィヒは指を折って数えながら教えてくれた。
これから生きていく為には他者の生き血が不可欠なこと。
基本的には不老不死であること。
太陽の光を浴びれば死んでしまうこと。
闇の眷属、ヴァンパイアと呼ばれる者の力について。
「生きていくうちにおいおい実感出来るようになるだろう。」
そう言って、彼は説明をしめくくった。
指で自分の口の中を探ると、わたしにもルードヴィヒと同じ牙が生えているのが解る。
これで、わたしも誰かの血をすするようになるのだ。
「そろそろ朝陽が昇る。 帰らねばな。」
「帰っちゃうの? ルーイ。」
わたしはまるで親に見捨てられそうな子供のように、ルードヴィヒに取りすがる。
そんなわたしの髪を優しく撫でると、彼は言った。
「明晩、また来る。 ”狩り”を教えてやろう。」
それは、二人だけの秘密の計画。
わたしは嬉しくなって、素直に頷いた。
人間という殻を破り、吸血鬼の世界へ生まれ出でたばかりのわたしはインプリンティングされた雛そのもの。
ルードヴィヒに対してとても従順になってしまったわたしをそこに残して、彼はここでのねぐらにしているという町外れの地下墓地へと帰っていった。
ヴァンパイアとなったわたしにとって、娼婦という職業は好都合だった。
昼間、光が入らないよう鎧戸を下ろして部屋に籠もっていても誰も怪しまないのだから。
陽が落ちると、わたしはベッドから起き出して身支度をして酒場へ降りていった。
他の娼婦たちやおかみさんはわたしが昨日までのわたしとは違う生きものになってしまった事について髪の毛の先程も気づいていない。
わたしは嬉しくなって自然と笑みが浮いてきた。
こんなに心が軽く、楽しい気分になったのははじめてのことかもしれない。
やがてルードヴィヒがやって来て、わたしと赤毛の女を指名した。
男が金持ちでありさえすれば、ひとりの男に二人の女がつくのは珍しいことではない。
ふたりのヴァンパイアとひとりの人間は連れだって二階へ上がった。
ルードヴィヒが先に部屋に入り、赤毛の女が続く。
女は何も気づかない様子でいつもの煙臭い息を吐きながら、その癖の強い髪をいじっていた。
わたしが後ろ手で扉を閉めると、ルードヴィヒとふたりで赤毛の女を挟む形になる。
彼とわたしが目配せした気配でようやく異変を感じたのか、彼女は怪訝そうにわたしと彼の顔を交互に見た。
「……何なのさ。」
彼女の顔がわたしの方を向いた瞬間、ルードヴィヒが音もなく彼女の背後に忍び寄る。
彼は女に声を出させる間も無く片手で口を塞ぐと、もう片方の手を首筋に当てた。
たったそれだけの事で、彼女は微動だにしなくなる。
「…こ…殺したの?」
彼女が死んだってわたしの心は痛くも痒くもないが、ルードヴィヒのあまりの早業に度肝を抜かれていたのだ。
倒れかける彼女を彼は片手で軽々と支えると、ゆっくりと床へ横たえる。
「まだ、生きている。 睫毛一本動かせぬがな。」
彼はわたしを手招きすると、彼女の身体をベッドへと移動させた。
「ヴァンパイアは人間よりも速く動き、強い力を出すことが出来る。」
「今…ルーイがしたみたいな事も出来るようになる?」
「いずれはな。
最初のうちは力業で獲物を捉える。」
ルードヴィヒはろう人形のように固まっている女の服の襟元を引き裂くと、わたしに首筋の一点を示した。
わたしが頷くと、彼はその場所に牙を埋める。
彼の喉がゆっくりと上下し、彼女の身体から生命の源となる液体が彼の方へ飲み込まれてゆくのが解った。
わたしがやり方を見てとった頃合いを見計らって、彼はその身を起こす。
彼の顎に「やってみろ」と促されて、わたしは先刻彼が噛みついたのと全く同じ位置に自分の牙を当てた。
女の体内を駆け巡る予定だった血液が、わたしの喉へと流れ込んでくる。
それは今まで想像したことも無かった、とてもとても甘くて暖かいもの。
どうやら、ヴァンパイアとなることによって視覚だけでなく味覚も変化したらしい。
ルードヴィヒが言っていたように、本当にわたしは生まれ変わったようだった。
わたしが彼女の身体から生命の源となる液体を一滴残らず吸い尽くして身を起こす
と、彼は満足そうに言った。
「まだまだ教えるべきことは沢山ある。
が、これで最低限の力の使い方は解っただろう。
……明晩、お前の為すべき事を成すがいい。」
わたしは頷いて、薄く笑みを浮かべた。
<続劇>
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