Fallen Angel その1


 〜Prologue〜

「アニタ。」
 
 ねっとりと絡みつくような闇の中。
 時間も空気の流れも全て止まっているかのような錯覚を受ける程、静謐で死の臭いに溢れたその場所。
 その静けさと停滞した運命の流れを切り裂くように、声が響いた。
 それは決して鋭くはなく、むしろ落ち着いた音だった。
 高すぎず低すぎず乾いた声が呟くように呼んだのは一人の女性の名前。
 そして、彼女は今やそこにいる。
 最初に声が響いた位置から数段下がった床の上に、きちんと膝をついて。

「お側に。」

 流れるような金髪の頭を下げたまま、うやうやしくアニタが答える。
 腰まで届く頭髪からの流れはまるで髪そのものが別個の生き物であるかのように、闇の中できらめいていた。
 伏せられた長い睫毛、細く尖った顎。
 彼女は彫刻家が精魂込めて彫り上げたヴィーナス像のように端正な顔立ちを有していたが、その白い肌からは生気や明るさといった要素がごっそりと抜け落ちている。

「……僕の天使に、伝言を。」
「仰せのままに。」
 
 声は決して柔らかさを失わなかったが、アニタの身体に僅かな緊張が走った。
 僅かに瞼が開き、まるで魂は氷で出来ているとでもいうように冷徹な輝きを宿した瞳の色がその隙間からのぞく。

「解るんだ、僕には。
 僕の天使に大きな感情の揺らぎがあったことが。」
 
 その声はまるで独り言のように淡々言葉を続ける。
 はなから彼は、跪いた姿勢を崩さないアニタの返事など必要としていないのだ。
 それは返答を聞く間でも無く、彼女が自分に従うということを確信しているからなのだろう。

「僕らの間には……深い、深い……絆があるんだよ。
 愛しい天使。 失われた半身。」

 声は歌うような抑揚でそう言った。
 だが、特に興奮した様子はない。
 当たり前の事を当たり前に述べることによって、その事実を自分自身で追認しているかのように。
 そして、その声の主はやっとアニタの存在に意識を戻す。

「……伝言の内容を伝える。」
「はい。
 一言一句違えずにお伝えすることを誓います。」

 決して低くも太くもないその声の威厳に打たれるかのように、アニタは僅かに身体を震わせながら誓いを立てた。



 1.Seraphina

 さして広くはない部屋。
 ここは、ベッドとクローゼットと僅かな小物だけで形勢された極端に物の少ない空間。
 ウィンフィールド・ドーリングのドーラー”セラフィナ”に提供された寮の中にある一室。
 闇の中で、白い天井がうすぼんやりと光っているように見える。
 部屋の中央に一人で佇んでいると、そこはまるで俗世から切り取られた永遠の闇の中のようにも思えた。
 しかし、自動空調によって制御された心地よい風が適度に空気をかき混ぜていて、その気配がここは現実の場所だと知らせてくれる。
 部屋の主であるわたし以外で、ここを訪れたことがあるのはたったのひとり。
 
『……なんも、あらへんね。』

 初めてここに来たとき。
 彼は驚き、次いで呆れたようにそう言った。
 わたしはその率直な感想に思わず吹き出してしまったものだった。
 その時、彼が何気なく手をついた壁の同じ位置にそっと片手を重ねる。
 身長差の関係で少し腕を上げないと届かない、そこに。
 そして、瞳を閉じると壁に額を預けた。

『そばに、いてくれないか?』

 あの台詞を聞いた日以来、わたしは彼とまともに話していない。
 試合の時も、口を開けばまたとんでもない言葉を吐き出してしまいそうで、ずっと黙っていた。
 あの日、彼の言葉が引き金になってそれを口にしてしまった時まで。
 わたしは、その未整理の感情をずっと認めたくなかったのだ。
 壬井 勝利という”人間”に対する、思慕の情を。
 ……彼の気持ちはとても嬉しかった。
 素直に頷いて彼の胸に飛び込むことが出来たなら、どんなに幸せだったろう。
 だが。
 わたしは”人間”ではない。
 彼はわたしの”吸血鬼”としての本当の姿を知らないのだ。
 アミュレットが無ければ、陽光を浴びるだけで一瞬で灰になってしまう吸血鬼。
 わたしは、ふと思い立っていつも首から下げているアミュレットの鎖を外すと、チェストの上に置いた。
 そして窓辺から入る月の光に頬を晒す。
 これが、本当のわたし。
 闇に蠢き、定命の者たちの血液をすすって生き延びるもの。
 わたしが今までに吸い取ってきた数多くの生命の事や、これからわたしが決着をつけねばならない”過去”を知っても、彼はまだわたしに傍に居てほしいと言ってくれるだろうか。
 いや、それどころか。
 もしかしたら、彼はその舌でわたしの肺腑を容赦無く抉るようになるかもしれない。  わたしは、その痛みに耐えられるだろうか。
 ……だが、それでも嫌われてしまう方がずっと楽なのだろう。
 彼が定められた時にその命の灯火を燃やし尽くすときも、わたしは今と寸分変わらぬ姿のままなのだから。
 将来必ず訪れると解っているその時が来るのが、もうこんなにも怖いのに。
 ………怖い。
 そう。
 わたしは、怖いのだ。


<続劇>




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