Fallen Angel その2
眠らない街。
夜になると太陽の代わりに煌々と電子の光が満ちあふれ、昼間より余程活気づく建物の密集した通り。
ひょっとしたら、そこは夜の魔法がかかっている間だけ華やかなシンデレラの街なのかもしれない、と思う。
この街の昼間の姿を、わたしはじっくりと見たことがない。
昼間外出するのは曇りか天気の悪い日と決めていたし、それも用事が終われば決して長居はしなかったからだ。
……世迷い事を。
吸血鬼である自分が、護符のお陰とはいえ昼間の街を多少なりとも覗ける事は奇蹟だというのに。
太陽の下、もっと光に溢れた場所に行ってみたいなどと願うのは馬鹿げたことだ。
所詮、魚は海の中。
空に憧れることに何の意味というのあるだろう。
少し気を抜けば、すぐに本能のままに襲いかかってしまう獣のくせに。
昼間見た、いつきの怯えた顔が脳裏に蘇る。
同じような表情を、もっと昔には数え切れない程見た……。
流れる人の波に紛れ、ぼんやりと歩きながら彼女は頭を振った。
さらり、と背中で髪が揺れる感触。
見上げた夜空に、細い月が浮かんでいた。
無目的に歩いているうちに厄介な場所に足を踏み入れていたらしい、とが気がついたのは男達にすっかり囲まれた後だった。
細い裏路地。
ネオンライトの殆ど届かないその場所で、身なりの汚いチンピラ以下の根無し草がいつの間にか彼女の周りに忍び寄っていた。
湿気と油と埃と腐った何かが入り交じった臭いが鼻をつく。
少し、面倒なことになったわね。
後頭部にまとわりつく気怠さを払うようにしながらわたしは考えていた。
でも、今はあのアミュレットは無い。
よって「血を得る際には許可を得なくてはならない」「決して殺してはならない」という枷はわたしを縛ることがないのだ。
ぞくぞくするような狩りの予感が背筋を昇ってくる。
わたしはすぐ近くまで迫っている彼らのどす黒い気配を感じながら、敢えてその歩みを止めた。
すると、すぐに男のひとりが姿を現す。
髭を伸ばしたい放題にし、汗と垢の臭いがすっかり身体に染みついた男。
手には大ぶりのナイフが握られている。
男の身体や洋服全体の煤けたような薄汚さの中で、ナイフの刃だけがきらきらと輝いていた。
「へ、へへ……大人しくしな、ねえちゃん。」
男の口腔内で赤いなめくじのような舌が蠢く。
わたしが無言で佇んでいるのを服従の証と取ったのか、じりじりと近づいてきてわたしの喉にナイフの刃を当てた。
ひやり、としたその金属の感触が合図になったかのように、わたしの中の獣がゆっくりと目覚める。
わたしと男の様子を遠くから伺っていたらしい同じような身なりの仲間がそれぞれの得物を持って次々と姿を現した。
この街に治安組織が無いわけではない。
無いわけではないが、いくら優秀な組織でもこういう輩を完璧に駆除するのは不可能だった。
そう、どの時代にも。
そしてずっと、その闇を利用することでわたしのような闇の子供達は生きながらえてきたのだ。
蘇る、天性の狩人としての感覚。
わたしは自分の唇の端に残酷な笑みが宿るのを感じた。
追いつめた筈の子猫が実はとんでもない肉食獣だったという事実に男たちが気がつくのに、そう時間はかからなかったようだ。
わたしは首筋を切られて多少の血を流していたが、逆にその痛みによって逆に感覚は冴えわたっていた。
その傷口も今やその傷をつけた男から得た血の活力によって治癒しつつある。
彼女は三人目の男の首筋から牙を離すと、唇の端についた僅かな飲みこぼしを舌で舐めとった。
そして吸血の精神的ショックで気を失い、ぐったりしたその身体を興味のない荷物のように地面に捨てる。
彼らの命に別状が無いよう、自然と吸血量を制限してしまう癖がついてしまっている事に内心いらだちを覚えながら、わたしは次の獲物へと視線を移した。
「ば……化け物!!」
仲間の敵を討とうと、逃げ出しもせず未だわたしを囲んでいる数人の勇気ある男たちの中から声が上がった。
たったそれだけの事。
しかし、その台詞によってわたしの中で荒れ狂っていた吸血鬼の本能が冷水を浴びせられたように一気に沈静化してゆくのを感じた。
わたしは男の台詞を心の中で反芻していた。
化け物。
昔は別にどうって事無い……むしろ、人を超えるものとしての褒め言葉とすら受け取ったものだけど。
また本能に負けてしまった自分への憤りと、決して自分が人間とは相容れない生物であることが再認されたことの悲しみが胸の中で渦を巻く。
そうして突然考えに沈んでしまったことで、どうやらわたしは男達に対して致命的な隙を見せてしまっていたらしい。
喉に焼けるような熱さを感じてふと俯くと、何やら金属の棒がすぐ眼下にある。
あら、と呟こうとした唇から言葉の代わりに血の泡がごぼり、と濁った音を立ててこぼれた。
<続劇>
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