Fallen Angel その12


 5.Seraphina

 夢を見ていた。
 ずっと昔、ルードヴィヒがいて、シャルルがいて、わたしが一番幸せだった頃の夢。
 シャルルのピアノに合わせて、わたしはルードヴィヒと踊っていた。
 二人は黒いタキシード、わたしは血のように紅いカクテルドレス。
 シャルルの細くて白い指が鍵盤を叩くと、スローテンポのワルツが生まれる。
 わたしは繊細な音に合わせてステップを踏みながら、少し背伸びをしてルードヴィヒの耳元へそっと囁いた。
 
『わたしを愛して。』
 
 ああ、これはおかしい。
 夢の中で言った自分の台詞を、わたしは不思議なほど冷静に分析していた。
 あの頃のわたしはルードヴィヒに愛されていると信じて疑っていなかった筈なのだから、こんな言葉が出る訳が無い。
”わたしを愛して。”
 それは、叶わなかった願い。
 そしてもう二度と、叶わない願い。

『……好きだ………。』

 囁き返される声と共に、背中に回った二本の腕がわたしを抱き寄せた。
 いつの間にかピアノの音色は止んで、辺りは闇に包まれている。
 頬を預けたその肩はいつの間にかルードヴィヒのものではなくなっていたが、わたしは何故かそれを当たり前のように受け止めていた。
 
『……嘘つき。』
 
 自然と唇が動く。
 顔を上げると、目の前に勝利がいた。
 彼が首を傾けるのにあわせて、わたしは少し踵を上げる。
 わたしと勝利の唇が触れあったかあわないかの刹那、轟音のようなピアノの不協和音が叩きつけられた。
 そして、鼓膜に突き刺さるシャルルの叫び声。
 
『認めない!
 たかが、人間如き……僕は、認めない!!』



 唇に何か暖かいものが触れたような気配で、わたしは目を覚ました。
 まだ半分夢の中にいるような気持ちで瞼を開くと、目の前に夢で見たのと同じ顔が心配そうにわたしの瞳を覗き込んでいる。

「……フィーナ……? …目ぇ覚ましたんか?」

 耳に届いた声も夢の中そのままのように思えて、わたしは朦朧としたまま彼の瞳を見つめ返す。
 ……勝利……?
 意識せず唇は動いたが、夢の中と違って声にはならない。
 まだ喉の傷が治るほど回復していないからだ、と気がついてわたしは一気に現実に引き戻された。

「なんや? 喋れへんのか?」

 わたしが寝ているベッドの傍らに立っている勝利が怪訝そうに言う。
 ……どうして?!
 どうして、ここに勝利がいるの?!
 唇をひき結びながら、わたしはその問いに対する答えはひとつしかない事が解っていた。
 ヴィンセントが知らせたのだ。
 それ以外に考えられない。
 ちゃんと伝えたのに……勝利に、わたしがここに居ることを知られたくないって伝えたのに!
 不意に、彼の手がわたしに向かって伸ばされる。
 反射的に一瞬身体をすくませると、彼の手を避けるようにぎゅっと目を瞑って慌てて布団を被った。
 白い布地の中の小さな闇に全身を隠してしまうと、わたしは自分で自分の震える肩を抱きしめる。
 ……見られたくなかったのに。
 まるで死人のような色をした肌を。
 血に飢えた獣のように血走った瞳を。
 決して人とは相容れない生きものである、吸血鬼としてのわたしの姿を。
 
「わい、フィーナのこと迎えに来たんよ。」

 厚手の布地越しに、勝利の声が響く。
 わたしは布団に潜り込んだままの姿勢で首を左右に振った。
 一緒に行けるわけないでしょう。
 あなたが見たとおり、わたしはあなたとは違うものなのだもの。
 いずれその違いがあなたを苦しめることになるだろうし、なによりシャルルにあなたを狙わせる訳にはいかない。
 だから、帰って。
 もう二度と逢わなければ、今わたしの中で荒れ狂っているこの感情も時間と共に霧散するだろうから。

「フィーナが行方不明になったて聞いて、わい、死ぬほど心配したんやで……。
 その前も、ずっと会われへんかったやろ。
 あれは、わいを避けとったんか?」 

 少しトーンの落ちた勝利の声が再び響く。
 心配してくれてた?
 会いたいと思ってくれてた?
 ……その言葉にほんの少しでも真実があるなら、わたしはもうそれで充分。
 避けてたのよ、勝利。
 あなたに会って、また気持ちが溢れ出せばわたしはまたどうしようもないことを願ってしまう。
 そして一旦願ってしまったら、あなたは不可能な筈のそれを叶えてくれようとするかもしれない。
 それによってなにもかもを壊してしまうのが怖かったから。
 わたしは膝を折り、自分の肩を抱いた姿勢のまま狭くて息苦しい白い闇の中でじっと動かずにいた。


<続劇>




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