Fallen Angel その5
アニタが伝言を口にし終えた後、暫くその場を沈黙が支配した。
例え、その時のわたしに口が利けたとしても、それはきっと変わらなかっただろう。
シャルルは未だに約束を果たすつもりでいる。
その事実はわたしに遠い昔のふたつの光景を思い出させた。
わたしの棺に一緒に眠ろうと潜り込んできたシャルルと交わした指切り。
そして、ルードヴィヒの死。
だが、その伝言の後半部分はもっと切実にわたしの胸を締め上げた。
『もしもきみを乱し、汚す者があればぼくが……放ってはおかない。』
シャルルは気がついたのだ。
わたしが数百年ぶりに涙を流す程、感情を揺れ動かされた事を。
だからわざわざメッセンジャーを寄越してわたしを牽制しようとしている。
これ以上、シャルル以外の存在にわたしの心が捕らわれないように。
そして必要ならわたしを惑わす存在を抹殺する、と。
そういう意味なのだと悟って、わたしの身体の隅々まで戦慄が走る。
……勝利のことを、シャルルはもう知っているのだろうか……。
「さて、わたくしの役目はここでお終いですわ。
伝言の意味、良くお考えになって下さいね。」
アニタはわたしの方を凝視し、何を考えているのか探ろうとしていたようだった。
それが成功に終わったかどうかはわたしの知るところでは無いが、彼女はわたしに暇乞いをすると薄く笑って立ち上がる。
「……そうそう、お節介かもしれませんが教えて差し上げます。
もうすぐ、夜明けでしてよ。」
確かに、彼女の言った時間の経過はわたしも肌で感じていた。
だんだんと夜の気配が薄らいでいる。
「では、ご機嫌よう。」
アニタは鮮やかに踵をかえすと、規則正しい靴音を残して立ち去っていった。
彼女の頭部の金色の波が見えなくなってから、わたしは溜め息を吐いた。
大きく息をしたことで、また喉が痛む。
ぼんやりしてきた頭とは逆に、痛覚だけが冴え冴えとわたしの身体を苛んでいた。
両脚はまだ動きそうにもない。
太陽が昇れば、アミュレットの無いわたしの身体を光が焼くだろう。
この路地裏の空の下、どこに身を隠す場所があるというのか。
アニタはそれを知っていて、わざわざ夜明けを告げた後わたしをこのまま放置したのだ。
……シャルルなら。
彼女ではなくシャルル本人が来たのなら、わたしを人間に襲わせたりはしなかっただろう。
こうやって、動けなくなったわたしを放っておくような真似も。
だが、彼は来ない。
それはきっとわたしとの約束を果たしてからでないと会ってはいけないと思っているのかもしれない。
そうでなければ迎えに来てはならない、と自分を律して。
『愛してるよ、ぼくの大切なフィーナ。』
ええ、そうね、良く知っているわ。
わたしも、あなたを愛しているもの。
でもあなたの言っているそれも、わたしのあなたに対する気持ちも……わたしが今、勝利に対して抱いている気持ちとは違う性質のもの。
わたしたちは、同じ罪を犯した咎人だから。
わたしはゆっくりと瞼を閉じると、大きく息を吐いた。
……勝利。
あなたは、わたしが灰になったら悲しんでくれるだろうか。
……もしも、少しでも悲しんでくれるとしたら……まだ死ねない。
わたしは動く両手を空にかざして、まだ夜の力が衰えていないことを確認した。
急いで、陽光の脅威から避難する必要がある。
一体どこへ行けばいいのか、残された力でどこまで行けるのかは解らなかったが、今ここで諦めてしまうわけにはいかなかった。
わたしは腕に勢いをつけて身体を裏返すと地面に腹這いになり、辺りを観察して、逃げ込めるような場所が無いかどうか探る。
完全に太陽の光を遮断出来、なおかつ、人間が居ないところ。
その条件で探すのは殆ど不可能のように思えたが、敢えてその思考を脳裏から閉め出した。
ここから行ける人家の窓や裏口はあったが、そこには必ず人間が居るだろう。
見つかったときどんな騒ぎになるのかが目に見えるようだ。
不法侵入の言い訳をしようとすればシャルルの事まで話さねばならなくなる。
それは絶対に避けなくてはならなかった。
優しくて深い夜の気配がどんどん薄らぎ、それとは逆に全てを薙ぎ払う恐怖の光の気配はどんどん濃くなってくる。
残された時間はあまり無かった。
焦って辺りを見回すわたしの目の前に、ふと地面にはまった丸い金属の板が飛び込んでくる。
……見つけた。
もう、ここしかない。
わたしは両手で必死に地面を掻き、重い体をその金属の蓋のところまで引きずっていった。
それは、地下へ通じる扉。
金属の板に詰まった窪みから土を取り除き、そこに指を掛ける。
力を込めて引っ張り上げると、それは多少抵抗した後にその口を開けた。
開いた瞬間から異常な悪臭が漂ってきて、わたしは僅かに顔をしかめる。
だが、その臭いなど生命の危険に比べれば些細な問題だった。
私は地面に開いた穴から殆ど垂直落下に近い形で地下へと滑り降りる。
ぬるぬるとした床にしたたかに腰を打ちつけ、また激痛が走った。
そこを、壁を伝うようにしてどんな角度になっても上から陽光が差し込んでこない位置まで移動してゆく。
すぐ目の前には、どす黒い色の水をたたえた汚水の川が流れている。
時々メタンの泡を吐き出しては強烈な臭いを発していた。
ぬるり、と手が汚泥で滑る度にわたしはその川に落ちないよう慌てて体勢を立て直す。
わたしは、あまりに自分に似合いの場所を見つけたことが可笑しくてたまらなかった。
命を多数奪ってきたわたしの業の深さに丁度良い。
もし私の喉が正常だったら、さぞ乾いた笑いを発していたことだろう。
<続劇>
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