Fallen Angel その6
3.Seraphina
目を瞑ってじっとしていると、すぐ近くを小さな獣が走り抜ける気配がした。
その僅かな血の臭いめがけて、わたしは素早く手を伸ばす。
わたしの手に捕まれたとぶ鼠は、必死に鋭い悲鳴を上げて逃れようと暴れていた。
だが、わたしは汚物にまみれたその汚い毛皮に容赦なく牙を立てる。
どぶ鼠は一瞬のうちに血を吸い尽くされ、乾いて動かなくなった。
抜け殻を濁りきった川へと放り込むと、小さな音を立ててその流れに飲み込まれて行く。
あれから、三日程の間に何度と無く繰り返された光景だ。
正確な時間は把握できていないが、確かに三度目の夜が来る気配がする。
わたしはこの地下で体力を消耗しないようなるべく動かず、近くに来る獣を捕食して命を繋いでいた。
しかし、獣の血では怪我を回復させる程の効果は得られない。
それでなくても、喉に穿たれた穴から吸った血の半分は漏れ出てしまうのだ。
病気にこそなりはしないものの、このままここにいてはいずれ意識を保つことすら危うくなってしまうだろう。
疲弊しきる前に、ここを脱出する必要があった。
脱出して、勝利の無事を確かめる必要も。
シャルルはまだ彼の存在に気づいてはいないのかもしれない。
だが、もし気がついていたとしたら……?
彼は勝利のことを放っておくだろうか。
わたしは気持ちを落ち着けて呼吸を整えると、身体を霧化する為に精神を集中させた。
邪魔をしようとする痛覚を、奮い起こした意志の力でねじ伏せる。
下水道に降りてからというもの、何度と無く挑戦したそれにわたしは三日目になってようやく成功した。
汚れ、破れた服が後に残されるが例え管理人がここへ足を踏み入れたとしても気にも留めないだろう。
身体に満ちる浮遊感を操りながら、わたしは霧になった身体でマンホールから地上へと脱出した。
三日ぶりに触れる新鮮な空気と辺りに満ちる優しい夜気と月の光に、少し心が和む。
霧が吹き散らされる心配の無い今夜の天候に感謝しながら、わたしは上空を飛んでいた。
……どこへ行こう。
まっすぐ勝利のもとへ彼の様子を見に行きたいのはやまやまなのだが、その前にわたしの体力が切れてしまう可能性の方が大きかった。
霧化しておける集中力が切れてしまったら、彼の前にこの汚れ傷ついた姿を晒す事になる。
血に飢え、まるで死人のように血管を浮き上がらせたこの肌を。
それは死んでも嫌だった。
いつも通り、とまではいかなくてもせめて人間のように見える姿でなければ彼の前に現れる訳にはいかない。
かといって、家に帰ったところでわたしを蘇らせてくれる糧は得られないだろう。
『どうしようもなく切羽詰まったら言えよ。
俺はいつでも構わねえから。』
不意に、ある男の台詞が思い出される。
何かとお節介な茶色い髪を持つ長身の男が、わたしが血に飢えているのを察して口にした台詞だった。
あの時は邪魔が入って実際にその精気を貰うことはなかったけれど。
今も、あの言葉は生きているだろうか。
わたしは、霧となった身体を目的地へ向けて飛んだ。
ウィンフィールド・ドーリング社屋に着いたとき、丁度男は会社から出てくるところだった。
ヴィンセント・シモンズ。
それが男の名前だ。
仕事漬けでいつも会社で寝泊まりする事の多い彼だが、どうやら今日は自分のアパートに帰るようだった。
わたしは一瞬逡巡した後、霧のまま彼の後を追うことにした。
彼は自分の車に乗り込み、オートドライブモードにセットするとそのまま眠ってしまう。
わたしは少し距離をとってその車の真上まで行くと、その位置を保ったままついていった。
暫く走ると、車はやや古い作りではあるものの、白くて綺麗なこぢんまりとした建物の駐車場に入って行く。
わたしはその駐車場には入らずにその建物の正面、部屋の扉が全て見える場所まで移動した。
わたしはヴィンセントがどの部屋の住人なのか知らなかったし、出来れば彼が部屋に入ろうとするところを捕まえたいと思ったからだ。
彼は全くわたしに気づかず、駐車場から二階へと上がって来る。
その階の中央に位置する部屋が彼の居城のようだった。
カードキーを差し込み、扉のロック番号を押す彼の背後へそうっと降り立つ。
そろそろ、集中力に限界が来ていた。
こんなに長い時間霧化していたのは初めてなのだ。
突然背後で起こった重い音にヴィンセントが驚いて振り向くと、足が使えない為に座り込んでしまっているわたしと丁度目があった。
汚れと飢餓で墓穴から這い出してきた死人同然のわたしの身体。
彼の茶色い瞳に映るわたしの姿は気味の悪い化け物以外の何者でもないだろう。
もし、彼がわたしだと気がついてくれなければわたしの命運もここまでだ。
わたしは喋れない事をもどかしく思いながら、ただ祈りをこめて彼の瞳を見つめていた。
「……お前………フィーナか?!」
彼は一瞬目を見開いた後、愕然としてそう言った。
……解ってくれた!
わたしは思わず安堵の吐息を漏らし、次いで首を縦に振る。
「何やってたんだ、三日も!
……って、その様子を見る限りじゃ、何かのっぴきならない事情があったんだな……?」
ヴィンセントは持っていた荷物を脇に放り出すと、わたしの目の前に屈み込んだ。
片手でわたしの顔に汚れと共に張りついた髪をかき分ける。
そうすることによってわたしの顔を確認すると同時に、わたしの首に刻み込まれている大きな傷痕も発見したようだ。
彼の眉根が寄せられ、厳しい表情になる。
「なんで裸で、なんでこんなに傷だらけなんだ。
……後でちゃんと説明して貰うぞ。」
低い声音でそう言った後、ヴィンセントはわたしの身体を抱き上げた。
器用に足で扉を開け、室内に入る。
ふむ、と唸った後で彼はこう言った。
「何はともあれ、まずは風呂だな。」
<続劇>
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