深きココロの淵より その5


「何を……したんや?」

 握った拳の中で爪が皮膚に食い込むのを感じながら、勝利は低い声で尋ねた。
 竜胆丸は彼の中に渦巻いている感情を察することが出来ず、嬉しそうに答える。

「彼らの心の中にある”今までの人生で一番痛い目に遭った記憶”を再現させましたの。
 大けがをなさったり怖い目に遭ったりなさってる方が多かったので、思ったより効果が大きかったみたいですの。」

 彼女は軽い口調だったが、それほど容易い事ではなかったというのは一目瞭然だった。
 一度に数十人の男達の心を探り、更に強力なイメージを送りつけて一種の催眠状態へ追い込むこと。
 それがどれ程の負担になるのか、勝利には解らない。
 だが、まだ血の気の戻らない頬を両手で押さえながら、大きな瞳で自分の顔を見上げている彼女を見ればある程度の推測はつく。
 まだまだあどけなさの残る顔。
 これが、彼女に秘められた精神感応能力者(テレパシスト)としての力なのか。

「……わいが無傷でも、りんちゃんがこないに消耗してしもうたら意味無いで……。」

 やりきれない思いで、勝利が低く呟く。
 少女を守る為に、何も出来なかった自分の無力さと情けなさを痛感しながら。
 だが、竜胆丸は思ってもいなかった事を言われたように目を見開いた。
 
「まあっ! 勿体ないお言葉ですけど、そのような事を仰ってはいけませんの。
 りんのような者には代わりが幾らでもいますけど、壬井院さまには代わりはいらっしゃいませんのですもの。
 貴顕の方を命を懸けてもお守り申し上げるのがりん達の使命ですの。」

 柳眉をつり上げて、諭すように言う。

「そもそも、”お役目”だって院さまの為になるようにと……。」
「そないな事言うたら、あかんっ!」

 竜胆丸の台詞を途中でひったくるようにして、勝利は鋭く言葉を発した。
 その意志が彼女の身体を物理的に叩いたかのように、竜胆丸は肩をびくりと震わせる。
「命に重い軽いがあってたまるかいな。
 りんちゃん、自分のことをもっと大切にせなあかんよ。」
「で、でも……。」

 竜胆丸はそれでもまだ何か抗弁しかけたが、勝利の迫力に気圧されて後の部分を飲み込んでしまう。
 彼のいつにない厳しい表情を見上げる彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「あ、あ、あ、泣かんといてえな。」
 
 とことんまで女性に弱い勝利は、慌ててなんとか笑顔らしきものを作る。
 と、その時。
 勝利の顔を見上げていた竜胆丸の視線がふと、中空にそれる。
 彼女の神秘的な色の瞳はここから見える何者をも捉えてはいない。

「ペンさま…。」

 彼女が一番敬愛する存在の名が、震える唇から漏れる。

「?
 ペンギンはんの治療、済んだんか?
 ……そやな、そういえばそういう時間かもしれへんな。」

 勝利は彼女がまたペンギンとテレパシーでやりとりしているという事を悟って、そう言った。
 だた、その心の会話の内容はあまり芳しいものではなかったらしい。
 竜胆丸の表情が純粋な怒りで青ざめてゆく。

「ど、どないしたん?」

 竜胆丸は勝利の質問など耳に届かなかったといった風情で動物病院の扉に飛びついた。
 彼女の渾身の力でそれは開け放たれる。
 あまりの勢いに壁に当たり、跳ね返ろうとするそれを勝利は慌てて押さえた。
 病院の待合室で待つ犬や猫、バードゲージの中の鳥たちが突然の闖入者に怯えて騒ぎ出す。
 老若男女の飼い主たちはペット達ほどの恐慌は見せなかったものの、入ってきた女の子に怪訝そうな視線を向けた。
 竜胆丸は周りの様子には一切構わず、思い詰めたように表情を強ばらせたまま大股で奥の診察室へ向かって行く。
 勝利は彼女の様子にただごとではない何かが起こっているのを感じて、素早く彼女の後を追った。
 診察室のドアが竜胆丸の手で開け放たれると、二人の看護婦が慌てて彼女のところへやってきた。

「お嬢ちゃん、まだ他の患者さんがいるから……。」
「受付で名前が呼ばれるのを待ってから、ね……。」

 二人が口々に何か言いかけるのへ、竜胆丸は無言のまま鋭く両手の人差し指を二人の看護婦のそれぞれの額へ向ける。
 たったそれだけの動作で、彼女たちの動きは封じられてしまった。
 まるで、生気まで再現した精緻な人形であるかのように微動だにしなくなってしまう。 勝利は彼女がまたその力を行使した事を悟って、小さく舌打ちをした。
 先刻の消耗状態から彼女があの短時間で回復しているとはとても思えない。
 彼女に自分の身体を省みている暇はないと思わせる程の事が、その奥で起こっているというのだろうか。
 診察室の奥にある診察台へ、竜胆丸はまっすぐに向かっていた。
 勝利は彼女に続いて部屋に入ると、後ろ手でドアを閉めた。
 硬直している二人の看護婦の顔を見て、こんな場合でなかったら口説くのに時間は惜しまないのに、という悠長な考えが一瞬脳裏を過ぎる。
 だがしかし、それはやはり彼の妄想のままで終わるのだった。


<続劇>




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