深きココロの淵より その6
診察台の上には、身体をベルトで固定されたペングリフォンの姿があった。
何か薬をかがされてでもいるのか、その四肢はぐったりとしたままだ。
彼の上にはレントゲン撮影に使用される四角い器具がその金属の腕を伸ばしている。
白衣を纏った壮年の男は、突然乱入してきた少女に驚きを隠せない様子だった。
だが、その驚きは単なる少女の出現によるものというよりも、治安機関に犯罪現場を見つかった不心得者のそれに近いようだ。
医者は舌を僅かにもつれさせながら、言葉を発した。
「な……なんだね、まだ、君を呼んではいないよ?」
「ペンさまを今すぐ離すですの。」
竜胆丸は多分に怒気を孕んだ低い声音でそう言う。
正面から言われた訳ではない勝利すら、背筋に氷を押しあてられたような気になる程の冷気を伴った台詞。
きっと彼女はペングリフォンを取り戻す為ならどんな犠牲も厭わないのだろう。
だが、と勝利は思った。
またあの力を使えば、今度こそ彼女は倒れてしまうかもしれない。
それを防ぐ為に、勝利は大股で診察台の傍らまで歩み寄った。
「あんさんが何したろと思うてたか、こないなトコにこないなもんがある時点で一目瞭然ちう奴やな。」
勝利は診察台の片隅に乗せられていた大きな金属製のバットの中に入っている手術道具一式の中から大きめのメスを選び出すと、それでペングリフォンを戒めているベルトを切断した。
「き…君! 何をするんだ!
その生物は、人の意志が解る程の頭脳を有しているらしいのだぞ!
その仕組みが解れば、医学界…いや、世界の大発見になるやもしれん!
医者として研究するのは義務だろう!!」
医者は竜胆丸とのにらみ合いの呪縛がとけたかのように、一気にまくし立てた。
それを聞いて、竜胆丸は柳眉をきつく逆立てる。
「…そんな…そんな事は……。」
「主旨了解したんやけど、飼い主の許可も取らず独断でこないな事したろと思うんは感心でけへんな。」
今にも怒りを炸裂させんとした竜胆丸の台詞を片手で押し止めて、勝利は言った。
「とにかく、ペンギンはんは返してもらうで。」
手術台の上から麻酔で身体に力が入らないらしいペングリフォンを両手で持ち上げると、勝利はきっぱりと言い放った。
医者は歯を食いしばって握った拳を震わせてはいたが、体格差を見て不利を悟ったのかこれ以上勝利にくってかかる気は無いらしい。
「りんちゃん、帰ろうや。」
これで用は済んだのだから竜胆丸は力を使わなくて済む、と勝利が安堵して彼女の方を振り向いたその時。
彼女は医者の額に向けてまっすぐに五指を伸ばしていた。
「う…うぁっ…。」
低く呻いて、気を失った医者の身体がその場にくずおれる。
勝利は自分の考えの甘さに歯ぎしりをしながら、竜胆丸のもとへ駆け寄った。
「りんちゃんっ!」
案の定、力を使った反動で竜胆丸は肩で息をしている。
男達との乱闘が無ければ、さして労力を要する作業では無かったのかもしれない。
だが、連続して力を使ったことで普段よりもその負担は倍加しているようだった。
駆け寄ってきた勝利に竜胆丸は血色の戻らない顔色のままながらも、笑顔を見せた。
「ありがとうございますの。
ペンさまを…救って頂きまして…。」
「わいは何もしてへんよ。
それよりも、なんで力をつこたんや。」
勝利は先刻、きつく咎めて泣かせてしまいそうになった事を思い出しながら、少し押さえた口調でそう言った。
彼の責めるような声音に戸惑いながら、竜胆丸は彼の瞳をまっすぐ見上げる。
それでも片手で胸を押さえ、乱れる息を整えようとしながら彼女は誠実に答えた。
「あの方が今日ペンさまに会ったという記憶を封印して置かないと、きっとまたペンさまを狙うに違いありませんの。
だから……。」
「りんちゃんのそないな気持ちもわからへん訳やないけど、ほんまええ加減にしておかな……。」
そこまで言いかけて、勝利は待合室の方がやけにざわついているのに気がついた。
「看護婦さん、看護婦さーん!」
「いくら呼んでも誰も出てきませんなあ……どうなっとるんですかな。」
「ええ……変ですわねえ。」
医者は患者もそっちのけにしてペングリフォンを解剖しようとしていたのだろう。
その上、それを上手くフォローする筈の看護婦二人を竜胆丸が硬直させてしまったのだ。
確かに、騒ぎになってもおかしくはない。
「話は後や。 りんちゃん、逃げるで。」
勝利は素早く室内を見回すと、裏口の扉を見つけた。
それを指し示すと、彼は竜胆丸の背中を押す。
「はいですの。」
彼女は素直に頷いて彼の指示に従った。
だが、外に飛び出す直前に勝利は竜胆丸の襟首を指でとんとんと叩く。
何事かと振り返った彼女に、未だに固まったままでいる看護婦二人のほうを指さした。
「あれ、どうにかせんと。」
「はいですの。」
竜胆丸は彼の言に従って、一度大きく両手を打ち鳴らした。
パン、という小気味よい音が辺りに響いて、二人の看護婦はまた動き始めた。
彼女らの目に留まらぬように、勝利は素早く裏口の戸を閉める。
こうして、二人と一匹は動物病院から脱出した。
<続劇>
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