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鎌倉・松葉ヶ谷・竜の口 |
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日蓮大聖人足跡 |
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松葉ヶ谷(まつばがやつ) |
松葉ヶ谷の法難 |
1260年(文応元年)8月27日、松葉ヶ谷の草庵で、日蓮大聖人が念仏者たちに襲われた法難です。大聖人は、1256年(康元元年)頃から全国各地に起こった飢饉や疫病を、真言・念仏・禅・律宗などの僧が法華経を誹謗するゆえであるとして、幕府に訴えつづけられました。そして1260年(文応元年)7月16日、大聖人は宿屋左衛門尉を仲介として、北条時頼に一刻も早く念仏等の誤った宗教を捨てて正法に帰依するように勧めた立正安国論を提出しました。しかし、このことは幕府の権力者達の怒りにふれ、また念仏者を始め諸宗の僧達も大聖人に恨みを抱き、8月27日、北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾とした念仏者達が深夜に松葉ヶ谷の草庵を襲撃しました。大聖人はこの難を逃れ、一時、鎌倉を出て下総(しもうさ)国(現在の千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられました。1年後に再び鎌倉で新しい草庵を構えました。以後、幕府側は大聖人を伊豆・伊東へ無実の罪で流罪(伊豆流罪)にするなど、様々な迫害を加えていったのです。![]() |
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長勝寺(ちょうしょうじ) |
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長勝寺 | ![]() |
名越松葉ヶ谷の町を通るJR横須賀線。左の屋根は長勝寺。 |
松葉ヶ谷にある寺。歴史について諸説があるため割愛します。 この寺では日蓮大聖人がこの寺に草庵があったことを主張していますが、この説は現代において有力ではありません。 「長勝寺」バス停から徒歩1分ですが、バスの運転本数が1時間に2本しかないため、鎌倉駅から歩いたほうが早いです。旧松葉ヶ谷の安国論寺と妙法寺から徒歩5分ぐらいです。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
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安国論寺(あんこくろんじ) |
妙法寺(みょうほうじ) |
日蓮大聖人辻説法跡(にちれんだいしょうにんつじせっぽうあと) 俗称:日蓮上人辻説法跡 |
![]() 観光地図には「日蓮上人辻説法跡」とかかれています。 |
ここは日蓮大聖人は諸宗を破折し、説法した場所です。当時念信仰者が多かった鎌倉では日蓮大聖人に向かって石を投げる人もいました。それにも負けず日蓮大聖人は説法を続けました。
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収玄寺(しゅうげんじ) |
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旧四条金吾邸だった所に出来た寺です。民家の中にある小規模な寺です。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
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竜の口 龍口寺(たつのくち りゅうこうじ) |
竜の口の法難 |
![]() 極楽寺 |
1271年(文永8年)9月12日、日蓮大聖人が竜の口で斬首刑に処せられようとした法難です。法難の発端は、日蓮大聖人と祈雨の勝負に敗れた極楽寺良観が、幕府要人にとりいって種々画策したことに始まりました。それを受けて侍所所司の平左衛門尉頼綱は多数の武装した兵を連れて、松葉ヶ谷の草庵を襲いました。 |
平左衛門尉の家来の1人である少輔房が走り寄って来て、日蓮大聖人が懐に持っていた法華経第五の巻を取り出して、それで日蓮大聖人の顔を3回殴りつけて、さんざん打ち散らしました。また残り九巻の法華経を兵士たちが打ち散らして、足で踏み、身に巻きつけ、板敷きや畳など家の二三間(家一面)に散らさないところがなかったのです。この時日蓮大聖人は大声を放って言いました。「なんと面白いことか、平左衛門尉が物に狂う姿を見よ。おのおの方は只今、日本の国の柱を倒しているのである」』(種種御振舞御書
P.912)と。荒れ狂っていた兵者たちは今回の逮捕は間違いではないかと驚き、一瞬静まり返りました。日蓮大聖人はこれを法華経巻5勧持品第13にある「法華経の行者は悪口罵詈等され、刀杖を加えられる」(取意)との文を身で読んだことになると確信されました。日蓮大聖人の身柄は一時、北条宣時の邸に預けられ、何の取調べも無く深夜陰蜜裏に竜の口の処刑場へ連れ出されました。 |
![]() 鶴岡八幡宮 |
多宝仏、十方の諸仏や諸天善神、八幡大菩薩などの諸天善神が、「私どもは末法に法華経を広める法華経の行者を守ります」と誓ったことが法華経陀羅尼品で説かれています。この誓いにもかかわらず、今法華経の行者の日蓮大聖人が捕われて頸の座にすえられようとしているのに、八幡大菩薩は何故この日蓮大聖人を守って、仏への誓いを果たさないのだと叱咤されたのです。 |
日蓮大聖人は依智に滞在すること20日余り。その間に鎌倉では放火が7〜8度あり、人殺しが耐えなかったのです。幕府では、讒言する者どもが「日蓮の弟子たちが火をつけたのだ」」というので、「そういうこともあるだろう」ということで、大聖人の弟子らを鎌倉に置いてはならないと、その対象者として260人程の名前が列記されました。そして、「その者たちは、皆、遠島へ流すべきである」「牢に入っている弟子たちは頸をはねるべきである」との声が上がりました。しかし「放火」などは、持斎や念仏者の策謀だったのです。まさに『三障・四魔・紛然として競い起る』です(御書P.916)。日蓮大聖人は「日蓮は仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆(どうりゅう)、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、北条時宗殿がおいでにならなければ、どうして法華経の行者となれただろうかと喜んでいるのである」と仰せです。![]() この後、日蓮大聖人は佐渡流罪となり、1271年10月10日に依智を出発して佐渡へ向かわれました。佐渡滞在中に多くの御書を顕されました。流罪赦免後、一時は幕府が日蓮大聖人を尊重する気配を見せましたが、大聖人が仰せのとおり謗法への帰依を止めて正法に全面的に帰依するという姿勢ではありませんでした。3度国を諌めても用いなければその国を去るべきであるとの習いに従い、日蓮大聖人は鎌倉を出て身延山に入りました。2度にわたる蒙古襲来が起き(他国侵逼難)、北条家のご一門に同士討ちが起きました(自界叛逆難)。日蓮大聖人が言われていたことは全て的中し、鎌倉幕府は滅亡しました。 右の写真: 鎌倉のアジサイ |
鎌倉とその周辺の会館 |
鎌倉文化会館 |
お知らせ これらの会館の所在地・電話番号などは 公表できませんのでご了承下さい。 |
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横須賀平和会館 |
横須賀文化会館 |
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三崎会館 |
「神奈川広宣流布の碑」(三崎会館内) |
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鎌倉・片瀬江ノ島へのアクセス |
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