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鎌倉・松葉ヶ谷・竜の口
日蓮大聖人足跡


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松葉ヶ谷(まつばがやつ)
nichiren1253年(建長5年)4月28日、日蓮大聖人が32歳の時に、清澄寺の旭ヶ森で日の出を見ながら立教開宗することを決意して題目を唱えました。立宗宣言で他宗を破折している日蓮大聖人を見て、念仏の強心者であった東条景信は憤って、説法の後で山の中で待ち伏せして日蓮大聖人の命を狙いました。29日に小湊へ向かい日蓮大聖人の御両親に会いました。やむを得ずその日のうちに日蓮大聖人は当時政治の中心地であった鎌倉へ向かって出発し、5月に鎌倉に到着し、その後名越(なごえ)の松葉ヶ谷で草庵を構えました。松葉ヶ谷は長い間『名越松葉ヶ谷』といわれていました。

伊豆流罪の3年間を除いて、佐渡流罪までの約15年間この地で弘教され、数多くの弟子が生まれました。
鎌倉市の南東部(鎌倉市と逗子市の境付近)に位置する松葉ヶ谷では、現在「草庵跡」と言われている寺が3ヶ所あります。それは『妙法寺・安国論寺・長勝寺』です。

鎌倉幕府は1192年に設立しました。当時、天変地夭(てんぺんちよう)、飢饉や疫病がまるで天下に満ち、広く地上にはびこっていました。牛や馬はいたるところで死んでおり、死骸や骨は道路にいっぱいに満ちていました。すでに大半の人々が死を招いていたのです。世の人々は皆、正法に背き、ことごとく悪法に帰していたのです。そのため守護するべき諸天善神は国を捨てて去ってしまい、聖人はこの地を去って他の所へ行ったまま帰ってこないのです。代わって魔や鬼神がやって来て、災いが起こり、難が起きていたのです。


松葉ヶ谷の法難
1260年(文応元年)8月27日、松葉ヶ谷の草庵で、日蓮大聖人が念仏者たちに襲われた法難です。大聖人は、1256年(康元元年)頃から全国各地に起こった飢饉や疫病を、真言・念仏・禅・律宗などの僧が法華経を誹謗するゆえであるとして、幕府に訴えつづけられました。そして1260年(文応元年)7月16日、大聖人は宿屋左衛門尉を仲介として、北条時頼に一刻も早く念仏等の誤った宗教を捨てて正法に帰依するように勧めた立正安国論を提出しました。しかし、このことは幕府の権力者達の怒りにふれ、また念仏者を始め諸宗の僧達も大聖人に恨みを抱き、8月27日、北条重時ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾とした念仏者達が深夜に松葉ヶ谷の草庵を襲撃しました。大聖人はこの難を逃れ、一時、鎌倉を出て下総(しもうさ)国(現在の千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられました。1年後に再び鎌倉で新しい草庵を構えました。以後、幕府側は大聖人を伊豆・伊東へ無実の罪で流罪(伊豆流罪)にするなど、様々な迫害を加えていったのです。

moon釈尊は未来を予言して『私の入滅後、正像2000年が過ぎて末法の始めに、この法華経の肝心である題目の五字(妙法蓮華経)だけを弘める者が出現するであろう。その時には、悪王や悪比丘等が大地の微塵よりも数多くいて、あるいは大乗、あるいは小乗などをもって互いに競い合っているのであるが、この題目の行者に(折伏をもって)責められるために、在家の檀那等をそそのかして、あるいは悪口を言い、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは頸をはねるべきである、等と言って(脅迫しようと)も、退転せずに正報を弘めるならば、これらの迫害者たちは国王は同士討ち(自界叛逆難)をはじめ、餓鬼の様に身を食い、後には他国から攻められる(他国侵逼難)であろう。これは、ひとえに、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日月・四大天王等が、法華経の敵である国を他国から責めさせるのである』と説かれているのです。まさに予言は的中しました。


鎌倉地図

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長勝寺(ちょうしょうじ)
choshoji01 長勝寺 jrsukasen01 名越松葉ヶ谷の町を通るJR横須賀線。左の屋根は長勝寺。
松葉ヶ谷にある寺。歴史について諸説があるため割愛します。
この寺では日蓮大聖人がこの寺に草庵があったことを主張していますが、この説は現代において有力ではありません。
「長勝寺」バス停から徒歩1分ですが、バスの運転本数が1時間に2本しかないため、鎌倉駅から歩いたほうが早いです。旧松葉ヶ谷の安国論寺と妙法寺から徒歩5分ぐらいです。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
  • フリータイム:20分
  • 所在地:神奈川県鎌倉市材木座2-12-17
  • アクセス:
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から徒歩約25分。
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から、京浜急行バス「名越経由新逗子駅行」で6分(渋滞時以外)。「長勝寺」下車、徒歩1分。


安国論寺(あんこくろんじ)
ankoku01 松葉ヶ谷の草庵が襲撃されたときに日蓮大聖人が一時難を逃れたといわれている洞窟(南面窟・なんめんくつ)があります。ここも松葉ヶ谷の草庵跡の説があります。
「名越」バス停から徒歩約3分ですが、バスの運転本数が1時間に2本しかないため、鎌倉駅から歩いたほうが早いです。旧松葉ヶ谷の妙法寺から徒歩1分で、長勝寺から徒歩約5分です。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
  • フリータイム:20分〜30分(月曜は閉門)
  • 所在地:神奈川県鎌倉市大町4-4-18
  • アクセス:
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から徒歩20分。
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から、京浜急行バス「名越経由新逗子駅行」で4分(渋滞時以外)。「名越」下車、徒歩3分。
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南面窟


妙法寺(みょうほうじ)
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妙法寺
1357(延文2)年に建立した寺。苔(こけ)の石段で知られているため、『苔寺』とも言われています。
妙法寺は草庵跡と思わせる所があります。妙法寺のほかに安国論寺も草庵跡だったとも言われています。
「名越」バス停から徒歩約3分ですが、バスの運転本数が1時間に2本しかないため、鎌倉駅から歩いたほうが早いです。旧松葉ヶ谷の安国論寺から徒歩1分で、長勝寺から徒歩5分ぐらいです。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
  • フリータイム:20分〜1時間(7月中旬〜9月中旬と1〜3月中旬は土曜・日曜のみ開門)
  • 所在地:神奈川県鎌倉市大町4-7-4
  • アクセス:
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から徒歩20分。
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から、京浜急行バス「名越経由新逗子駅行」で4分(渋滞時以外)。「名越」下車、徒歩4分。
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草庵跡


日蓮大聖人辻説法跡(にちれんだいしょうにんつじせっぽうあと) 俗称:日蓮上人辻説法跡
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観光地図には「日蓮上人辻説法跡」とかかれています。
ここは日蓮大聖人は諸宗を破折し、説法した場所です。当時念信仰者が多かった鎌倉では日蓮大聖人に向かって石を投げる人もいました。それにも負けず日蓮大聖人は説法を続けました。
  • フリータイム:5分
  • アクセス:
    • JR横須賀線・江ノ電「鎌倉」駅から徒歩9分。


収玄寺(しゅうげんじ)
shugenji01 旧四条金吾邸だった所に出来た寺です。民家の中にある小規模な寺です。営業時間と休業日を確認してからお楽しみください。
  • フリータイム:5分
  • 所在地:神奈川県鎌倉市長谷2-15-12
  • アクセス:
    • 江ノ電「長谷」駅から徒歩2分。


竜の口地図
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竜の口 龍口寺(たつのくち りゅうこうじ)
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龍口寺入口付近の左側
現在、「竜の口」という地名はありません。日蓮宗身延派の寺で、1337年(元延2年)に「龍ノ口刑場」跡地に建てられました。ここには五重塔もあります。
1271年(文永8年)9月12日深夜、日蓮大聖人が、平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)によって、江の島付近にあった竜の口の刑場で斬頸(ざんしゅ)されそうになりました。まさに切られそうになった瞬間、空の江ノ島の方向から丸い光り物が現れて太刀取りは目がくらんで、処刑が出来ませんでした。この光り物とは「おうし座流星群」の説が有力です。
右の写真は「竜の口の法難」の記念碑です。 但し斬首しようとした具体的な場所は『東浜(ひがしはま)』だったという説が有力です。
  • フリータイム:10分〜1時間
  • 所在地:神奈川県藤沢市片瀬3-13-37
  • 交通
    • 江ノ電「江ノ島」駅から徒歩3分。
    • 湘南モノレール「湘南江の島」駅から徒歩2分。
    • 小田急江ノ島線「片瀬江ノ島」駅から徒歩8分。
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龍口寺の山を背景に走っている江ノ電


竜の口の法難
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極楽寺
 1271年(文永8年)9月12日、日蓮大聖人が竜の口で斬首刑に処せられようとした法難です。法難の発端は、日蓮大聖人と祈雨の勝負に敗れた極楽寺良観が、幕府要人にとりいって種々画策したことに始まりました。それを受けて侍所所司の平左衛門尉頼綱は多数の武装した兵を連れて、松葉ヶ谷の草庵を襲いました。
 平左衛門尉の家来の1人である少輔房が走り寄って来て、日蓮大聖人が懐に持っていた法華経第五の巻を取り出して、それで日蓮大聖人の顔を3回殴りつけて、さんざん打ち散らしました。また残り九巻の法華経を兵士たちが打ち散らして、足で踏み、身に巻きつけ、板敷きや畳など家の二三間(家一面)に散らさないところがなかったのです。この時日蓮大聖人は大声を放って言いました。「なんと面白いことか、平左衛門尉が物に狂う姿を見よ。おのおの方は只今、日本の国の柱を倒しているのである」』(種種御振舞御書 P.912)と。荒れ狂っていた兵者たちは今回の逮捕は間違いではないかと驚き、一瞬静まり返りました。日蓮大聖人はこれを法華経巻5勧持品第13にある「法華経の行者は悪口罵詈等され、刀杖を加えられる」(取意)との文を身で読んだことになると確信されました。日蓮大聖人の身柄は一時、北条宣時の邸に預けられ、何の取調べも無く深夜陰蜜裏に竜の口の処刑場へ連れ出されました。
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現在の
「若宮大路」
 若宮小路(現在の若宮大路らしい)に出て、四方を兵士が取り囲んでいましたが、日蓮大聖人は「皆騒ぎなさるな。他のことではない。八幡大菩薩に最後に言うべきことがある」と言って馬から下りて大声で以下のように言いました。『いかに八幡大菩薩はまことの神か〜〜〜(中略)〜〜〜教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいた(痛)しと」・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべし・・・』(御書913ページ)と日蓮大聖人は八幡大菩薩を大声で叱咤されたのです。
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鶴岡八幡宮
 多宝仏、十方の諸仏や諸天善神、八幡大菩薩などの諸天善神が、「私どもは末法に法華経を広める法華経の行者を守ります」と誓ったことが法華経陀羅尼品で説かれています。この誓いにもかかわらず、今法華経の行者の日蓮大聖人が捕われて頸の座にすえられようとしているのに、八幡大菩薩は何故この日蓮大聖人を守って、仏への誓いを果たさないのだと叱咤されたのです。
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由比ヶ浜
 由比ヶ浜(御書には「由比の浜」と表現してある)の御霊社(ごりょうしゃ)のまえに差し掛かったとき、日蓮大聖人は熊王(くまおう)という童子を遣わして四条金吾(中務三郎左衛門尉・なかつかささえもんのじょう)へ知らせました。四条金吾は裸足のまま日蓮大聖人の所へ駆けつけてきました。「今夜頸を斬られに行くのである。この数年間、願ってきたことはこれである。この娑婆世界において、キジとなったときは鷹につかまれ、ネズミとなった時は猫に食われた。あるいは妻子の敵のために身を失ったことは大地の微塵(みじん)よりも多い。だが法華経のためにはただの一度も失うことは無かった。それゆえ、日蓮は貧しい僧侶として生まれて、父母への孝養も心にまかせず、国の恩に報ずべき力も無い。今度こそ頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那たちに分けようと申してきたことはこれである」と日蓮大聖人が言ったところ、四条金吾ら兄弟4人は、馬の口に取りついて供をし、腰越・竜の口へ行きました。頸を斬る処刑の場はここであろうと日蓮大聖人が思っていたところ、案にたがわず、兵士たちが動き回って準備で騒いでいたため、四条金吾は「今が御最期でございます」と泣きました。日蓮大聖人は「不覚の殿たちである。これほどの悦びを笑いなさい。どうして約束を違えられるのか」と言い、悠然と題目を唱え、頸の座につかれました。
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日蓮大聖人が
竜の口まで
連れられて行く
途中の海岸
(七里ヶ浜)
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遠方:江の島
手前:東浜
法難はこの場所
と言われている。
 まさに切られそうになった瞬間、空の江の島の方向から丸い光り物が現れて太刀取りは目がくらんで、処刑が出来ませんでした。この光り物とは「おうし座流星群」の説が有力です。但し斬首しようとした具体的な場所は『東浜(ひがしはま)』だったという説が有力です。兵士たちは、ひるみ恐れ、気力を失って一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もいました。日蓮大聖人は「殿達よ、どうしてこれほどの大罪人から遠のくのか。近くへ寄って来なさい」と声高々と呼びかけましたが、すぐに近寄ってくる人もいませんでした。日蓮大聖人は「さて、夜が明けてしまったならばどうするのか。頸を斬るなら急いで斬りなさい。夜が明けてしまえば見苦しいであろう」と勧めたけれども何の返事もありませんでした。
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橋の右側が竜の口の刑場だった所。(江の島展望灯台から)
 しばらくしてから「相模の依智(えち)という所へお入りください」と言われました。日蓮大聖人は「自分のほうには道を知る者が居ない。案内しなさい」と言いましたが、案内するものが居なかったため、暫く休んでいると、ある兵士が「そこがその道で御座います」と言ったため、道にまかせて進みました。正午ごろに依智に着いたので、本間六郎左衛門の邸へ入りました。酒を取り寄せて、ついて来た兵士たちに飲ませていたところ、彼らは帰るということで、頭を下げて手を合わせて合掌したところ「この度のことを拝見すれば、あなたはどのようなお方なのでしょう。我々が頼みにしてきた阿弥陀仏を謗られていると聞きましたので恨み申し上げていましたが、直接会って昨夜のお振る舞いを拝見しましたところ、あまりにも尊いので、長年唱えてきた念仏は捨てました」と言って、火打ち袋から数珠を取り出して捨てる人がいて、「今後は念仏を申しません」と誓約書を出す人もいました。
 日蓮大聖人は依智に滞在すること20日余り。その間に鎌倉では放火が7〜8度あり、人殺しが耐えなかったのです。幕府では、讒言する者どもが「日蓮の弟子たちが火をつけたのだ」」というので、「そういうこともあるだろう」ということで、大聖人の弟子らを鎌倉に置いてはならないと、その対象者として260人程の名前が列記されました。そして、「その者たちは、皆、遠島へ流すべきである」「牢に入っている弟子たちは頸をはねるべきである」との声が上がりました。しかし「放火」などは、持斎や念仏者の策謀だったのです。まさに『三障・四魔・紛然として競い起る』です(御書P.916)。日蓮大聖人は「日蓮は仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆(どうりゅう)、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、北条時宗殿がおいでにならなければ、どうして法華経の行者となれただろうかと喜んでいるのである」と仰せです。
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 この後、日蓮大聖人は佐渡流罪となり、1271年10月10日に依智を出発して佐渡へ向かわれました。佐渡滞在中に多くの御書を顕されました。流罪赦免後、一時は幕府が日蓮大聖人を尊重する気配を見せましたが、大聖人が仰せのとおり謗法への帰依を止めて正法に全面的に帰依するという姿勢ではありませんでした。3度国を諌めても用いなければその国を去るべきであるとの習いに従い、日蓮大聖人は鎌倉を出て身延山に入りました。2度にわたる蒙古襲来が起き(他国侵逼難)、北条家のご一門に同士討ちが起きました(自界叛逆難)。日蓮大聖人が言われていたことは全て的中し、鎌倉幕府は滅亡しました。


右の写真: 鎌倉のアジサイ


鎌倉とその周辺の会館
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鎌倉文化会館
お知らせ

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公表できませんのでご了承下さい。
  • 交通:
    • JR東海道線・横須賀線・根岸線・湘南モノレール・大船駅から徒歩約10分

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横須賀文化会館
  • 交通:
    • JR横須賀線・横須賀駅から徒歩5分
    • 京急線・逸見駅から徒歩7分

  • 交通:
    • 京急線・北久里浜駅から徒歩7分

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三崎会館
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「神奈川広宣流布の碑」(三崎会館内)
  • 交通:
    • 京急線・三崎口駅からタクシー約15〜20分


sightseeing


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