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あけましておめでとうございます。 合掌 |
お陰様で昨年本堂書院の建てかえをさせていただき見事な本堂が出来上がりました。建築中は出来るだけ良いもの、使い勝手の良いものをと思っていろいろなことを考え、打ち合わせをして、一つ一つ決めていきました。しかし、使い始めて1年が経つと使いにくいところ、こうすれば良かったと言うところがずいぶん出てきました。 その一つに廊下の照明のスイッチがあります。昼間は明るいのでスイッチがどこにあるかはわかるのですが、夜になると真っ暗な廊下でスイッチを捜すのは至難の業です。暗い廊下を手探りでおそるおそる歩く様は他人が見たら滑稽なものでしょう。 建物の1年点検の時、そのスイッチをホタル灯付きのものに変えていただきました。暗闇でもスイッチの場所がわかるような小さな明かりがついているものです。これは有り難いものです。暗闇の廊下でも迷うことなくスイッチの場所にたどり着けます。たとえ小さな明かりでも私をしっかり導いてくれました。 明かりは有り難いものです。真っ暗で何があるかわからない不安な場所に明かりが一つともると「ああなんだこうなっていたのか」とわかります。ともしびが一つあると「ああここに向かっていけばいいんだ」と行く先がわかります。 阿弥陀さまのお救い、お導きに会うことを、み仏に照らされて、み仏の光を仰ぎ、などと光や明かりに譬えられます。阿弥陀さまは光、明かりとなって私にはたらき私の心の闇を照らし心の中がどうなっているのかをわからしめ、闇夜に迷う私の行く先を示して下さっていました。 小さなホタル灯の付いた廊下のスイッチを見たとき、阿弥陀さまのおはたらきとはこういう事だったのかと味あわせていただきました。 合掌 |
あけましておめでとうございます。 宗門は昨年6月、法灯継承式があり即如様がご長男の専如様(昭和52年生)にご門主を譲られました。新門主の専如様は継職のお言葉の中で「時代の常識を無批判に受け入れることがないように」とお延べになりました。 私たちは今、科学的な考え方、合理的な考え方を中心に毎日を生活しています。これらのお陰で便利さや快適さを得、また俗信や迷信から解放された事も事実でしょう。しかしこれは人間中心の考え方とも言えるでしょう。 私たちはこれに加えて仏教的な考え方、浄土真宗的な考え方を大切にしなければいけません。それは今までの私たちの考え方や判断はこれで良かったのだろうか、間違っていなかっただろうか、仏さまやご先祖様はどう考えたのだろうかと考えてみることです。 時代の常識は毎日のように都合良く変わっていきます。それらに流されることなく私たちは仏教の教えを中心とした、毎日を過ごさせていただくのが仏教徒の姿であります。 本年もよろしくお願いいたします。
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あけましておめでとうございます。 昨年は、新しい本堂、副住職を迎え、正法寺にとりまして新たな始まりの年でありました。そして有り難く新年を迎えさせていただきましたこと、仏祖を初め、門信徒の皆様のお陰様に篤く御礼申し上げます。 私たちは阿弥陀如来から頂いた、お浄土からの道を歩ませていただいています。この道は必ず極楽浄土に到着し救われていく道です。 しかし、この道に道幅があるとすれば、道のまん中をまっすぐ歩むことはとても難しいことです。欲や腹立ち妬みなどの煩悩によって心が汚れ、道から外れそうになることもあるでしょう。こんなときは仏さまに出逢ってください。お家のお仏壇やお寺の本堂にお参りして、心のお洗濯をして下さい。お洗濯をしてもまた汚れます。汚れたらまたお洗濯をしてください。この繰り返しが仏教徒としての姿です。これが仏さまと共に歩む人生です。 是非、正法寺を心のお洗濯の場として親しく身近にお参りしていただきたいと思います。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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あけましておめでとうございます。 本堂・書院新築工事が昨年末で見事に完成し終了致しました。 平成二十二年(二〇一〇)年十一月二十四日の着工式以来、約二年一ヶ月にわたる大事業でした。門信徒の皆様には多大なるご尽力を賜り、ご懇念をお運びいただいていること新年にあたりあらためて御礼申し上げます。 新しく完成いたしました本堂には昨年中に書院の仮本堂からご本尊、阿弥陀如来をお遷仏させていただき法要を営ませていただきました。いよいよ本年から新本堂でお参り出来るようになり、皆様のご法事など新本堂でお勤めいただけます。 この新築された本堂・書院の落成慶讃法要(お披露目)は五月六日(月・振替え休日)に勤めさせていただく予定です。法要、祝賀行事など、詳細は未定ですが祝賀法要ですので賑々しくお勤めさせていただく予定です。 今年は新しい正法寺の始まりです。皆様の正法寺です。親しく、身近にしてお参りしていただければと思います。 合掌
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あけましておめでとうございます。このコラムのページ昨年は年頭挨拶をしただけで何にも書いてないことに気が付きました_(._.)_。今年は書き込んでいきたいと思います。 昨年は正法寺の前坊守白川和子が往生をするという一大事がございました。世間の習わしでは「喪中」と言うことです。しかし、「忌中」「喪中」というのは、人間の死と言うものを忌み嫌うこと、あわせて人間がその生涯を終え阿弥陀如来のお説き下さる「南無阿弥陀仏」の広大無辺の功徳によって極楽浄土に救われて仏にならせていただくことを忌み嫌うと言うことになってしまいます。 私たち浄土真宗の門徒は人の死もまた日常、誰にでも必ずやってくる事と受け止め、私たちより先に生涯を終えた方々が「仏」となり、私たちを護り、諭し、導びき、気付かせて下さる仏さまとしてお働き下さっていることに手を合わせていくことが大切なことです。 また昨年は東北大震災、放射能のことなど私たちが経験したことのない事がおきました。こう言う時こそ、私達はどう生き、どう考えるべきかを仏教の教えに照らし、沿いながら考えていかなければならないと思います。 |
新年あけましておめでとうございます。 昨秋お願い申し上げました本堂・書院新築のご懇志について、門信徒の皆様には世情厳しい中、心温まるご懇念をお運びいただいていること心より御礼申しあげます。またこれは今後の正法寺へのお励ましと期待のあらわれと謹んでいただいております。 工事は昨年の11月下旬から始まり、昨年末には書院の解体工事が完了し更地になりました。解体が始まった時、八十年以上掃除し磨き上げてきた書院がそれを境に土足の作業場になった時は感慨深いものがありました。 今年の1月10日には書院の起工式が挙行されいよいよ本格的な建築に取りかかります。書院は今年の八月に完成予定です。 本年、来年と正法寺は建築の毎日になります。門信徒の皆様にはご法事や墓参の際など、何かとご不自由なことが多いと思いますが何卒ご理解のほど宜しくお願いいたします。 私たちをお守りいただいている阿弥陀如来さまの新しいお屋根ができるまで共々に精進していきたいと思っています。 |
住職と正法寺衆徒の倉上師はボーイスカウト東京連盟あすなろ地区杉並第2団に所属するスカウトです。 信仰奨励サイトを訪れたスカウトは、少なくとも仏教は先祖供養のためにあるのではなく、私がこの世を生きるための教えであることに気が付いたと思います。 スカウト教育では明確なる信仰を持つことを薦めているます。したがってスカウト活動は多くの社会教育団体がある中で宗教(信仰)をベースにした唯一の社会教育団体であります。青少年の健全育成のためスカウト活動に是非ご協力とご理解を頂きたいと思います。 |
●お盆のお飾り 「お盆にはどのようなお飾りをすればよいのですか」と、尋ねられることがあります。これは、お盆独特の飾り方があるのではないかと思われているからでしょう。 ●そもそもお盆とは むかしむかし、お釈迦さまの特にすぐれたお弟子の一人に、目連尊者という方がおられました。居ながらにして世界のできごどを見たり、他人の心を見通したりするこどができる"神通力"を持っておられました。 すなわち、真実の救いに出会うこととは、亡き母や特定の先祖に供物を捧げるというのでなく、自らが深く仏法に帰依して、限りなき仏さまのおはたらきを仰いでゆくということでしょう。言い換えれば、ご先祖のご恩に報いる道は私自身がお念仏を慶ぶ身となることです。 お盆法要では、ご先祖への報恩の思いから仏法を聞かせていただき、阿弥陀如来の本願力によって救われていく身の幸せを慶び、お念仏申させていただきましょう。 |
最近とみに「葬儀不要論」が世間を席巻している。 |
最近は人間関係や対人関係で悩んでおられる方が多いと聞きます。孤立、孤独と言う言葉が遍満しています。 「尊き師よ。よき友をもつこと、よき仲間のいること、よき人々に囲まれていることは、清浄なる修行の道の半ばを成就したのに等しいのではありませんか。」 「アーナンダよ、そうではない。よき友をもつこと、よき仲間のいること、よき人々に囲まれていることが、清浄なる修行の道のすべてなのである。」 お釈迦さまは良き友を持つことの大切さを当時からお説き下さっていました。お互いに良きともとなり、「安心して悩むことのできる社会」の実現に勤めたいと思います。 |
ちょっと専門的な話しですが、法要を勤めるときに使う法具に「キン」という打ち物があります。いわゆるカネです。お経が始まるときや、途中でも打ちます。その打ち方に「緩急」というものがあります。連打をするのですが、一打して、その間隔を最初はゆっくり、だんだん速くなっていって、最後に二打します。 先日築地本願寺雅楽会の大先輩と話しをしていたときでしたが、「最近は緩急をじょうずに打てる人がいなくなった。本山にもいない」と言う話題で盛り上がりました。 「ほとんどの人が緩急ではなく。強弱になっている」ということでした。私も以前、住職の研修会で本山に行ったとき、緩急の打ち方をご講師に実演してくれと言ったことがありました。まわリの人は変な質問をすると思ったに違いありませんが、私は強弱ではない緩急をやってくれると思いましたが、やはり強弱でした。 お亡くなりになった川上准玄先生が盛んにキンの緩急の打ち方を講義されていたことを思い出します。私もうまく出来ませんが、いつも心がけています。 |
新年あけましておめでとうございます。 一昨年、ヒマラヤの麓の仏教国ブータンを訪問しました。ブータンは日本のように何でもある国ではなく経済的にも決して豊かではありません。しかし、国民の顔はみんな幸せそうでにこにこしています。日本に着いたとき、多くの日本人を見ました。みんな忙しそうで、顔は辛そうで、苦しそうに見えました。ブータンより豊かで先進の国のはずなのにと思いました。何故だろうと思ったとき一つ思い当たることがありました。この人達は仏教の教えを知らないからだと。 日本には古くから伝わる仏教という教え(生き方)が伝わっています。仏教徒とは仏教の教えを我が人世の最高の秩序とし、最高の規範として生きてきました。昨今の日本は自分勝手な考えや基準を元に生きる人が増え、今日のような社会になりました。これは一人一人の考え方や生き方が原因です。 阿弥陀如来の恵みは、あらゆる人々を平等に、限りなく慈しむ心です。私たちは、自分本位の生きかたをせず、阿弥陀如来の恵みの中で生けとし生きるものみな父母兄弟であることを自覚し、お互いに敬い助けあいの心をもって、報恩感謝の思いから、阿弥陀如来のお徳を讃える称名念仏の日々を過ごさせていただきましょう。
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何年か前にインド旅行をしたときであった。 この日は「ベナレス」からお釈迦さまが亡くなられた場所「クシナガラ」へバスで向かっていた。15人ほどの仲間が乗っていた。途中で小さな町があるとそこで休憩をとった。バスはガソリンを補給し、我々はチャイ(インド式ミルク紅茶)を飲んだ。インドの小学校だろうか、丁度、学校の前であった。小さな店が並ぶ中に文房具を扱う店があった。サリーを着た女性が店をやっている。そこの生徒用にノートや筆記用具、学校で使うようなものが並べてあった。私はクレヨンに目がいった。8色入りだったろうかインド製のクレヨンを土産に買った。5ルピーだったと思う(1ルピー4円くらい)。簡素なものだったがインド土産には丁度よかった。 私がクレヨンを買ったのを見て、一緒に旅行をしている仲間もクレヨンを買おうとしたら、店の女性はもうクレヨンは売らないと言った。理由はこうだった。あなた達がこれ以上このクレヨンを買ってしまったら、ここの小学生が買うクレヨンが無くなってしまうからと言うことだった。 私は頭を何かでたたかれたような感じになった。日本だと商売だから売れるときになんでも誰にでも売ってしまう。無くなったらまた仕入れればいいと言う事だ。しかしインドは違った。町を離れるとまだまだものは豊富でなく、ものが無くなったら何時はいるかわからないから一つ一つ大切に使って、使うべき人が大切にそのものを生かして使うべきという事をみんながわかっているのだと思う。 先にクレヨンを買った私は何とも言えない気持ちであった。実際そのクレヨン、日本に帰っても誰も使うことなくしまわれている。もし私がこのクレヨンは買わなかったら、これはインドで子ども達が使っていたことだろう。今度そこを通ったら日本のクレヨンをもってお詫びにいきたいと思っている。 |
◆ボーイスカウト仏教章修得研修会にて 「それって、ラッキーじゃないですか」 ◆スカウト運動と仏教章 まさに全員で聞き、全員で伝えていく仲間が生まれているのである。 スカウト運動には進歩制度というものがある。定められた技能の修得や目標の達成によりスカウトとしての進歩課程を示していくものだが、ともすると、進歩のために、自分のためにと日々の善行を行い、廃悪修善の生活をし、論功行賞のご褒美を求めてしまう。本願寺派スカウトはそうあってはならない。 |
若いご夫婦の門徒さんがいる。春秋のお彼岸とお盆にお宅に行ってお参りさせていただく。帰るとき、そこの若奥さんのお見送りがとても素晴らしく気持ちがいい。 (2009/10) |
映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して世間が騒がしいです。 |
あけましておめでとうございます。 |
最近、自転車のマナーが乱れ最悪です。正確にはマナーではなく交通規則違反です。マナー違反ではなく交通違反です。警察も収入にならない取り締まりはしないようで、自転車を交通違反で捕まえているところは見たことがありません。 |
昨年6月、友人のご住職とご門徒のみなさまと一緒に中国・チベット旅行に行きました。 |
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、阿弥陀さまの私達へのお説法です。そのお念仏には沢山の意味が含まれています。 「必ず救うよ」 「私はいつも見ているよ」 「一人じゃないよ」 「あなたこそ救うよ」 「みんないっしょに救うよ」 「心配しないでいいよ」 「みんな私が引き受けるよ」 「」・・・ 阿弥陀さまのお説法が私に届いて、「ハイわかりました」と心得たとき、今まで体中をしばっていた余計力がすっと抜け、「よろしくお願いします」と思ったとき、お念仏が口からで出下さるのです。そのお念仏が出たときが「ご信心」をいただいたときなのです。 そしてその声がまた私の耳に届いて、「ああ、阿弥陀さまのお説法が私に届いているなあ」と受け取らせていただくのです。
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あけましておめでとうございます。 門信徒の皆様におかれましてはご清祥にて新年をお迎えされたことと存じます。 |
最近「ハロウィーン」という聞き慣れないキリスト教行事が流行ってきました。 ハロウィーンとは、カトリックの諸聖人の日の前(10月31日)に行われるキリスト教圏伝統行事です。 |
今年も、お盆経で、ご門徒お宅をまわらせていただきました。 |
「私は毎日カセットテープのお経をお仏壇の前でかけています」と言う方がいます。一見信心深い方のように見えますが、良く聞くとカセットテープにお参りをさせて、自分は外のことをしているんです。これではなんにもなりません。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ |
NHKの朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」が3月31日で終わりました。そこに登場する住職一真さん役の石田太郎さんは、本物の僧侶で、金沢市の西本願寺派乗敬寺のご住職です。 |
年末に占い師細木数子さんが、宗教、仏教に対して間違ったことをテレビで言ったので、混乱したご門徒さんがおられました。「年末にご先祖にお参りするべき」「正月はお寺に行くもんじゃない」「仏壇の花は仏さまの方に向けて供える」・・・などです。 |
仏旗とは六金色旗(ろっこんじきき)ともいい、仏教を信じるものの「旗じるし」であり「仏さまの旗」であります。六金色とは、青・黄・赤・白・淡紅の5つの色と、その5つの色が混ってできる色(五色混色)とを合わせて6つの色なのです。 |
「企業の社会的責任」 CSR(Corporate
Social Responsibility)に思う
浄土真宗本願寺派のCSR
最近CSR(Corporate Social Responsibility)という言葉を耳にする。会社が利益追従ばかりでなく社会貢献をすることに会社の社会的存在価値を見いだし、結果、イメージアップにつながる、と言うことのようだ。 その取り組みは会社によって当然様々であるが、利益優先のために、おろそかになっていた環境保全、人権擁護、法令遵守、文化教育福祉向上への貢献、スポーツ振興などの本業の外での社会貢献活動に取り組んでいこうとうこだ。大企業ではそれなりにCSR活動が実施されているが、中小の会社や商店はまだまだと言った感が拭えない。 ちなみに浄土真宗本願寺派のCSRはこれでしょう み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます み仏の恵みを喜び 互いにうやまいい助けあい 社会のために尽くします
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ある浄土真宗の門徒さんが、大学に入学する息子さんのアパートを探しに不動産店に行ったとき、こんなやりとりがあったそうです。 |
四月を入学、就職など新しい環境で迎えられる方も、また、そうでない方も新年度はお正月とは違う新たな気持ちになると思います。 @「仏教は死んでから先のこと」「死んで行く準備が説かれている」のではありません。「この人生の生き方」が説かれています。 A家にはまだ死んだ人がいないので仏壇は無くて良いと思っている方。間違えです。仏壇は一家に一つ必ずあるべきものです。人生の生き方を説いてくださるお方は誰ですか?。 Bお葬式の時「塩、酒、水で清める」のは仏教の作法ではありません。「神道の作法」です。そもそも仏教では「清め」はしません。 Cお焼香の作法は各宗派違います。マナーの本に書いてあることはマナーで、本当の作法ではありません。浄土真宗の作法はお焼香をいただかずに一回です。 D「私、霊感が強いんです」と自称する、特に女性が多いです。そう言われてあなたのことを素晴らしい人とは思いません。霊感って何ですか。かえってそれによって生活が窮屈になっていませんか。浄土真宗の教えに目覚めると、こういう窮屈から解放され自由で豊かな生活が開けます。 E「宗教は精神的に弱い人が頼るもので、強いものは宗教に頼らなくても生きていける」などと言う人がいます。これは誤りです。こんな自分勝手な生き方をしてはいけません。宗教とはこうなりがちな私を「律して」くれる大切なものです。 F「何で私がやらなくちゃいけないのか!」とキレるのではなく、浄土真宗なら「私がやらせていただきます」でしょう。 H立派な人とはどんな人でしょう。いろいろな条件があると思いますが、「明確な信仰を持っている」と言うことが入っていなければ本当に立派な人ではありません。 まだ沢山ありますが紙面の都合上ここまで。
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よく尋ねられることです。お経は漢文をそのまま音読みしていますので聞いただけではわかりませんし、その漢文を見てもなかなか理解できません。 |
あけましておめでとうございます。 |
今、自転車は安いものだと1万円を切るものまである。当然安価な自転車は町に氾濫し、都合よく使われ、「チャリンコ」「ママチャリ」などと俗称で呼ばれて久しい。持ち主は雨ざらし平気、自転車掃除なんかしたことない、ましてチェーンに油を差したこともない、自転車油なんか持ってない。盗まれても平気、汚くなったので新しいのが欲しかった、盗んでくれて良かったなんて事もある。ある方に自転車を買い換えるきっかけを尋ねたら、汚くなったから、錆びたからと言う答えがあった。二の句が継げなかった。 |
インドのコルカタ、カーリー寺院に行った。名前の通りヒンズー教の神、カーリーが祀られている。沢山の参拝者で賑わい、子やぎが捧げられていた。 |
日本には仏教の宗派がたくさんあります。そしてそれぞれの宗派は依りどころにする経典が異なり、独自の教え(救い)を説いています。分類の仕方はいろいろありますが大きく分けると二つに分かれます。 このような私を阿弥陀如来だたひとりがすくい取るぞとおっしゃって、お立ちいただいていることを御礼申し上げないわけにはいいません。その御礼はお念仏(南無阿弥陀仏)を称えさせていただくことです。 (大事なところです。書き足りてません。詳しくは法話会においで下さい) |
私たちは挨拶をする時、頭を下げお辞儀をします。回りから見るとどんな時でも同じ動作に見えますが、心の中には二通りの気持ちがあります。「頭を下げる」と「頭が下がる」という気持ちです。この二つは大違いです。 |
皆様の中には、赤ちゃんが生まれて「お宮参り」をされた方が多いと思いますが、浄土真宗にも「初参式」といって赤ちゃんが初めてお寺参りをする式があります。 「初参式」とは、赤ちゃんが仏の子として育ち、これからの人生を仏さまのお慈悲に包まれて生きていけるよう、人生の出発にあたり、その誕生を仏さまにご報告する式です。 初参式は、赤ちゃんにとっての人生の始まりの仏縁ですが、同時に親にとっても、親として生きる出発点であり、赤ちゃんによって与えられた尊い仏縁であります。是非「初参式」をお受けになり、親子共々に正法寺門徒として仏教徒として、大いなる自覚と自信ををもって人生をスタートしていただきたいと思います。 |
わたしたちが社会生活を送っていると、いつも「優劣、勝ち負け、損得」のことばかり気にしていることがわかります。他人より優位にいたい、負けたくない、一人だけ徳をしたいという相対的価値感の中に生きているのです。ともするとこれに振り回され、劣、負け、損、が続くと不安がつのり、自らを見失うこともあるでしょう。 浄土真宗の教えを中心にして生きると言うことは相対的価値感ではなく、絶対的価値観の中に生きることです。それは、阿弥陀さまと私との価値観の中に生きることです。 どんなことがあっても阿弥陀さまは見ていてくださる。どんなことがあっても阿弥陀さまはほほえんでくださる。どんなことがあっても阿弥陀さまはお救い下さる。こんな大いなる「安心」の中で生きることがどんな苦境も乗り越えられる大きな力となるのです。 人生の不安を紛らわすために、相対的価値感のなかで名誉や栄華を求めることは迷いの人生と言わざるを得ません。しかし、人間である以上迷いは晴れません。迷ったら、阿弥陀さまの教えを訪ねてください。そしてまた迷ったらまた訪ねてください。浄土土真宗はこの繰り返しです。 |
世の中には数多くの仏教宗派があります。この各宗派は各々教えの違いがあり、大きく分けると二つに分かれます。 |
宗教行事に無関心な方が多くなりつつある昨今ですが、お盆になると日本中が郷里に帰り、お寺参り、お墓参りをされます。大変良い習慣であると思いますが、ところでお盆は7月、8月どっちが本当でしょうか。 |
今月はお盆の月です。お盆の頃になるといろいろな習慣が入り乱れどれが本当かわからなくなります。浄土真宗のお盆は、普段と変わりません。お仏壇をお掃除して季節のお供物をお供えしてください。 |
「浄土真宗の教え」とは一言で言うと「この私がこのままのすがたで救われていく教え」といえます。が、阿弥陀さまのお心は「このまま」ではなく「そのまま」のすがたの私をお救い下さるのです。 私は写真を撮るのが好きでよくカメラを持って旅行に出かけます。記念撮影も良いものですが、自然な姿も良いもので、私は同行のものにそっとカメラを向けます。相手は私のカメラに気付くと必ずポーズをとります。私は「そのままで」と言いますが、相手は必ず「このままでいいの?」といいながら、少しでも綺麗にとってもらいたいがために、力の入った不自然なポーズになってしまいます。私はそのままの姿が撮りたかったのですが、これがなかなか思うようにいきません。 阿弥陀さまは今日ここにいるこの私を「そのまま救うぞ」とおっしゃってくださっているのに、私たちは阿弥陀さまの教えを頭の中で考え、理解しようと力の入った姿になってしまっているのではないでしょうか。「そのまま救うぞ」とおしゃって下さっている阿弥陀さまに「このままでいいんですか」と力の入った姿になるのではなく、「はい、おまかせいたします」とお答えしたいと思います。 |
牡丹の花の季節になりました。百花の王といわれるだけあり、満開になるととてもみごとです。正法寺境内にも赤、白、黄の花が咲きました。 |
お祝いや、お見舞いなど、花は相手に表側を見せて贈るのが普通です。その意味ではお仏壇に花を供える場合も、花の表側は仏さまの方に向けるべきと思うのは当然と言えます。しかし、お仏壇の花は仏さまへのお供えではあるのですが、それだけの意味にとどまりません。仏さまから私たちへのはたらきかけも表しているのです。 |
1 幼いときから冷たく放りっぱなしにせよ。遊び相手になるとかスキンシップはまったく無用 【実態から見たベストテン】小田原少年院 |
ご門徒さんのお仏壇にお参りさせていただくと実にいろいろなものが供えてあります。すぐにでも食べたいものや、供えっぱなしで古くなっているものもあります。 |
故郷を離れて他所に生活の基盤を築かれる方が多い昨今、墓地の改葬・移転に関する相談が増えております。交通事情が至便になったとはいえ、確かに遠方の墓地をお守りしていくことは、なかなか大変だと言えましょう。 ●新旧管理者との相談 ●証明書の発行 ●改葬許可証の交付 ●遺骨引き上げと改葬法要 いずれにしても長い間お世話になつてきた墓地のことですから、きれいに片付けてお返しし、お寺に対して懇ろに御礼を申し上げてください。なお納骨までに時間があくような場合には、移転先の管理事務所か新たなお寺にお願いして、遺骨を預っていただくとよいでしょう。 ●建碑法要と納骨 ●関係者への報告 (付記)墓石のみの移転や若干の土をもらつて来る等遺骨の移転を伴わない場合は、公的な手続き(役所への届出等)は必要ありませんが、その場合でも然るべき供養はしっかり行なっていただきたいと思います。 合掌 |
浄土真宗本願寺派のご本尊は「阿弥陀如来」(あみだにょらい)さまです。 |
お通夜やお葬式に弔問に行くとき、金封や供物の表書きに悩んでいませんか。世間では四十九日までは「御霊前」とか、お通夜は「御霊前」でお葬式は「御仏前」などといろいろな事が言われています。こういう仏事作法はすべての宗派に通用するものはありません。仏教は宗派ごとに教えや捉え方が違いますので作法も異なります。浄土真宗は「往生即成仏」の教えですから、故人はこの世の縁が尽きると、すぐ「仏」に成ります。ですから浄土真宗はいつでも「ご仏前」です。決して「御霊前」とは書かないで下さい(浄土真宗では霊という存在はありません)。世間がどうであれ浄土真宗の信者である事に誇りと自信を持って、教えにあった作法でお参りしていただきたいと思います。 どなたかに「何故そのようなことをするのですか」と訪ねられましたら、自信をもって「私は浄土真宗だから」と答えてください。 浄土真宗の僧侶は「御香資」「御香儀」「御香」等とも書きます。これは僧侶だけが使う書き方ではありませんので、門信徒の皆様も是非この書き方も使ってみてください。 ○「お布施」「お経料」どっち? 同じように、ご法事の時は「お布施」「お経料」で迷います。正解は「お布施」です。ご法事は料金制ではありませんので「お経料」と書かないでください。お寺にお持ちいただくものは、維持費など定められたもの以外すべて「お布施」です。僧侶が読経や法話によって仏法を伝えたことを「法施」。これに対するお礼を「財施」といいます。お互いに施しあっているのです。 |
正法とは、正しい法ということで、正しい道理にかなった法という意味です。仏説無量寿経には「正法を宣べ」「正法を弘宣」などと説かれています。またご本願(第十八願)の文には「ただ五逆と誹謗正法をば除く」と説かれます。これを承けて、曇鸞大師は「正法はすなはちこれ仏法なり」と述べられ、正法を誹る(非難し悪くいう)ことがいかに重い罪であるかを示されます。親鸞聖人は、『教行信証』の中で、法照禅師が『仏本行経』によって造られた偈文を引用され、「どのようなものを正しい法というのか。道理にかなっているなら、それは真実の教えである。・・・正しい法は迷いの世を越え離れることができる。持戒や座禅も正しい法というけれども、念仏して成仏する、これこそが真実の教えなのである。仏の教えによらないものは外道という。因果の道理を信じない考えは意味のないものである。正しい法は迷いの世を越え離れることができるのである。」 と述べられています。したがって、正法とは、迷いの凡夫が浄土に往生して仏になる法、すなわちお念仏の教えなのです。このお念仏の教えを、聖人は「超世希有の正法」(世に越えてたぐいまれな正しい法)「円融真妙の正法」(すべての徳をまどかにそなえた真実の法)と讃えられるのです。 |
【抗議文】 【参考】
【所感】 合掌 |
魔を祓うためにお棺の上に刃物をのせたり、火葬場の行き帰りで道を変えたり、家に帰れば「お清め」と称して死の穢れを清めるために塩を撒くなど、葬儀の時には仏教の教えとは無縁の色々な迷信が行なわれます。 それらは、各地の習慣やしきたりとして、何の疑問もなく行なわれていますが、それが亡き人を限りなく貶めていく行為だと気づいている人は少ないようです。 合 掌 |
(注:お念珠のことを、珠数・数珠ともいいます) 最近、ご法事やお葬儀でお参りに来られる方を見ていると、 |