コ  ラ  ム

 [正法寺ホーム]

目 次

 

平成28(2016)年、年頭挨拶

暗闇の明かり

平成27(2015)年、年頭挨拶 

平成26(2014)年、年頭挨拶

平成25(2013)年、年頭挨拶

平成24(2012)年、年頭挨拶

平成23(2011)年、年頭挨拶

ボーイスカウト 日本ジャンボリー(15NJ)に参加して

お盆の由来

葬儀は、人間が人間であることのの証し(浄土真宗のお葬式)

よき友を持つこと

「緩急」と「強弱」

2010年頭所感

このクレヨンは売りません

それって、ラッキーじゃないですか

お見送り 

映画「おくりびと」、納棺師のこと

2009年頭所感

自転車の通行ルールが最悪です

チベットで何が起こっているのか?

声に出して「お念仏」をしましょう

2008年 年頭所感

ハロウィーンが終わってクリスマス

後ろでお参りしてますか?

なまけないでください

テレビの中の浄土真宗

占いなどの迷信に頼らない生活

仏旗の由来と意義

企業の社会的責任(CSR)に思う

理解しがたいお話

仏教の一般常識、仏教徒として知っておきたいこ

お経を聞いても意味が分かりません

2006年 年頭法話

放置自転車

フランドン農学校の豚

立っている仏さまと座っている仏さま

「頭を下げる」と「頭が下がる」

「お宮参り」ではなく「初参式」  人生の儀式は仏式で!

優劣、勝ち負け、損得

浄土真宗は「法」によって救われていく教え

お盆って7月?8月?どっち?

お盆を迎える

「このまま」と「そのまま」

牡丹(ぼたん)のお飾り

お仏壇の花はどうしてこちらむき

子どもを非行化させるコツを教えます

お仏壇のお供物は何をあげれば良いのですか

郷里のお墓を移転したいのですがどういう手続きをするのですか

浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」さまです

ご仏前?御霊前?どっち? 浄土真宗は「御仏前」です

正法寺の「正法」とは

オリンパス新聞広告に対する抗議と返答

私たちは清め塩を使いません

大人のみなさん お念珠を持ちましょう


平成28(2016)年、年頭挨拶

 

 あけましておめでとうございます。
 最近、十年後の正法寺はどうなっているのかなあと思うことがあります。

 世の中の移り変わりはとても激しく、人間の思いや考え、常識も年々移り変わっていきます。少子高齢化も進んで行くでしょう。十年後は今では想像もつかない世の中になっていることでしょう。今まで時代は変わっても仏教の教え、浄土真宗の教えは親鸞聖人の時代から変わることなく、その時代時代に人々の光となって灯火となって輝いてきました。
 正法寺では現代の方々に浄土真宗の教えを広めていくために、昔から伝わる仏教行事や法要を怠りなく勤めるとともに、より伝わりやすい、よりわかりやすい方法手段でもお伝えしたいと思います。
 本堂に「弘宣正法」と書かれた大きな額が掲げられています。正法(仏法)を弘く宣る、と言う意味です。このこころを戴き、一人でも多くの方々に浄土真宗の教えを喜んでいただけるよう勤めて参りたいと思います。 本年もよろしくお願いいたします。

合掌

 

暗闇の明かり
(築地本願寺新報2014年/12月号掲載)

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  お陰様で昨年本堂書院の建てかえをさせていただき見事な本堂が出来上がりました。建築中は出来るだけ良いもの、使い勝手の良いものをと思っていろいろなことを考え、打ち合わせをして、一つ一つ決めていきました。しかし、使い始めて1年が経つと使いにくいところ、こうすれば良かったと言うところがずいぶん出てきました。

 その一つに廊下の照明のスイッチがあります。昼間は明るいのでスイッチがどこにあるかはわかるのですが、夜になると真っ暗な廊下でスイッチを捜すのは至難の業です。暗い廊下を手探りでおそるおそる歩く様は他人が見たら滑稽なものでしょう。

 建物の1年点検の時、そのスイッチをホタル灯付きのものに変えていただきました。暗闇でもスイッチの場所がわかるような小さな明かりがついているものです。これは有り難いものです。暗闇の廊下でも迷うことなくスイッチの場所にたどり着けます。たとえ小さな明かりでも私をしっかり導いてくれました。

 明かりは有り難いものです。真っ暗で何があるかわからない不安な場所に明かりが一つともると「ああなんだこうなっていたのか」とわかります。ともしびが一つあると「ああここに向かっていけばいいんだ」と行く先がわかります。

 阿弥陀さまのお救い、お導きに会うことを、み仏に照らされて、み仏の光を仰ぎ、などと光や明かりに譬えられます。阿弥陀さまは光、明かりとなって私にはたらき私の心の闇を照らし心の中がどうなっているのかをわからしめ、闇夜に迷う私の行く先を示して下さっていました。

  小さなホタル灯の付いた廊下のスイッチを見たとき、阿弥陀さまのおはたらきとはこういう事だったのかと味あわせていただきました。

合掌

 

平成27(2015)年、年頭挨拶

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 あけましておめでとうございます。

 宗門は昨年6月、法灯継承式があり即如様がご長男の専如様(昭和52年生)にご門主を譲られました。新門主の専如様は継職のお言葉の中で「時代の常識を無批判に受け入れることがないように」とお延べになりました。  私たちは今、科学的な考え方、合理的な考え方を中心に毎日を生活しています。これらのお陰で便利さや快適さを得、また俗信や迷信から解放された事も事実でしょう。しかしこれは人間中心の考え方とも言えるでしょう。

 私たちはこれに加えて仏教的な考え方、浄土真宗的な考え方を大切にしなければいけません。それは今までの私たちの考え方や判断はこれで良かったのだろうか、間違っていなかっただろうか、仏さまやご先祖様はどう考えたのだろうかと考えてみることです。

 時代の常識は毎日のように都合良く変わっていきます。それらに流されることなく私たちは仏教の教えを中心とした、毎日を過ごさせていただくのが仏教徒の姿であります。

 本年もよろしくお願いいたします。

 

 

平成26(2014)年、年頭挨拶

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 あけましておめでとうございます。

 昨年は、新しい本堂、副住職を迎え、正法寺にとりまして新たな始まりの年でありました。そして有り難く新年を迎えさせていただきましたこと、仏祖を初め、門信徒の皆様のお陰様に篤く御礼申し上げます。

  私たちは阿弥陀如来から頂いた、お浄土からの道を歩ませていただいています。この道は必ず極楽浄土に到着し救われていく道です。

 しかし、この道に道幅があるとすれば、道のまん中をまっすぐ歩むことはとても難しいことです。欲や腹立ち妬みなどの煩悩によって心が汚れ、道から外れそうになることもあるでしょう。こんなときは仏さまに出逢ってください。お家のお仏壇やお寺の本堂にお参りして、心のお洗濯をして下さい。お洗濯をしてもまた汚れます。汚れたらまたお洗濯をしてください。この繰り返しが仏教徒としての姿です。これが仏さまと共に歩む人生です。

  是非、正法寺を心のお洗濯の場として親しく身近にお参りしていただきたいと思います。

  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

平成25(2013)年、年頭挨拶

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  あけましておめでとうございます。

 本堂・書院新築工事が昨年末で見事に完成し終了致しました。

 平成二十二年(二〇一〇)年十一月二十四日の着工式以来、約二年一ヶ月にわたる大事業でした。門信徒の皆様には多大なるご尽力を賜り、ご懇念をお運びいただいていること新年にあたりあらためて御礼申し上げます。

 新しく完成いたしました本堂には昨年中に書院の仮本堂からご本尊、阿弥陀如来をお遷仏させていただき法要を営ませていただきました。いよいよ本年から新本堂でお参り出来るようになり、皆様のご法事など新本堂でお勤めいただけます。

 この新築された本堂・書院の落成慶讃法要(お披露目)は五月六日(月・振替え休日)に勤めさせていただく予定です。法要、祝賀行事など、詳細は未定ですが祝賀法要ですので賑々しくお勤めさせていただく予定です。

 今年は新しい正法寺の始まりです。皆様の正法寺です。親しく、身近にしてお参りしていただければと思います。      合掌

 

 

平成24(2012)年、年頭挨拶

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 あけましておめでとうございます。このコラムのページ昨年は年頭挨拶をしただけで何にも書いてないことに気が付きました_(._.)_。今年は書き込んでいきたいと思います。

 昨年は正法寺の前坊守白川和子が往生をするという一大事がございました。世間の習わしでは「喪中」と言うことです。しかし、「忌中」「喪中」というのは、人間の死と言うものを忌み嫌うこと、あわせて人間がその生涯を終え阿弥陀如来のお説き下さる「南無阿弥陀仏」の広大無辺の功徳によって極楽浄土に救われて仏にならせていただくことを忌み嫌うと言うことになってしまいます。

 私たち浄土真宗の門徒は人の死もまた日常、誰にでも必ずやってくる事と受け止め、私たちより先に生涯を終えた方々が「仏」となり、私たちを護り、諭し、導びき、気付かせて下さる仏さまとしてお働き下さっていることに手を合わせていくことが大切なことです。

 また昨年は東北大震災、放射能のことなど私たちが経験したことのない事がおきました。こう言う時こそ、私達はどう生き、どう考えるべきかを仏教の教えに照らし、沿いながら考えていかなければならないと思います。 
 仏さまの教えを我が人生の最高の秩序として、我が人生の最高の規範として。

 

平成23(2011)年、年頭挨拶

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新年あけましておめでとうございます。

 昨秋お願い申し上げました本堂・書院新築のご懇志について、門信徒の皆様には世情厳しい中、心温まるご懇念をお運びいただいていること心より御礼申しあげます。またこれは今後の正法寺へのお励ましと期待のあらわれと謹んでいただいております。

 工事は昨年の11月下旬から始まり、昨年末には書院の解体工事が完了し更地になりました。解体が始まった時、八十年以上掃除し磨き上げてきた書院がそれを境に土足の作業場になった時は感慨深いものがありました。

 今年の1月10日には書院の起工式が挙行されいよいよ本格的な建築に取りかかります。書院は今年の八月に完成予定です。

 本年、来年と正法寺は建築の毎日になります。門信徒の皆様にはご法事や墓参の際など、何かとご不自由なことが多いと思いますが何卒ご理解のほど宜しくお願いいたします。 

 私たちをお守りいただいている阿弥陀如来さまの新しいお屋根ができるまで共々に精進していきたいと思っています。

 

ボーイスカウト 日本ジャンボリー(15NJ)に参加して

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住職と正法寺衆徒の倉上師はボーイスカウト東京連盟あすなろ地区杉並第2団に所属するスカウトです。

私たちは8月1日から8日まで静岡県の朝霧高原で開催されたボーイスカウト日本ジャンボリーに参加し、本願寺派スカウト指導者と共に「信仰奨励サイト」で浄土真宗本願寺派の教えの布教とスカウトが挑戦している「信仰奨励章」の修得課目の認定を行いました。

 信仰奨励サイトは仏教各宗派、キリスト教、イスラム教などが軒を並べるテント村です。スカウト達は自分の宗派や興味のある宗派をまわり、課題に挑戦します。浄土真宗本願寺派では、正しい念珠の持ち方、合掌焼香の作法が課題です。スカウト達はこれを修得し、その後、僧侶から法話を聞いてクリアです。

 信仰奨励サイトを訪れたスカウトは、少なくとも仏教は先祖供養のためにあるのではなく、私がこの世を生きるための教えであることに気が付いたと思います。

 スカウト教育では明確なる信仰を持つことを薦めているます。したがってスカウト活動は多くの社会教育団体がある中で宗教(信仰)をベースにした唯一の社会教育団体であります。青少年の健全育成のためスカウト活動に是非ご協力とご理解を頂きたいと思います。

追記:
期間中にボーイスカウト日本連盟役員でもある浄土真宗本願寺派の新門(次期のご門主)、大谷光淳師が宗教儀礼と平和の集いに参加され、あわせてわが信仰奨励サイトもご訪問いただき活動をご覧頂きました。今回参加している教宗派のなかで、こういう立場の方がジャンボリーに参加しているのは浄土真宗本願寺派と金光教さんだけでありました。

 

お盆の由来

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●お盆のお飾り

「お盆にはどのようなお飾りをすればよいのですか」と、尋ねられることがあります。これは、お盆独特の飾り方があるのではないかと思われているからでしょう。
 確かに、精霊棚を作って、お膳を用意する宗派や地域がありますが、浄土真宗ではそういったことはいたしません。いつもの法要と同じように、菓子、果物といった供物をお仏前にお供えすれよろしいでしょう。
 ちなみに「精霊棚」というのは、先祖の霊を迎えてもてもてなすために用意する棚で、位牌を並べ、その前に精進料理のお膳や迎え団子、その他盛りだくさんの果物、野菜を供えるものです。また、ナスとキュウリを牛と馬に見立てます。これらは先祖が乗るための乗物だそうです。
 つまり、ご先祖を丁重にもてなし、お慰めして供養しようとするのが、精霊棚のならわしです。しかし、こうした風習はお盆本来の由来からは離れているようです。

●そもそもお盆とは

むかしむかし、お釈迦さまの特にすぐれたお弟子の一人に、目連尊者という方がおられました。居ながらにして世界のできごどを見たり、他人の心を見通したりするこどができる"神通力"を持っておられました。
 ある時、その神通力で亡くなった自分の母親の姿を見てみると、餓鬼道に堕ち、やせ衰えた姿になっています。母は我が子を育てるのにやむをえず悪業を犯しその結果、餓鬼道に堕ちたのです。驚いた目連尊者は、神通力でご飯を鉢に盛って供養しますが、母がそれを食べようとすると、たちまちに炎となって食べることができません。

 目連尊者は泣き悲しみ、救いをお釈迦さまに求めました。お釈迦さまは静かに説かれます。
 「7月15日は雨期の勉学修行期間(夏安居)の最終日で、自らが犯した罪を告自懺悔するために、憎たらが集う日である。そこでたくさんの飲食物をお供えするがよい」(盂蘭盆経)
目連尊者がそのようにすると、亡き母親は餓鬼道の苦しみから救われたということです。

すなわち、真実の救いに出会うこととは、亡き母や特定の先祖に供物を捧げるというのでなく、自らが深く仏法に帰依して、限りなき仏さまのおはたらきを仰いでゆくということでしょう。言い換えれば、ご先祖のご恩に報いる道は私自身がお念仏を慶ぶ身となることです。

お盆法要では、ご先祖への報恩の思いから仏法を聞かせていただき、阿弥陀如来の本願力によって救われていく身の幸せを慶び、お念仏申させていただきましょう。

 

葬儀は、人間が人間であることのの証し
(浄土真宗のお葬式)

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 最近とみに「葬儀不要論」が世間を席巻している。
 もちろん葬儀が華美である必要はない。葬儀費用の高額化が一因であるなら、高い料金を必要としない葬儀のあり方を早急に提案していかねばならないだろう。同時に、宗教的帰属意識の希溥化によって「葬儀は不要」と考える人も少なくないに違いない。 ・・(中略)・・  

葬儀が不要と言う人もいれば、その一方で「ベット葬」を願まれることもある。家族同様にかわいがってきたペットの死は、世の無常に心を致す機縁ではあるだろう。はたして、浄土真宗の「葬儀」と言えるかどうか、考えてみる必要ががあるのではないか。

 浄土真宗の葬儀では、親鸞聖人のご和讃、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」を読誦する。浄土真宗の葬儀とは、ご本願に出過い、お念仏とともに浄土に往生された故人を讃え、同時に故人に縁を結ぶ人たちも、同じくお念仏の人生を歩むことを再確認する「仏縁」なのであって、仏徳讃嘆と、ご本願に出遇えた感謝の儀式が「浄土真宗の葬儀」なのである。遺族にとって、悲しい逆縁を仏縁として受け止める尊い機縁であり、さらには、お互いが支え合って生きていることや、人と人とのつながりを味わうことのできる場でもある。葬儀は、故人にとっても遺族にとっても、それぞれ、人間が人間であることの証しである。・・(略)・・                                (本願寺派宗報2010年6月号より抜粋)

 

よき友を持つこと

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 最近は人間関係や対人関係で悩んでおられる方が多いと聞きます。孤立、孤独と言う言葉が遍満しています。
 私どもの仲間が「自殺対策に取り組む僧侶の会」という会を主宰しています。宗派を越えた僧侶が集まり、年間3万人以上(東京マラソンの参加者とほぼ等しい人数だそうです)にも達する自死者があることを憂い、何か出来ないかということからこの会が出来上がっていったそうです。この会の目標に『一人ひとりが生き生きと暮らすために「安心して悩むことのできる社会」を目指します』とあります。悩んでいること、落ち込んでいること、苦しんでいることを人に相談するという事が出来なくて、もっとそれが大きくなっていってしまう、そんな事がくり返されているように思います。悩んでいる落ち込んでいる苦しんでいることは、マイナスなことで人に言っちゃ行けない、知られたくない、知られたら自分の評価が下がる・・。こういう連鎖なんでしょうか。
 今は安心して悩むことのできない社会です。ですから「安心して悩むことのできる社会」を実現することは大切なことです。
 また違う仲間が最近小さなリーフレットを作ってくれました。お経にあるお釈迦さまとお弟子のアーナンダとの会話が載せられています。こんな対話です。

「尊き師よ。よき友をもつこと、よき仲間のいること、よき人々に囲まれていることは、清浄なる修行の道の半ばを成就したのに等しいのではありませんか。」

「アーナンダよ、そうではない。よき友をもつこと、よき仲間のいること、よき人々に囲まれていることが、清浄なる修行の道のすべてなのである。」

お釈迦さまは良き友を持つことの大切さを当時からお説き下さっていました。お互いに良きともとなり、「安心して悩むことのできる社会」の実現に勤めたいと思います。

 

「緩急」と「強弱」

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 ちょっと専門的な話しですが、法要を勤めるときに使う法具に「キン」という打ち物があります。いわゆるカネです。お経が始まるときや、途中でも打ちます。その打ち方に「緩急」というものがあります。連打をするのですが、一打して、その間隔を最初はゆっくり、だんだん速くなっていって、最後に二打します。

先日築地本願寺雅楽会の大先輩と話しをしていたときでしたが、「最近は緩急をじょうずに打てる人がいなくなった。本山にもいない」と言う話題で盛り上がりました。

「ほとんどの人が緩急ではなく。強弱になっている」ということでした。私も以前、住職の研修会で本山に行ったとき、緩急の打ち方をご講師に実演してくれと言ったことがありました。まわリの人は変な質問をすると思ったに違いありませんが、私は強弱ではない緩急をやってくれると思いましたが、やはり強弱でした。

お亡くなりになった川上准玄先生が盛んにキンの緩急の打ち方を講義されていたことを思い出します。私もうまく出来ませんが、いつも心がけています。

 

2010年頭所感

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 新年あけましておめでとうございます。

 一昨年、ヒマラヤの麓の仏教国ブータンを訪問しました。ブータンは日本のように何でもある国ではなく経済的にも決して豊かではありません。しかし、国民の顔はみんな幸せそうでにこにこしています。日本に着いたとき、多くの日本人を見ました。みんな忙しそうで、顔は辛そうで、苦しそうに見えました。ブータンより豊かで先進の国のはずなのにと思いました。何故だろうと思ったとき一つ思い当たることがありました。この人達は仏教の教えを知らないからだと。

 日本には古くから伝わる仏教という教え(生き方)が伝わっています。仏教徒とは仏教の教えを我が人世の最高の秩序とし、最高の規範として生きてきました。昨今の日本は自分勝手な考えや基準を元に生きる人が増え、今日のような社会になりました。これは一人一人の考え方や生き方が原因です。

 阿弥陀如来の恵みは、あらゆる人々を平等に、限りなく慈しむ心です。私たちは、自分本位の生きかたをせず、阿弥陀如来の恵みの中で生けとし生きるものみな父母兄弟であることを自覚し、お互いに敬い助けあいの心をもって、報恩感謝の思いから、阿弥陀如来のお徳を讃える称名念仏の日々を過ごさせていただきましょう。

 

 

このクレヨンは売りません

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何年か前にインド旅行をしたときであった。

この日は「ベナレス」からお釈迦さまが亡くなられた場所「クシナガラ」へバスで向かっていた。15人ほどの仲間が乗っていた。途中で小さな町があるとそこで休憩をとった。バスはガソリンを補給し、我々はチャイ(インド式ミルク紅茶)を飲んだ。インドの小学校だろうか、丁度、学校の前であった。小さな店が並ぶ中に文房具を扱う店があった。サリーを着た女性が店をやっている。そこの生徒用にノートや筆記用具、学校で使うようなものが並べてあった。私はクレヨンに目がいった。8色入りだったろうかインド製のクレヨンを土産に買った。5ルピーだったと思う(1ルピー4円くらい)。簡素なものだったがインド土産には丁度よかった。

 私がクレヨンを買ったのを見て、一緒に旅行をしている仲間もクレヨンを買おうとしたら、店の女性はもうクレヨンは売らないと言った。理由はこうだった。あなた達がこれ以上このクレヨンを買ってしまったら、ここの小学生が買うクレヨンが無くなってしまうからと言うことだった。

 私は頭を何かでたたかれたような感じになった。日本だと商売だから売れるときになんでも誰にでも売ってしまう。無くなったらまた仕入れればいいと言う事だ。しかしインドは違った。町を離れるとまだまだものは豊富でなく、ものが無くなったら何時はいるかわからないから一つ一つ大切に使って、使うべき人が大切にそのものを生かして使うべきという事をみんながわかっているのだと思う。

 先にクレヨンを買った私は何とも言えない気持ちであった。実際そのクレヨン、日本に帰っても誰も使うことなくしまわれている。もし私がこのクレヨンは買わなかったら、これはインドで子ども達が使っていたことだろう。今度そこを通ったら日本のクレヨンをもってお詫びにいきたいと思っている。

 

それって、ラッキーじゃないですか

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 ◆ボーイスカウト仏教章修得研修会にて

「それって、ラッキーじゃないですか」
突然研修室の一番後ろから大きな声がした。研修室は大きな笑いが渦巻いた。私はすかさず「そのとおり!その声が欲しかった。それが大事なんだ」と言った。

 それは、私がボーイスカウトの仏教章修得研修会で、悪人正機の話しをしているときだった。「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」、善人でさえ浄土に救われるのだから、まして悪人はいうまでもない。この言葉がこのスカウトに響いたのだろう。

 おそらくこのスカウトは自分が悪人であるという事を自覚していて、日頃からこのままではどうにもならないと思っていたのだろう。そこに、この悪人正機の教えを聞き、この私が救われていく道がここにあったんだという喜びというか、驚きがこの言葉に表れたのだろう。

 まだ、浄土真宗の教えに出会って本当に間もない高校生年代のスカウトは、喜びを南無阿弥陀仏のお念仏で表すことは出来なかった。しかし、「それって、ラッキーじゃないですか」と言う喜びの声の方が私は何倍も嬉しかった。

  このスカウトは阿弥陀如来の救いのめあては自分であり、私のために説法をし続けていたということがすっと体に入ったのだろうと思った。

◆スカウト運動と仏教章

 スカウト運動について、その創始者、英国のベーデンパウエル卿は著書「スカウティング・フォア・ボーイズ」に「ボーイスカウト訓練法は信仰心を育み自己本位の観念の代わりに社会奉仕の観念を植え、精神も身体も共に公に奉じ得るよう各人の能力を鍛えるのである。特にこの訓練法には軍事目的または実習は一切含まない、人類同朋に対する奉仕の観念を育成するものである」と著されている。

 すなわちスカウト運動は、宗教(信仰)を基盤とした社会教育であり、スカウト達には明確な信仰を持つことを奨励している。その明確な信仰を持つように導く一つの方法として、小中学生には信仰奨励賞、高校生以上には宗教章(仏教章)が設けられている。本願寺派スカウト指導者会は「仏教章を胸に」のスローガンのもと活動を続けている。

 仏教章の修得の年代はボーイがベンチャー部門、ガールスカウトがレンジャー部門であり、主に高校生年代で修得するが、スカウト運動の中ではその年代だけが仏教の教えに触れているわけではない。スカウトは小学校低学年のビーバー(ボーイ)やブラウニー(ガール)スカウトの頃から、仏参をし、食前食後の言葉、法要行事への参拝参加、ご住職のお話の聴聞などを通して信仰心が養われていっているのである。それに加え、指導者や保護者の方々も仏教の教えに遇い、自ら聞いてその慶びをスカウトに伝えていくという事がくり返されているのである。

 この指導者や保護者の方々はご門徒ばかりでなく、地域にお住まいの方々からも奉仕いただいていている。ここに大きな意義があり、スカウト運動を通してご門徒以外にも仏法が広まっているのである。

 まさに全員で聞き、全員で伝えていく仲間が生まれているのである。

◆スカウト運動は報恩行

 スカウト運動には進歩制度というものがある。定められた技能の修得や目標の達成によりスカウトとしての進歩課程を示していくものだが、ともすると、進歩のために、自分のためにと日々の善行を行い、廃悪修善の生活をし、論功行賞のご褒美を求めてしまう。本願寺派スカウトはそうあってはならない。 

 本願寺派スカウトは阿弥陀如来の教えを我が最高の秩序とし、我が最高の規範とし、日本連盟の定める、ちかいとおきての実践を基盤として、「そなえよつねに」のモットーを常に保ちつつ活動しているのである。

 私達は阿弥陀如来の本願力によってすべてのものが等しく救われていく教えをいただいている。すでに救われていくことが決まった私達は、ただただ報恩行にいそしむばかりである。

 スカウトとしての報恩行は、スカウトとしての技術を身につけること、目標にチャレンジし達成をすること、仏教章を修得しその喜びを伝えられるようになることである。

 浄土真宗の教えに遇い、仏になることが約束されたスカウトならば、せめてこのくらいはさせていただきましょうと報恩行を精一杯勤めさせて戴くのである。

 スカウト運動がますます盛んになり、世のため人のために尽くすスカウトが一人でも多くなることを切に望んでやまない。

2009/12(浄土真宗本願寺派「宗報」所載)

 

お見送り

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 若いご夫婦の門徒さんがいる。春秋のお彼岸とお盆にお宅に行ってお参りさせていただく。帰るとき、そこの若奥さんのお見送りがとても素晴らしく気持ちがいい。 

 私が築地別院に勤務しているとき、とても厳しいご輪番から、お見送りの仕方を教わったことがある。新幹線で京都にお帰りになるご本山の方をお見送りに行ったとき、私は新幹線のドアが閉まり動き出したので、その場を立ち去ろうとしたら、新幹線が見えなくなるまでお送りするのが、お見送りだと言われた。ご輪番は、中指をズボンの縫い目にあて、新幹線が見えなくなるまで「気をつけ」の姿勢のままで、見えなくなる寸前に一礼してお見送りが終わった。

 以来、私もお見送りの時はこれを心がけ、ご本人の姿、もしくはお乗りの車が見えなくなるまでお見送りをするようにしている。寺でお見送りをするときは、だいたいの方が約50メートル先の角を左右どちらかに曲がるので、その時まである。

 お参りにご門徒のお宅に伺ったとき、お見送りは本当に様々である。玄関の中でお見送りをされる方。履き物を履いて2、3歩玄関から出てお見送りをされる方、この場合ご挨拶を受けて、背中に視線を感じながら歩いて、いよいよ視界からはずれると思ったとき振り返ると、そこには誰もいないことがある。私もそこで一礼をしたいのである。車の場合も視界からはずれる時も同じで誰もいないと少しがっかりである。

 一番ショックなのは、玄関内でお見送りをされ、玄関を出でドアが閉まるとまだ私はそこにいるのに、中からガシャッと鍵の閉まる音がするときである。鍵はお客人が完全にお帰りのなってからにしていただきたい。

 この若い奥様のお見送りは、玄関から出て、車に乗る前にご挨拶があって、車が動き出すと、道路まで出て、車をお見送りされ、私がその先の角を曲がるとき、バックミラーで見るときちんと一礼をされているのである。見事である。

  どなたからこのようなお見送りを習ったのかわからないが、良いお育てにあっていることは間違いない

(2009/10)

 

 

映画「おくりびと」のこと

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映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞して世間が騒がしいです。

 納棺師という職業は昔はありませんでした。映画では納棺師の仕事をみんなで見ていると言う場面がありますが、亡くなられた方のからだを洗ったり、着物の着せ替え、たびや靴下の履き替え、ひげを剃ったり、化粧をしたりは、全部ご家族、ご遺族の仕事です。

 ルーズソックスを履かせるところは手伝われながらもお嬢さんがやっていました。若い方は死を素直に受け入れたのかもしれませんが、いつしか、たとえわが家族でも死体を扱うのは汚いこと、嫌なことだと言う概念ができて、葬儀社さんが代わりにするようになり、納棺師という死体を扱う専門職が出来たのだとおもいます。

 死というのは厳格なもので、尊い存在です。汚いものでも、忌み嫌うものでもありません。仏さまになられた姿です。煩悩や欲にまみれた我々よりずっとずっと清らかな存在です。

 今回の映画で良かったことは、死を扱う仕事として差別されたこともあるだろうところの、納棺師と言う仕事を取り上げ、その仕事は尊い仕事と言うことを世間にアピールしたことでしょうか。

 映画の画も変でした。死後硬直したご遺体の手足はあんなに柔らかくありません。ご臨終が近くなると、病院から最後に着せる着物を持ってくるように言われます。着替えもだいたい死後硬直が進む前に病院でします。映画では自宅の座敷でしています。?です。

 死に姿もあんなに美しくありません。死に至る理由も様々です、痩せ細ったり、腹水がたまったり、足がむくみ倍以上になることもあります。

 私は納棺師という方に会った事がありません。映画のような納棺師という仕事は病院の看護師さんと葬儀社の方がします。死化粧だけを担当する外部の専門職の方もいます。

 最後の着替えはと死に化粧はだいたい、病院の看護師さんがしてくれます。エンジェルセットという死後処置セットを持って病室に行きます。

 先ず、すべての穴という穴に綿を詰めます。着替えをします。大きくむくんだ方は女性の看護師さんでは重労働です。ころんころんと体位を半分ずつ変えながら着替えをします。そして死後硬直が進まないうちに、口が開いたまま硬直しないようにあごををしばります。目も開いたままにならないようにおさえます。手も硬直しないうちに胸の前で合掌の形にします(後でお念珠をかけます)。病院によってはキリスト教のように指と指を交互に組むようにします。こうされるとお念珠はかけられません。手の上に置くことになります。その後、死化粧やひげを剃ったり、髪の毛を整えたりです。

 そのあと、ご遺族と対面です。

 ここからは葬儀社の方のお仕事です。霊安室に一時安置する場合もありますが、寝台車が来て、お家に帰ります。場合によっては直接葬儀場に行ったり、葬儀まで時間がある時は、冷蔵保管室に入ります。可愛そうです。せめてお家に一晩でも泊まって戴きたいです。

 お家に帰ったとして話しを進めますと、お家でまず布団に寝ます。葬儀社の方が寝姿を整えてくれます。ご遺体をドライアイスで冷やします。夏場は特に沢山使います。病院でお化粧などしていますが、ご家族で最後のお世話をしていただきます。死後硬直が進んでいなければ着替えが可能です。

映画だとこの辺で納棺師登場と言うことになるのでしょうが、先ず来ません。

 お布団に寝ているときに、ご住職が来て「臨終勤行」をお勤めします俗にいう「枕経」と言うお勤めです。亡くなられた方への最後のお説法です。ご家族も一緒に聴聞します。

 その後にお棺に納めます(納棺です)。出棺までの間いつでも入れられますが、この時からお棺には副葬品を納めます。浄土真宗では手甲脚半、菅笠に杖、路銀の六文銭などの旅装束は致しません(映画ではしてました。何宗の設定なんでしょうかね?)。阿弥陀如来の救いは旅路のない一足飛びの救いですから(往生即成仏)。

 納棺が終わると、斎場に移動です。斎場ではご遺体に対してもう何もしません。夏場にドライアイスを交換するくらいでしょうか。そのまま通夜葬儀と言うことになります。


 最後にもう一度、映画に出てくる納棺師のお仕事は、本来ご家族でするものです。納棺師という仕事がある事自体、自分たちで死者を嫌っていることです。自分ではやらないのに、納棺師に対しては、丁寧に美しくということを願い、求めます。

 人間の欲や煩悩やわがままは止めどなく、どこまでも深く、どこまでも際がありません。そこに気づいていきましょう。「目覚めよ気付よ身のほどを知れ」。



 ついでに書き加えておきますが、介護の世界でも同じです。今では介護を専門職に依頼するのが当たり前のようになっていますが、本当は家族でするものではないでしょうか。

(ちなみに私の妻は元看護士で当然死後処置も数多く経験しています)2009/2/23

 

 

2009年頭所感

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あけましておめでとうございます。

門信徒の皆様におかれましてはご清祥にて新年をお迎えされたことと存じます。
昨年は仏教国ブータン旅行をさせていただきました。旅行中耳にした言葉に「本当の幸せとはすべての人々が幸せになること。自分だけ幸せになろうとすることは次元の低い幸せである」という言葉でした。この言葉を聞いて自分の回りをよく見ると、自分だけ豊かになりたい、幸せになりたいという考えばかりでした。情けない思いがしました。
 あらためて親鸞聖人によって開かれた浄土真宗の教えを戴くと、すべての人びとが、修行や積み重ねをすることなく、阿弥陀如来の本願力によって等しく救われ、すべての人々が幸せになるという教えでした。 何か、仏教国ブータンの方から伺ったことばから浄土真宗の心をあらためていただいた有り難い出来事でした。
  本年も阿弥陀如来への報恩感謝の思いから、阿弥陀如来のお徳を讃える称名念仏の日々を過ごさせていただきたいと存じます。

 

 

自転車の通行ルールが最悪です 

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最近、自転車のマナーが乱れ最悪です。正確にはマナーではなく交通規則違反です。マナー違反ではなく交通違反です。警察も収入にならない取り締まりはしないようで、自転車を交通違反で捕まえているところは見たことがありません。
最近目に付く違反は、「信号無視」「車道の逆行」です。
「信号無視」は本当にひどいです。車が来ないのを見はからって行くならまだしも、赤なのに安全確認もしないで行く馬鹿者もいます。信号は自動車のためのもので、自転車は関係ないと言う輩までいます。
「車道の逆行」は最近増えてきました。人が歩いていて走りにくいのか、歩道の段差が嫌なのか、歩道を出て車道を走ります。左側通行は合法ですが、右側を車に対抗するように走ってきます。危険きわまりない好意です。若者ばかりかと思ったら、おかあさんが先導して子供と一緒に車道を逆行しているばか母がいました。爺さんが孫を後ろに乗せて(そもそも2人乗りも違反です)車道を逆行している、ばか爺さんがいました。
それを見ている世間は注意することもなく、やり過ごしています。私は、大声出して注意しますが、知らん顔するか、こちらをにらみつけるかがほとんどです。
特に気になるのが、自転車でお金をもらっている「自転車便」という輩です。この種が全く規則を守りません。一応プロなんだから、自転車乗りの手本のなるような走りをしてもらいたいものです。交通違反ばかりして走っている会社は、会社にも傷が付くはずです。

もう一つ言わせていただくと、何がかっこいいか知りませんが、最近流行のFIXの自転車です。いわゆる固定ギアでブレーキのない自転車です。競輪用です。止まるときは逆方向に力を入れて止まりますので、急には止まれません。絶対に公道では危険です。死人が出ないのが不思議なくらいです。

自転車は環境にいい交通手段です。交通ルールを守り、安全に乗りましょう。お願いしますよ、本当に。

私は子どもの頃から自転車に乗り、大学では自転車部にいました。お盆やお彼岸の外勤では自転車と使います。根っからの自転車のりなのであえて言わせていただきました。


チベットで何が起こっているのか?

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 昨年6月、友人のご住職とご門徒のみなさまと一緒に中国・チベット旅行に行きました。

 ラサではチベットの象徴であるポタラ宮やチベット仏教の巡礼の聖地であるジョカン寺を訪問しました。美しい山河に囲まれた標高四千メートル近い町は、純朴で清らかでした。それぞれのお寺では、五体投地する敬虔な巡礼者の姿に、同じ仏教徒として深い感慨を覚えました。

 しかし昨今、テレビでは昨年訪れたあのラサの町並みとは打って変わった光景が映し出されています。 3月10日、ラサではダライ・ラマ14世の非難を紙に書くことを強制する中国政府に対し、その緩和を求める四百名の僧侶による平和行進が行われ、参加した50人以上の僧侶が路上で拘束されたのです。後日、その釈放を求めて集まった人々に向け、警察と軍が武力行使をしました。これが、今伝えられているチベットの僧侶や市民の抗議行動の発端です。この行動は、隣接する地域にも拡大し、多くの死傷者が出ています。中国政府とチベット亡命政府双方から出される情報にはくい違いがありますが、少なくともラサ市内や各地で流血の惨事となっていることは間違いありません。

 チベットは1949九年、中国に軍事侵攻を受け、51年に人民解放軍がラサに進駐して以来、信教や言論の自由が認められない状態となります。59年には大規模な民衆蜂起が起きます。弾圧から逃れインドに亡命したダライ・ラマはその後、一貫してお釈迦さまの教えに基づいた「非暴力」によって、チベットの自治と信教の自由を訴えられ、そのことが国際的に認められ、ノーベル平和賞を受賞されました。

 近年中国政府は、漢民族をチベットに移住させ、中国への同化政策を推し進めてきました。その影響か、昨年私が訪れた時のラサ市内は、チベット族は両辺に追いやられ、経済的には漢民族が支配しているという状況にあることは、少なくとも感じましたが、このような惨劇が起こるまでの状況になっていることには気づきませんでした。
 チベットの人たちは、このような状況をじっと耐え続けていたのでしょう。

 本願寺派においても3月18日に、「暴力や武力による行動ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重し合いながら、平和的な対話などによって、これらの深刻な事態の速やかな終結を望みます」との声明を出しました。
 話し合いによる事態収拾と自治権と自由の回復を願っています。
                                                                                                     (一部本願寺新報より抜粋)

 


声に出して「お念仏」をしましょう

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 「南無阿弥陀仏」というお念仏は、阿弥陀さまの私達へのお説法です。そのお念仏には沢山の意味が含まれています。

「必ず救うよ」  「私はいつも見ているよ」  「一人じゃないよ」 「あなたこそ救うよ」  「みんないっしょに救うよ」  「心配しないでいいよ」  「みんな私が引き受けるよ」  「」・・・ 

 阿弥陀さまのお説法が私に届いて、「ハイわかりました」と心得たとき、今まで体中をしばっていた余計力がすっと抜け、「よろしくお願いします」と思ったとき、お念仏が口からで出下さるのです。そのお念仏が出たときが「ご信心」をいただいたときなのです。

 そしてその声がまた私の耳に届いて、「ああ、阿弥陀さまのお説法が私に届いているなあ」と受け取らせていただくのです。

 沢山の方々とお参りしていると、沢山の方のお念仏が聞こえてきます。沢山の方々が私に声をかけてくれていると思うと、とても心強く思います。沢山の方々は阿弥陀さまのお手代わりとして、私にご説法してくださっています。

 声に出して「お念仏」をしましょう。他人の称えるお念仏を聞いて、自分で称える事を怠っていると、そのうち、自分の耳が聞こえなくなったとき、念仏は聞こえてこなくなります。
 
 耳というものは、他人の声が聞こえなくなっても、自分の声は聞こえます。自分の声でお念仏を称えていれば、一生、阿弥陀さまのお説法が聞こえる人生を送らせていただけるのです。

 

 


   2008年 年頭所感

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 あけましておめでとうございます。 門信徒の皆様におかれましてはご清祥にて新年をお迎えされたことと存じます。

 昨年をふりかえりますと「偽」「疑」という言葉が常に聞こえていました。あらためて人間の「欲」「煩悩」の深さを思い知らされたことです。「お天道さま(阿弥陀さまご先祖さま)が見ている」と言って、誰も知らなくても悪いことはやめよう言う考えは無くなってしまったようです。

これに対当してきたのが「正直者はバカを見る」と言う言葉です。この言葉に違和感を感じなくなり、自分さえよければ、自分さえ儲かればいいと考える人が増え、これを正しいと言う人も増え、その結果が最近の事件ではないのでしょうか。 

しかしこれらは他人事ではありません。私達も、いわば「優劣勝負損得」に振り回され、欲と煩悩にまなこを遮られて、何が良いことかわからない状態です。

私達は今、阿弥陀如来という真実の世界と向き合い、我が姿を知らしめて戴く時です。

今年も阿弥陀如来の教えに沿って心豊かに生きぬきましょう。

阿弥陀如来の教えに沿って生きると言うことは「私は仏教徒、浄土真宗の門徒」として生きるということです。

 


ハロウィーンが終わってクリスマス

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 最近「ハロウィーン」という聞き慣れないキリスト教行事が流行ってきました。

 ハロウィーンとは、カトリックの諸聖人の日の前(10月31日)に行われるキリスト教圏伝統行事です。

日本ではキリスト教に信仰のあるなしに関係なく、ただ商売になるから考え出されたようです。クリスマスまでの間、特にイベントもないこの時期、セールをするのにちょうど良いのだそうです。 

この時期これに因んだケーキやお菓子が売られ、カボチャが売られ、ハロウィーンパーティーをするよう煽り立てられていきます。信仰も何もあった物ではありません。 

クリスマスもキリスト教圏の国をまねして、商売にしたのでしょう。クリスマスをもう国民的行事だからと言いきる方がいますが、煽り立てられて国民行事になってしまったことを忘れてはいけないと思います。 

仏教にも数々の年中法要があります。

@新年のお参り 元旦会(1月1日)
Aお釈迦さまの誕生日、「花まつり」(4月8日)
B親鸞聖人のお誕生日、「降誕会」(5月21日)
C仏道強化週間ともいえる、「お彼岸」(春秋の春分の日、秋分の日を中心とした1週間)、
D成仏させていただいたことを喜ぶ、「お盆」(別名:歓喜会)(7月15日)、
E親鸞聖人のお亡くなりになったご命日法要であるとともに、聖人の遺徳を讃え恩に報いる、
  「報恩講」(ご本山は1月16日。関東では10月〜11月ころ)
F大晦日のお参り 除夜会(12月31日)除夜の鐘を撞きます(鐘のあるお寺だけ)


また、人生の節目の行事も、仏教徒ならすべて仏式で勤めるのが、信仰上正しいことです。
流行やみんなしているから、隣のおばさんに言われたからなどの理由で、異なる宗教で儀式をするのは仏教徒として正しくありません。

@初参式  初参り。赤ちゃんがはじめてお寺参りをし、産まれたことをご先祖、仏様に報告する
A七五三  お寺へ七五三のお参りをします。
B成人式  仏前の成人式
C結婚式  仏前結婚式
Dお葬式  仏式のお葬式

E起工式  神式の地鎮祭をする方が多いですが、仏式では起工式と言い、この地に家屋を建てられ
        る慶びと、おかげさまを仏さまに御礼申し上げます。
        この地の神様に、この地に家を建てる失礼をお許し下さい。どうぞ災いなど起こさないで
        ください。鎮まりたまえ、おさまりたまえと祈願することとは違います。

F種々の奉告参拝(法要)
仏教徒は、嬉しいとき、悲しいとき、すべての時に仏さまと共にあります。何かの時には、必ず仏さまご先祖様に「奉告」のお参りをしましょう。
開店奉告、金婚式、銀婚式奉告、入学卒業奉告、就職奉告などなど、何につけても仏さまと共にあるのが「仏教徒」というものです。


嬉しいときは、お菓子やお料理を作って一家でお祝いしましょう
悲しいときも、お菓子やお料理をたべて、元気を出して一家で乗り越えましょう。

 

 


後ろでお参りしてますか?

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 今年も、お盆経で、ご門徒お宅をまわらせていただきました。

毎回思うのですが、私がお仏壇に向かって読経しているとき、後ろでお家の方は何をしているのか心配になります。お家によっていろいろです。一緒にお経を読むお家。最初と最後の合掌礼拝の時にお念仏の声が聞こえてくるお家。こういうお家はまあ結構です。

後ろでなんにも聞こえてこないお家。この何にも聞こえてこないお家の方は何をしているのか心配になります。気配で感じるのですが、ただ「私の読経を聞いているだけ」、とか「読経している姿を見ているだけ」じゃないでしょうか。

なにか、お仏壇にいる仏さまを、お盆とお彼岸のときに来て、お経をあげて、お仏壇のメンテナンスをしているような扱いです。お家の方は、そのメンテナンスの仕事を見ているだけで、メンテナンスが終わると、ありがとうございますと言って、「お布施」を下さる。こんな感じなんでしょうか?

たまに、あんまり知らん顔しているお家では、掛け声をかけて「ご一緒に合掌しましょう」と言うときがあります。あわてて合掌しているようですが、めったにしないことなのか、何とも様にならない合掌の姿です。日頃合掌していないことがばればれです。

お仏壇とは阿弥陀さまをご安置し、一家の信仰の大切な中心としてお参りするところです。日頃から心のよりどころ、いろいろなことを気付かせていただき、お育ていただいている、阿弥陀さまに御礼申し上げることが大切なことです。

お坊さんがお参りしているのを聞いているだけ、見ているだけでは、お参りしたことにはなりません。せめて、合掌し、「南無阿弥陀仏」と声に出してお参り下さい。

 


なまけないでください

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 「私は毎日カセットテープのお経をお仏壇の前でかけています」と言う方がいます。一見信心深い方のように見えますが、良く聞くとカセットテープにお参りをさせて、自分は外のことをしているんです。これではなんにもなりません。

そもそも、カセットやCDになっているお経は練習するためのお手本で、これを聴きながら自分でお経があげられるようになるための教材です。


お経とは自分で読まなければ、仏徳讃嘆(仏さまの教えを称えること)にはなりません。
ましてや、ご先祖にお経を聞かせているから充分供養していると思っては、浄土真宗の他力の教えとはかけ離れてしまいます。

浄土真宗の読経とは、仏さまやご先祖をお慰めたり、弔ったりするためのものではありません。
読経とは私たちから仏さまやご先祖様を供養するためのものではなく、私たちが、仏さまご先祖様に供養されていることに対して御礼(仏徳讃嘆)するためのものです。

       ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「門徒もの知らず」と言う言葉だけ良く知っていて、仏教や浄土真宗のことを本当に何にも知らないでいることをこの言葉でもって、正当化しようとする方がいます。

浄土真宗の門徒は何にも知らなくていいということではありません。これは浄土真宗の教義や作法を良く理解して実践している姿をみて他宗の方々が言った言葉です。浄土真宗の教えでは、世間でいう迷信俗信にしばられて「ああしなくていけない」、「こうしなくてはいけない」ということがなく、世間のしきたりを何にも知らないんじゃないかということから、「浄土真宗の門徒は何にも知らない」「門徒もの知らず」と言われるようになったと言います。要するに阿弥陀さまの教えを大切にしていくということです。

「門徒もの知らず」とは、浄土真宗の教えを間違いなくいただいている門徒さんの生き方を言い当てた言葉です。
なんにも知らなくていいということではありません。なまけずに浄土真宗の教えに親しんでください。
 

 


テレビの中の浄土真宗

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 NHKの朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」が3月31日で終わりました。そこに登場する住職一真さん役の石田太郎さんは、本物の僧侶で、金沢市の西本願寺派乗敬寺のご住職です。

 おわかりの方もあったかと思いますが、着けている袈裟はいつも西本願寺の下がり藤紋でした。住職とのせりふのやりとりでも、浄土真宗の教えに基づいた感じでした。

 ご法事やお葬式の場面では、きちんと浄土真宗の作法に則ったお飾りがされていました。特に最終回のお葬式の場面(大阪の津村別院でした)では、きちんとお飾りされていました。お葬式というと、とかく写真中心になりがちですが、阿弥陀如来が中心に安置され写真がその脇にあるという好ましいお飾りでした。

 住職も浄土真宗の袈裟をつけて読経していました。おそらく住職役の石田さんの自前でしょう。これも、御法義地の大阪であることや、僧侶であり俳優の石田さん、また津村別院さんのご指導だと思います。感激しました。

 また、3月27日には植木等さんが亡くなられました。言うまでもなく「クレージーキャッツ」で一世を風靡した大コメディアンだったことはご存じの通りです。盛んにTVで言われていましたが、植木さんの御尊父は、浄土真宗寺院のご住職で、水平社運動にも参加し反差別反戦の運動をしてきたお方でした。その御尊父からの教えを多く受け継いだと見られる植木さんの語録は浄土真宗に基づいたものとしか言いようのないものばかりでした。ヒット曲の「スーダラ節」、「わかっちゃいるけどやめられない」の歌詞は、凡夫のありようが直接出ていて、たいそう感銘していました。

 浄土真宗の教えは、自分の凡夫性を明らかに認めていくことから始まる。植木さんの生き様や、ドラマの中ではあるが、一真住職の生き様語録を見ると、浄土真宗で良かったとつくづく思う。

 


占いなどの迷信に頼らない生活

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  年末に占い師細木数子さんが、宗教、仏教に対して間違ったことをテレビで言ったので、混乱したご門徒さんがおられました。「年末にご先祖にお参りするべき」「正月はお寺に行くもんじゃない」「仏壇の花は仏さまの方に向けて供える」・・・などです。 
 
仏教徒とは、毎日の生活を仏さまご先祖様と共に生きるのがその姿です。お参りしていけない日などありません。仏壇にお花をお供えをしますが、これは仏さまをお飾りするためにお供えするのですから、こちら向きです。ブローチやネックレスを自分に向けて着ける人がいないのと同じです。 
  
他の宗教宗派で「×」と言っても浄土真宗では「○」のことがたくさんあります。ヒンズー教では牛肉を食べません。断食が定められている宗教もあります。浄土真宗では空海さん、最澄さん、道元さんのご法要はしません。親鸞さんのご法事をします。写経もしません。浄土真宗は肉食妻帯を親鸞の時代から可です。

他の宗教で「良し」言われていることをすべて守りますか?すべての宗教の教えを取り入れていたら生活出来ません。たくさんの宗教宗派から自分にあった一つの宗派を選び取り、その教えに沿って生きることが、信仰を持つと言うことです。

 正法寺は浄土真宗です。正法寺の門徒さんは浄土真宗の作法に基づいた生活を心がけ、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」のが浄土真宗の宗風です。

 


仏旗の由来と意義

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 仏旗とは六金色旗(ろっこんじきき)ともいい、仏教を信じるものの「旗じるし」であり「仏さまの旗」であります。六金色とは、青・黄・赤・白・淡紅の5つの色と、その5つの色が混ってできる色(五色混色)とを合わせて6つの色なのです。

 印度に古くから六金色として六種の色が伝えられていましたが、それは『涅槃経』(ねはんぎょう)の中に「2月15日涅槃(釈尊入滅のこと)の時に、釈尊はお顔から色々の美しい光を放たれました。その青・黄・赤・白・はり・めのう等の光は、広くあらゆる世界を照らし、この光を受けたすべてのもの(六道=地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上(てんじょう))たちは、みな苦しみと迷いの全部を除かれました」と記されています。その光の中“めのう”はその色は淡紅であり、“はり”は水玉ともいわれ無色透明であって、他の五色を映し出すので五種混色として表しています。
 
 仏さまの六金色は広くあらゆる世界(東西南北上下の六方・六道(ろくどう)の一切衆生(いっさいしゅじょう)のものをあまねく照らし護って下さるのです。だからこの六金色旗は仏さまのお慈悲を表しているのです。

 この六金色旗は米国の陸軍大佐オルコツト氏がかつてセイロン島(現在のスリランカ)に渡り、仏教信者となり、仏教研究をされて『涅槃経』により創案され、明治20年(1887年)に日本へ来られると共にこの仏旗を伝えられたのであります。それ以来、日本のお寺や、仏さまの教えを聞くわれわれがこの旗を立てるようになりました。

                              
 

 


 

「企業の社会的責任」 CSR(Corporate Social Responsibility)に思う
浄土真宗本願寺派のCSR
 

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  最近CSR(Corporate Social Responsibility)という言葉を耳にする。会社が利益追従ばかりでなく社会貢献をすることに会社の社会的存在価値を見いだし、結果、イメージアップにつながる、と言うことのようだ。
 新年を迎え、景気の動向は決して良いとは思えないが、富裕層の存在は明かである。TV番組では豪邸に住む社長を紹介したり、セレブだと言って裕福な生活ぶりを紹介したりしている。まったく嫌気がさす。
 収益が上がれば社会貢献として、災害の被災者に物的・人的な支援をしたり、病院や学校を創設・支援、文化芸術の維持活動、福祉活動などなど、ボランティア活動に取り組むべきである。これらにとりくむために「企業の社会的責任(CSR)」という切り口でその企業姿勢が問われてきている。

 その取り組みは会社によって当然様々であるが、利益優先のために、おろそかになっていた環境保全、人権擁護、法令遵守、文化教育福祉向上への貢献、スポーツ振興などの本業の外での社会貢献活動に取り組んでいこうとうこだ。大企業ではそれなりにCSR活動が実施されているが、中小の会社や商店はまだまだと言った感が拭えない。

 ごく狭い範囲で恐縮だが、町内の商店街でもまだまだだ、雪が降ったら自分の店の前の雪かきをすればいい方、公道に違法看板、町内商店街行事への不参加、社員店員の社会人としてもモラルの低下、などきりがない。

 縁あって会社が設立され、縁あって収益が出たら、縁あったところに感謝の念をもち行動するのは当然のことと思う。それがなされていない。

 釈尊は縁起の法を説かれ「お互いに、あいより、あつまって、すべてのことができていく」「これがあるから、かれがあり、これが生ずるから、かれが生ずる。これがないとき、かれはなく、これが消えるとき、かれも消える」、「物事はすべて、原因とそれを助ける縁があって、結果が生まれてくる」と教えられました。すべて物事は、網の日のように互いに結びつき、はたらきあって、因となり縁となりあって起こっていると。
 これが「企業の社会的責任」「CSR」の原点ではないだろうか。

いまさら企業の社会的責任だのCSRだのいう前に、お釈迦さまはすでにこの事を説かれていた。

 友人の布教使さんがこんな事を言っていた。あるお座で、縁起の話しをしていたら、たまたま来ていた経営コンサルタント会社勤務の女性になぜCSRの話しをしているんですかと聞かれたそうだ。

 お釈迦さまの時代から説かれている仏法が今なお行き届かず、CSRという姿で社会に注目されていることは法を伝える側にとって複雑な気持ちである。

ちなみに浄土真宗本願寺派のCSRはこれでしょう

    み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます

    み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます

    み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます

    み仏の恵みを喜び 互いにうやまいい助けあい 社会のために尽くします

これは浄土真宗の生活信条です。これは第23代門主大谷光照(勝如上人)が1958(昭和33)年にご制定されたものです。制定はこの年ですが、理念は浄土真宗開宗以来、もしくはお釈迦様の時代までさかのぼります。

 

 


 

理解しがたいお話

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 ある浄土真宗の門徒さんが、大学に入学する息子さんのアパートを探しに不動産店に行ったとき、こんなやりとりがあったそうです。
 不動産店「何か宗教をやってますか?」
 門徒さん「はい、うちは浄土真宗です」
 不動産店「あ〜、浄土真宗は宗教じゃないので大丈夫です」
 門徒さん「??????」

※浄土真宗は立派な宗教です。不動産店の方は怪しげな新興宗教を心配したのでしょうが浄土真宗も仏教も宗教だと言うことを知っておいて頂きたいと思います。

 


 

仏教の一般常識、仏教徒として知っておきたいこと

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 四月を入学、就職など新しい環境で迎えられる方も、また、そうでない方も新年度はお正月とは違う新たな気持ちになると思います。
こんな事がありました。三月のお彼岸の前日に若い方から電話セールスがありました。お寺に集中的に電話セールスをしているようでした。言うには「明日寺に来て説明をしたい」という事でした。そのセールスマンは「お彼岸」という仏教行事を知りませんでした。そしてその期間は寺は忙しいと言うことも知りませんでした。そう言うことを会社の上司からも聞いたことはないと言っていました。
特に新年度だからということではありませんが仏教の一般常識、仏教徒の心得として知っておいて頂きたいことがあります。

@「仏教は死んでから先のこと」「死んで行く準備が説かれている」のではありません。「この人生の生き方」が説かれています。

A家にはまだ死んだ人がいないので仏壇は無くて良いと思っている方。間違えです。仏壇は一家に一つ必ずあるべきものです。人生の生き方を説いてくださるお方は誰ですか?。

Bお葬式の時「塩、酒、水で清める」のは仏教の作法ではありません。「神道の作法」です。そもそも仏教では「清め」はしません。

Cお焼香の作法は各宗派違います。マナーの本に書いてあることはマナーで、本当の作法ではありません。浄土真宗の作法はお焼香をいただかずに一回です。

D「私、霊感が強いんです」と自称する、特に女性が多いです。そう言われてあなたのことを素晴らしい人とは思いません。霊感って何ですか。かえってそれによって生活が窮屈になっていませんか。浄土真宗の教えに目覚めると、こういう窮屈から解放され自由で豊かな生活が開けます。

E「宗教は精神的に弱い人が頼るもので、強いものは宗教に頼らなくても生きていける」などと言う人がいます。これは誤りです。こんな自分勝手な生き方をしてはいけません。宗教とはこうなりがちな私を「律して」くれる大切なものです。

F「何で私がやらなくちゃいけないのか!」とキレるのではなく、浄土真宗なら「私がやらせていただきます」でしょう。

H立派な人とはどんな人でしょう。いろいろな条件があると思いますが、「明確な信仰を持っている」と言うことが入っていなければ本当に立派な人ではありません。

まだ沢山ありますが紙面の都合上ここまで。

 


お経を聞いても意味が分かりません

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 よく尋ねられることです。お経は漢文をそのまま音読みしていますので聞いただけではわかりませんし、その漢文を見てもなかなか理解できません。
法要は儀式です。儀式では原典(仏さまの教え)を誰の手も考えも加えずにそのまま読みます。お経の意味や味わいは、法事の後の法話、常例法話会や解説書で知っていきましょう。

正法寺にはわかりやすい解説書や法話会をご用意しています。どうぞお尋ねください。


2006年 年頭法話

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あけましておめでとうございます。
門信徒の皆様におかれましては健やかに新年をお迎えされたことと存じます。本年も浄土真宗の門徒として、浄土真宗の教えに沿った毎日を心がけて頂きたいと存じます。 
仏教には在家信者が守らなくてはいけない五つの戒めがあります。

一、生き物を殺さない(不殺生戒)、
二、盗みをしない(不偸盗戒)、
三、よこしまな交わりをしない(不邪婬戒)、
四、うそを言わない(不妄語戒)、
五、酒を飲まない(不飲酒戒)の五戒です。

私達はこの五つを守りきることは出来るでしょうか。浄土真宗はこの五つを守りきるのは「無理だ」と言うところから始まります。守りきる事の出来ない私達は救われないのでしょうか。否、そこには阿弥陀如来という仏さまがいらっしゃり、こういう私達こそ救うぞとおっしゃっています。自分の力があてにならない私達は、自分以外の間違いのない力「他力(阿弥陀さまの力)」で救われていくのです。そこにこんな私が救われていく慶びの声「南無阿弥陀仏」が出てくださるのです


放置自転車

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 今、自転車は安いものだと1万円を切るものまである。当然安価な自転車は町に氾濫し、都合よく使われ、「チャリンコ」「ママチャリ」などと俗称で呼ばれて久しい。持ち主は雨ざらし平気、自転車掃除なんかしたことない、ましてチェーンに油を差したこともない、自転車油なんか持ってない。盗まれても平気、汚くなったので新しいのが欲しかった、盗んでくれて良かったなんて事もある。ある方に自転車を買い換えるきっかけを尋ねたら、汚くなったから、錆びたからと言う答えがあった。二の句が継げなかった。
 私が父の退職金でミヤタ製のサイクリング車を買ってもらった時、3万3千円だった。今から30年ほど前のことである。当時自転車は高価なものだったと思う。だから掃除や手入れもきちんとして大事にしたものだった。
 最新ファッションに身を包んだお嬢さんが、手入れもしてない汚れた自転車に乗って、ギーコ、ギーコと怪音を発しながら駅に向かう姿を見ると、あなたは綺麗ですけど自転車汚いですよと大事にしてあげてくださいと言いたくなる。
 このような自転車は行く末駅前の「放置自転車」になるのだろう。人間の自己中心的な考えの現れとなってしまう。通勤通学で駅まで乗っていって、帰りに乗って帰るというものである。雨でも降ろうものなら駅前に置きっぱなしで自分は傘を差してさっさと帰る。自分の自転車が他人の迷惑になっていることなどつゆほども思わない。自分勝手にもほどがある。
 自転車を放置しても平気でいられる生き方とは何に依っての事なのだろうか。人間放っておくと我欲、我執が全面に出てくる。世の中を自分の都合の良いように生きようとしてしまう。これは人間として常だが、阿弥陀如来の教えに依って生きる我々浄土真宗門徒は、常に相手の身になって物事を考え、自己中心の考えを改めようとする営みを忘れてはならないはずである。(築地本願寺新報2005/8所載)


フランドン農学校の豚

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 インドのコルカタ、カーリー寺院に行った。名前の通りヒンズー教の神、カーリーが祀られている。沢山の参拝者で賑わい、子やぎが捧げられていた。

 捧げ物の子やぎは寺と道を隔てた所で売られていた。そこで買われた子やぎは、いくらかの食物を美味しそうに食べ、体を水で洗ってもらい、寺の前に捧げられた。子やぎは短い角を棒に引っかけられ、後ろ手にまとめられた四本の手足を引っ張られた。首が長くのばされ、子やぎは苦しいのかメエーと一声鳴いた。その瞬間太刀で首が切り落とされた。頭がごろんと地面に落ち、ゆっくり目を閉じた。子やぎの死体はそばの小屋に運ばれ、食肉として裁かれ、何キロいくらという新鮮なやぎ肉として売られていった。

 私はこの一部始終を見て心臓の鼓動が高まった。ドキドキした。私は数多くのいのちを頂いて生かされているということは随分前から聞かせていただいている。食肉センターで牛や豚が食肉に加工されていることも知識として知っている。しかし捧げ物とはいえ私の目の前で子やぎが食肉として裁かれていく光景を見たのは初めてだった。強烈だった。私はいかに尊いいのちによって生かされているのかが本当に明らかにされた。後刻、やぎ肉カレーを食べた。とても美味しかった。尊い経験だった。

 縁あって「フランドン農学校の豚」という芝居を見た。原作は宮沢賢治。芝居は飼育されている豚があるとき食肉として殺されていくことに気が付く。時に飼育中の生き物を処置するまえに本人から「死亡承諾書」をとらなくてはいけないという法律ができ、死亡承諾書に印を押すのをいやがる豚と役人の心中が描かれる。台本は人間の都合でいのちある豚を豚肉にし、それによって生かされている人間はなんと罪深く悪人なのかというところまで踏み込んでいた。

 後日劇団の主宰者と話をした。芝居の題材が重たいとよく言われるそうである。私はそうは思わなかった。こういういのちの有りようを問う芝居こそ、より多くの方々に見ていただきたいと思った。(築地本願寺新報2004/8所載)


立っている仏さまと座っている仏さま

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 日本には仏教の宗派がたくさんあります。そしてそれぞれの宗派は依りどころにする経典が異なり、独自の教え(救い)を説いています。分類の仕方はいろいろありますが大きく分けると二つに分かれます。
   その見分け方は簡単です。お寺の本堂のまん中にいらっしゃる仏さまが「立っているか」「座っているか」を見るだけです。
   座っている仏さまは、動きませんから、修行をして煩悩を取り除き「聖者」になって仏さまの所まで行き、そこで救われる教えです。立っている仏さまは、修行も何もかもが行き届かなく、「聖者」なれない「凡夫」を哀れみて、仏さまの方から救いに来てくださる教えです。どちらが良い悪いではありません。どちらが自分に合っているかです。
    浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」の立像ですから、後者になります。自分の力(自力)で修行して救われる教えではなく、阿弥陀如来の本願力(他力)によって、間違いなく全員が等しく救われていく教えです。しかし阿弥陀如来はただ一つ条件を出されました。それはその教えを信じ慶び「南無阿弥陀仏」と念仏を称えよと。
    ここには厳しい見つめがあります。私は修行も何もかもが行き届かなく、煩悩もとってもとってもまた出てくる。悪を、罪を重ねなければ生きていけない。私は決して「聖者」ではなく、「凡夫」であり「悪人」であり「罪人」であるということを自覚し、阿弥陀如来以外の諸仏では決して救われない私であるということを。

 このような私を阿弥陀如来だたひとりがすくい取るぞとおっしゃって、お立ちいただいていることを御礼申し上げないわけにはいいません。その御礼はお念仏(南無阿弥陀仏)を称えさせていただくことです。

(大事なところです。書き足りてません。詳しくは法話会においで下さい)


「頭を下げる」と「頭が下がる」

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 私たちは挨拶をする時、頭を下げお辞儀をします。回りから見るとどんな時でも同じ動作に見えますが、心の中には二通りの気持ちがあります。「頭を下げる」と「頭が下がる」という気持ちです。この二つは大違いです。 
 「頭を下げる」は、自分に何か計らい事があって、こういう場合は頭を下げておこうというような損得を計算している心が見え隠れします。反面「頭が下がる」は、このお方は自分より優れた方、自分にはかなわない、ありがとうございますと言う気持ちになったとき、自然に頭が下がります。 
なかなか気付きませんが、世の中には、頭が下がるお方、頭が下がるものばかりです。それを一つ一つ気付かせて下さるのが、阿弥陀如来のお働きです。 
 毎日の生活の中で、何かハッと気付かされた時、それは阿弥陀如来のお働きにやっと気付き、わが身が応えた時です。それを大切にさせていただき、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお礼のお念仏を申すことが、仏法に育まれた人生、お念仏に生かされた人生、頭が下がる人生です。


 

「お宮参り」ではなく「初参式」

人生の儀式は仏式で!

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 皆様の中には、赤ちゃんが生まれて「お宮参り」をされた方が多いと思いますが、浄土真宗にも「初参式」といって赤ちゃんが初めてお寺参りをする式があります。

 「初参式」とは、赤ちゃんが仏の子として育ち、これからの人生を仏さまのお慈悲に包まれて生きていけるよう、人生の出発にあたり、その誕生を仏さまにご報告する式です。

 初参式は、赤ちゃんにとっての人生の始まりの仏縁ですが、同時に親にとっても、親として生きる出発点であり、赤ちゃんによって与えられた尊い仏縁であります。是非「初参式」をお受けになり、親子共々に正法寺門徒として仏教徒として、大いなる自覚と自信ををもって人生をスタートしていただきたいと思います。

 浄土真宗のお家に生まれたかけがえのない赤ちゃん。是非「初参式」をお勧めします。初参式受式ご希望の方は正法寺までご連絡下さい。日時を打ち合わせさせていただきます
 
 「初参式」ばかりでなく、人生の儀式はすべて、仏式で行えます。仏教徒ならすべて仏前で儀式をするのが、当たり前です。「初参式」に続いて「七五三」、「成人式」、「結婚式」、「起工式(世間では地鎮祭)」、「上棟式」、「お葬式」などがあります。そのほかに「奉告参拝」というものがあります。嬉しいことがあったとき(入学、就職など、開店など)、悲しいことがあったとき(浪人決定、など)、なんでも仏さまに奉告して、いつでも、仏さまと一緒に人生を歩んで行くことが大切です。



 

優劣、勝ち負け、損得

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 わたしたちが社会生活を送っていると、いつも「優劣、勝ち負け、損得」のことばかり気にしていることがわかります。他人より優位にいたい、負けたくない、一人だけ徳をしたいという相対的価値感の中に生きているのです。ともするとこれに振り回され、劣、負け、損、が続くと不安がつのり、自らを見失うこともあるでしょう。

 浄土真宗の教えを中心にして生きると言うことは相対的価値感ではなく、絶対的価値観の中に生きることです。それは、阿弥陀さまと私との価値観の中に生きることです。

 どんなことがあっても阿弥陀さまは見ていてくださる。どんなことがあっても阿弥陀さまはほほえんでくださる。どんなことがあっても阿弥陀さまはお救い下さる。こんな大いなる「安心」の中で生きることがどんな苦境も乗り越えられる大きな力となるのです。

 人生の不安を紛らわすために、相対的価値感のなかで名誉や栄華を求めることは迷いの人生と言わざるを得ません。しかし、人間である以上迷いは晴れません。迷ったら、阿弥陀さまの教えを訪ねてください。そしてまた迷ったらまた訪ねてください。浄土土真宗はこの繰り返しです。


浄土真宗は「法」によって救われていく教え

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  の中には数多くの仏教宗派があります。この各宗派は各々教えの違いがあり、大きく分けると二つに分かれます。
  一つは、仏教を開いたお釈迦さまと同じ厳しい修行や経験をしながら同じ道を歩んで悟りに至ろうとする教えです。
  もう一つはお釈迦さまが厳しい修行の結果、悟りを開かれた後に説かれた「法」によって救われていこうとする教えです。

  前者は修行が治められる人にとっては確かな道かもしれませんが、修行が最後まで治められないものにとっては間違いなく必ず救われていく道ではなく、ひょっとすると救われないかもしれません。
  後者は、お悟りの後に説かれた「法」によって救われていこうという道ですから、法に叶うものは間違いなく救われていくという教えです。
  浄土真宗の教えは後者です。その「法」とは南無阿弥陀仏の「法」です。お釈迦さまは厳しい修行が治められない我々に、阿弥陀如来という仏さまが「南無阿弥陀仏」の一声のお念仏ですべての者が等しく救われていく「法」を説いていることお示し下さいました。私たちはこの確かな教えを頂き、よろしくお願いします。おまかせいたします。という気持ちでお念仏させていただきます。
  浄土真宗の門徒はこの「法」によって等しく救われていく道をいただいています。したがって、浄土真宗には何かを修めなければならないと言う「修行」はありません。我々は「修行」によって救われるのではなく、「法」によって救われていくのです。


お盆って7月?8月?どっち?

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 宗教行事に無関心な方が多くなりつつある昨今ですが、お盆になると日本中が郷里に帰り、お寺参り、お墓参りをされます。大変良い習慣であると思いますが、ところでお盆は7月、8月どっちが本当でしょうか。

 お盆が由来する経典によるとお盆は7月15日で、昔から7月15日に勤められていました。しかし、明治5年に
太陽太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に改暦された結果、7月15日がずれて早まり、以前の7月15日の季節感と合わなくなってしまいました。そこで単純にお盆を1ヶ月遅らせ、前と同じような季節感の中でお盆を勤めるようになりました。これが「月遅れお盆」の始まりです。これに学校や会社の夏休みが重なって8月15日を中心とするお盆休みが定着していきました。全国的には8月盆の方が多いですが、東京以外でも7月にお盆を勤める地域はたくさんあります。
 また、8月盆を「旧盆」と言う方がいますが正しくは「月遅れお盆」です。旧盆と言うと旧暦のお盆と言うことで、旧暦は一定にずれているのではないのでお盆の日程も毎年変わってしまいます。ちなみに今年の旧暦の7月15日は8月30日だそうです。

 
※太陽太陰暦(旧暦):1ヶ月を月の動きに合わせ、1年を太陽の動きに合わせる暦。閏の時には1年が13ヶ月になる。太陽暦(新暦):現行の1年を太陽の動きの合わせる暦。


お盆を迎える

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  今月はお盆の月です。お盆の頃になるといろいろな習慣が入り乱れどれが本当かわからなくなります。浄土真宗のお盆は、普段と変わりません。お仏壇をお掃除して季節のお供物をお供えしてください。

  他宗ではお盆というとご先祖様がわが家に帰ってくると言う考えから、キュウリの馬、なすの牛、ご先祖様用の小さなお膳、迎え火、送り火などの習慣が見られますが、浄土真宗の教えからするとこれらは必要なくなってきます。 

浄土真宗はいのち終わると、阿弥陀如来のおはたらきによって等しく救われて、阿弥陀如来と等しい位に往生し「仏」となるのです。そののちはいつも私たちのそばにいて下さり、私たちを見ていてくださるのが仏さまのおはたらきです。まして、お盆の時にご先祖さまが我家に帰ってきてお盆が終わると帰っていくと言うようなことは考えません。いつでも一緒にいてくださるのが浄土真宗の仏さまです。

そのご恩に御礼申し上げることが、南無阿弥陀仏とお念仏を申させて頂くことです。この報恩感謝のお念仏を申させていただく機会としてお盆をお迎えさせていただきます。
 


「このまま」と「そのまま」

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 「浄土真宗の教え」とは一言で言うと「この私がこのままのすがたで救われていく教え」といえます。が、阿弥陀さまのお心は「このまま」ではなく「そのまま」のすがたの私をお救い下さるのです。

 私は写真を撮るのが好きでよくカメラを持って旅行に出かけます。記念撮影も良いものですが、自然な姿も良いもので、私は同行のものにそっとカメラを向けます。相手は私のカメラに気付くと必ずポーズをとります。私は「そのままで」と言いますが、相手は必ず「このままでいいの?」といいながら、少しでも綺麗にとってもらいたいがために、力の入った不自然なポーズになってしまいます。私はそのままの姿が撮りたかったのですが、これがなかなか思うようにいきません。

 阿弥陀さまは今日ここにいるこの私を「そのまま救うぞ」とおっしゃってくださっているのに、私たちは阿弥陀さまの教えを頭の中で考え、理解しようと力の入った姿になってしまっているのではないでしょうか。「そのまま救うぞ」とおしゃって下さっている阿弥陀さまに「このままでいいんですか」と力の入った姿になるのではなく、「はい、おまかせいたします」とお答えしたいと思います。


牡丹(ぼたん)のお飾り

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  牡丹の花の季節になりました。百花の王といわれるだけあり、満開になるととてもみごとです。正法寺境内にも赤、白、黄の花が咲きました。
  本堂内に目を移すと、お明かりを灯す「輪灯」、仏さまの台座「須弥壇」や欄間のお飾りの中に牡丹の彫刻がたくさんあります。特に須弥壇には獅子が牡丹の花の中にいる図が彫刻されています。 
 獅子と牡丹の彫り物は、「獅子身中の虫」という梵網経にある教えが表されています。獅子の身中にすんで、日頃獅子の恩恵を蒙っている虫が、獅子の肉を食って獅子に害毒を与えるという意味です。
  牡丹の事を辞典で調べると、その効能の中に「消炎鎮痛」とあります。獅子はその虫の動きを牡丹の効能によって抑えようと牡丹の花の中にいるという図です。
   お寺で牡丹の花が私たちの方にむいて飾られているという事は、私たちの心の中にいる煩悩の虫の動きを鎮めて、心静かに仏さまの教えを聞きなさいと言う教えが表されているのです。


お仏壇の花はどうしてこちらむき

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 お祝いや、お見舞いなど、花は相手に表側を見せて贈るのが普通です。その意味ではお仏壇に花を供える場合も、花の表側は仏さまの方に向けるべきと思うのは当然と言えます。しかし、お仏壇の花は仏さまへのお供えではあるのですが、それだけの意味にとどまりません。仏さまから私たちへのはたらきかけも表しているのです。

 あらためて自分自身を見つめてみますと、濁りきった世界に生きる煩悩だらけの私がいます。いつも周りと比較して、やれ誰が上、やれ誰が下と、それぞれのあるがままの素晴らしさを認めることのできない私がいます。

 このような濁りの世界を離れ清らかなお浄土に間違いなく生まれてほしいと、阿弥陀さまは願われ、必ず救うぞと、いつもはたらきかけて下さっています。
 この教えに気づかせていただくとき、感謝の気持ち、ご恩に報いる気持ちから、仏さまに花をお供えさせていただきます。
 そして同時に、いつも私に向かってはたらきかけて下さる仏さまのお心を表し、お浄土の清らかさを偲ばせていただくために、花はこちらに向けてお飾りするのです。
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子どもを非行化させるコツを教えます

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1 幼いときから冷たく放りっぱなしにせよ。遊び相手になるとかスキンシップはまったく無用

2 欲しいと言ったら、何でもすぐ買い与えよ。がまんさせることは絶対に禁物

3 子どもの間違いや失敗は、理由を開かず叱りとばせ。口で言うよりひっぱたくほうが一層よい

4 子どもがどこで何をして遊ぼうが気に止めるな。遊び仲間のことについて全く知る必要はない


5 兄弟やよその子と比較して。お前は馬鹿だ、誰々を一見習えを連発せよ。

6 いそがしいのに食卓の団らんなどムダ。子どもの話題や関心など無視すればよい

7 子どもが良いことや努力してもめったに誉めるな。
  むしろ、ごまかしや裏切りなど悪事をうまくやったら必ずほめよ。

8 子どもの前では夫婦間の意見を一致させるな。特に、父親はむずかしい問題からうまく逃げよ。
     お金こそ人生の全てであることを身をもって教え込め。

9   宗教や精神生活を軽べつさせよ

10 子どもの前で常に法律、警察、学校、役所の悪口を青い、
   社会の決まり(ルール)や公共機関への敵意を植え付けよ。


もし、以上のすべてを忘れたとしても、次のことだけを心がけるならば、非行化は効率よく進むだろう。
いつも夫婦仲悪く暮らし、憎しみあい、できれば不貞をはたらき、大人のエゴをむき出しにすること

 【実態から見たベストテン】小田原少年院


 お仏壇のお供物は何をあげれば良いのですか

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  ご門徒さんのお仏壇にお参りさせていただくと実にいろいろなものが供えてあります。すぐにでも食べたいものや、供えっぱなしで古くなっているものもあります。

お寺の大きな法要では、餅、菓子、果物などを供えますが、ご家庭ではそうもいきません。一言で言うならば「季節のもの」「今手に入る一番に良いもの」を仏様にお供えすれば良いです。
   したがってお仏壇には「今手に入る一番に良いもの」がお供えされていたわけですから、昔、子ども達がお仏壇にあがったお供物のお菓子欲しさに一生懸命お参りして、ご褒美にそのお菓子のお下がりをもらったというのもうなずけます。
 もう一言言い換えるなら「今自分が一番食べたいもの」をお供えするということです。肉や魚などの生もの、酒類は許されている地方もあるかもしれませんが、普通これは避けます。
 そうすると、菓子か果物が中心になってきます。またお供物は和洋もこだわりませんので、子ども達もほしがるようなおいしいものをお供えして、おいしいうちにお下がりをみんなで戴きましょう。
 お供物ねらいで子ども達がお仏壇の回りに集まるようなことになれば実に楽しいことです。その時に仏様のおいわれなど一言お話下さればなおさらのことです。 

(注)お供物をお供えするときは、仏様をお敬いする「崇敬の念」でお供えしてください。決してお供物をおみやげに仏様にお願い事をしないで下さい。仏様はそんなことをしなくてもよくなる大切なことを説かれています。
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 郷里のお墓を移転したいのですがどういう手続きをするのですか

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故郷を離れて他所に生活の基盤を築かれる方が多い昨今、墓地の改葬・移転に関する相談が増えております。交通事情が至便になったとはいえ、確かに遠方の墓地をお守りしていくことは、なかなか大変だと言えましょう。
 墓地の移転には埋葬【詳しくは埋葬(土葬)、埋蔵(焼骨を納骨)、収蔵(納骨堂に納める)等用語の区別があります】されている遺骨を新墓地に移す、「改葬」という行為が必要です。
 ただし、ただ遺骨を掘って来ればいいのだ、というような考え方は如何かと思います。法律上の手続きの遵守はもちろん、お墓を守り、今あるいのちをご先祖に感謝し、その遺徳を後世に伝えてゆくという心を忘れないで対処していただくことが肝要かと存じます。 また公共墓地等に建墓する場合でも、今後のご法事をきちんとお願いするという意味で、できれば従来のお寺の紹介を得て、新たなお寺とご縁を結んでいただきたいと思います。
●家族・親族の合意を得る
ご家族、親族、地方の親族とも充分に話し合って皆さんの合意を得るべきです。

●新旧管理者との相談
新旧の墓地管理者(お寺は住職、公共墓地ならば管理事務所)相方の移転改葬についての同意を得た上で、新墓地の建立に取りかかる。また従来の墓地を撤去して更地にする、あるいは石塔のみ移転する等の作業については石材店と相談する。

●証明書の発行
移転先の墓地管理者より「遺骨受け入れ証明書」(墓地使用承諾書)、従来の墓地管理者より「埋葬(埋蔵、収蔵)証明書」(確かに当方でお預かりしてあったという証明)の発行を受ける。

●改葬許可証の交付
従来の墓地の所在地の市町村役場の戸籍課か市民課へ行き、「改葬許可証交付申請書」(一体に付一枚)に内容を記入して、前記二種の証明書を添えて提出、「改葬許可証」の交付を受ける。

●遺骨引き上げと改葬法要
お寺と日程調整の上で石材店にも依頼する。改葬法要を行なってから遺骨を出してもらい確認します。昔の埋葬で遺骨が確認できない時には土をもらいます。墓石は解体の上、石塔のみ移転するか、不要であれば石材店にお願いして、廃石として破砕の上処分していただきます。

いずれにしても長い間お世話になつてきた墓地のことですから、きれいに片付けてお返しし、お寺に対して懇ろに御礼を申し上げてください。なお納骨までに時間があくような場合には、移転先の管理事務所か新たなお寺にお願いして、遺骨を預っていただくとよいでしょう。

●建碑法要と納骨
新墓地が整ったら「改葬許可証」を提出して法要の日程を調整します。関係者をお招きして、新たなお寺にお願いして建碑法要を行ない、遺骨を納骨いたします。

●関係者への報告
以上無事に終了したら、従来のお寺と親族等関係者に報告して謝意を表します。

(付記)墓石のみの移転や若干の土をもらつて来る等遺骨の移転を伴わない場合は、公的な手続き(役所への届出等)は必要ありませんが、その場合でも然るべき供養はしっかり行なっていただきたいと思います。

                                                   合掌

 


 浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」さまです

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浄土真宗本願寺派のご本尊は「阿弥陀如来」(あみだにょらい)さまです。
お仏壇の中央には必ず「阿弥陀如来」さまをご安置いたしましょう。
(南無阿弥陀仏の六字名号またはお木像でも結構です)

・お仏壇にご本尊がなかったり
(これはではお仏壇ではなく、先祖壇!)

・違う仏さまがまん中に安置されていたり
(これではご先祖様もビックリ!)

・鎌倉の大仏の置物、神社のお札などがお仏壇に同居していませんか
(この方だあれ?)

私たちはご先祖を通して阿弥陀如来さまをお参りさせていただきます。
お仏壇の中央には「阿弥陀如来」さま
我が家のご先祖は過去帳に記して
観光みやげの大仏さんなどはお仏壇の外へ
(どんなに高価でも美術工芸品と礼拝の対象をはっきり区別します)
神社のお札なども外へ。そもそも神社のお札なんか要らない生活を!
いらなくなったお札はお寺に納めましょう

ご本尊はご本山で定められた正式のものをお勧めいたします。
正式のご本尊は築地本願寺本堂でお受けできます。

お仏壇の新調やお飾りのことはまず正法寺にご相談下さい。

 

 


 ご仏前?御霊前?どっち? 浄土真宗は「御仏前」です

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 お通夜やお葬式に弔問に行くとき、金封や供物の表書きに悩んでいませんか。世間では四十九日までは「御霊前」とか、お通夜は「御霊前」でお葬式は「御仏前」などといろいろな事が言われています。こういう仏事作法はすべての宗派に通用するものはありません。仏教は宗派ごとに教えや捉え方が違いますので作法も異なります。浄土真宗は「往生即成仏」の教えですから、故人はこの世の縁が尽きると、すぐ「仏」に成ります。ですから浄土真宗はいつでも「ご仏前」です。決して「御霊前」とは書かないで下さい(浄土真宗では霊という存在はありません)。世間がどうであれ浄土真宗の信者である事に誇りと自信を持って、教えにあった作法でお参りしていただきたいと思います。

 どなたかに「何故そのようなことをするのですか」と訪ねられましたら、自信をもって「私は浄土真宗だから」と答えてください。

 浄土真宗の僧侶は「御香資」「御香儀」「御香」等とも書きます。これは僧侶だけが使う書き方ではありませんので、門信徒の皆様も是非この書き方も使ってみてください。

○「お布施」「お経料」どっち?

同じように、ご法事の時は「お布施」「お経料」で迷います。正解は「お布施」です。ご法事は料金制ではありませんので「お経料」と書かないでください。お寺にお持ちいただくものは、維持費など定められたもの以外すべて「お布施」です。僧侶が読経や法話によって仏法を伝えたことを「法施」。これに対するお礼を「財施」といいます。お互いに施しあっているのです。

 


 正法寺の「正法」とは

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 正法とは、正しい法ということで、正しい道理にかなった法という意味です。仏説無量寿経には「正法を宣べ」「正法を弘宣」などと説かれています。またご本願(第十八願)の文には「ただ五逆と誹謗正法をば除く」と説かれます。これを承けて、曇鸞大師は「正法はすなはちこれ仏法なり」と述べられ、正法を誹る(非難し悪くいう)ことがいかに重い罪であるかを示されます。親鸞聖人は、『教行信証』の中で、法照禅師が『仏本行経』によって造られた偈文を引用され、「どのようなものを正しい法というのか。道理にかなっているなら、それは真実の教えである。・・・正しい法は迷いの世を越え離れることができる。持戒や座禅も正しい法というけれども、念仏して成仏する、これこそが真実の教えなのである。仏の教えによらないものは外道という。因果の道理を信じない考えは意味のないものである。正しい法は迷いの世を越え離れることができるのである。」
(現代語訳版『顕浄土真実教行証文類』七十九頁)

と述べられています。したがって、正法とは、迷いの凡夫が浄土に往生して仏になる法、すなわちお念仏の教えなのです。このお念仏の教えを、聖人は「超世希有の正法」(世に越えてたぐいまれな正しい法)「円融真妙の正法」(すべての徳をまどかにそなえた真実の法)と讃えられるのです。
 なお、仏教的歴史観を表するために、お釈迦さまが入滅されて以降の時代を、正法・像法・末法という三つの区分で示すこともあります。

浄土真宗本願寺派 浄土真宗教学研究所                                                         合   掌

 


オリンパス新聞広告に対する抗議と返答

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5月16日の全国紙に、オリンパス光学工業が全面新聞広告を出しました。浄土真宗の教義の根幹をなす「他力本願」の意味を誤用して、コピーが作られているものでした。そのコピーは次のようなものでした。

三日坊主から抜けだそう
大樹の陰から抜けだそう
井の中から抜けだそう
無芸大食から抜けだそう
その場しのぎから抜けだそう
二番煎じから抜けだそう
箸にも棒にもから抜けだそう
他力本願から抜けだそう

早速、オリンパス社広報室に、「他力本願」の正しい意味を知っていただき、正しく使って戴くため、正法寺住職、白川淳敬名で「抗議文」を提出しました。オリンパス社はこれを真摯に受け止め、誠意ある返答を戴きました。以下抗議文と返答文です。

【抗議文】
先日の新聞全面広告を見て愕然としました。デジタルカメラの広告でしたが、いかにも「他力本願」がだめな事のように扱われています。他力本願は浄土真宗の教義の主たるものであります。あのような扱いを受けると宗派の教えが冒涜されていると言わざるを得ません。オリンパスさんの見識のなさを疑います。
もちろん、広辞苑を引くと下記のように、第二義に「もっぱら他人の力をあてにすること」とありますが、その前に「転じて」とただし書きがされてのことです。「他力本願」の本義を知らない人が漢字の字面だけから、意味づけをした言葉です。

多くの方がそういう意味で使っているからいいと言うものではありません。言葉の正しい使い方を社会に伝えていくのも大企業の役目ではないでしょうか。

それに、あのコピーに「他力本願」と言う言葉をわざわざ使う必要性はないのではないでしょうか、ほかの言葉で代われたのではないでしょうか。

【参考】
たりき‐ほんがん【他力本願】
 @阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。
 A転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。
 (広辞苑)


【返答文】
正法寺  住職 白川 淳敬様
拝啓、時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
このたびは当社の新聞広告につきましてご意見をいただきありがとうございました。新聞広告は3回のシリーズで、若い世代に高い知名度と人気を有するタレントの滝沢秀明さんを起用し、当社がこれまでのイメージから抜け出し、「元気で若々しく、活気のある会社」に変わることを表現することを目指して広告表現を制作しております。

3回目となる今回は、無気力な日常に妥協し、変革を望まない最近の風潮を脱却するためのメッセージと、彼の躍動感と新しい当社のイメージを重複させることにより、積極的に変革する企業イメージを表現したものです。

このたびご指摘いただいたコピーの一部であります『他力本願』につきましては、俗に言う「もっぱら他人の力をあてにすること」として表現したもので、まったく他意はございませんでした。
認識不足により配慮を欠いたことを深くお詫び申し上げますとともに、なにとぞご理解をいただけますようお願い致します。

当社といたしましては、今後、ご指摘をいただきました「今回の広告表現」を他紙やポスター、交通広告などに一切使用いたしません。また、「他力本願」に関しての用語法について、今後社内で十分に配慮をするとともに、同じような問題を起こさないように社内および、社外の広告代理店のチェックをより徹底するシステムを作ります。

あらためまして、貴重なご意見をいただきましたことを感謝し、今後のよりよい広告宣伝活動の参考にさせていただきたいと思います。また、今後ともご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

敬具

オリンパス光学工業株式会社 広報室


【所感】
 オリンパス社はこの「他力本願」誤用について真摯に受け止め、誠意ある返答を戴きました。しかし、「他力本願」と言う言葉は、広辞苑のAにあるように、「もっぱら他人の力をあてにすること」という意味で使われることが多いと思います。
今回のように、誤用された時だけ抗議や意見を言っているだけでは本来の「他力本願」の意味は伝わらないと思います。ここには日頃から浄土真宗の「他力本願」の教えを積極的に伝えてこなかった私たちの姿が逆に投影されているものと思います。
 また、「他力本願」だけでなく、仏教用語、浄土真宗用語の意味が変化して、本来の意味とは全く違う使いかたになっている言葉も見受けられます(往生など)。
これからは、間違った使われ方があったときだけ、意見抗議するだけでなく、日頃から正しい意味を積極的に伝え、誤用がないようにつとめたいと思います。

合掌
住職 白川淳敬

 


 私たちは清め塩を使いません

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魔を祓うためにお棺の上に刃物をのせたり、火葬場の行き帰りで道を変えたり、家に帰れば「お清め」と称して死の穢れを清めるために塩を撒くなど、葬儀の時には仏教の教えとは無縁の色々な迷信が行なわれます。 それらは、各地の習慣やしきたりとして、何の疑問もなく行なわれていますが、それが亡き人を限りなく貶めていく行為だと気づいている人は少ないようです。
  たとえば「清め塩」は、現在ほとんどの葬儀に見受けられ、会葬者にもお礼状と共に渡されています。そして、この「清め塩」で「お清め」することが当り前のように思っている人が多いようです。
  しかし、この「塩」でいったい何を清めようと言うのでしょうか。「清め」と言うからには、何かの「穢れ」を除くという意味があるのでしょう。そうだとすると葬儀は穢れた行為であり、亡き人は穢れたものということになってしまいます。
  生前に、父よ母よ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に「穢れたもの」として「お清め」していくことは、何とも無残であり、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。
 仏教では決して「死」を「穢れ」と受け止めることはありません。反対に「死もまた我等なり」と受け止め、生死するいのちを精いっぱいに生きていくことこそ、人間としての生き方であると示しています。
 仏教に照らすと「清め」の行為は亡き人を貶めていくばかりでなく私自身の生き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要であることが知らされます。

                                                                                                                       合   掌


 

大人のみなさん お念珠を持ちましょう

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(注:お念珠のことを、珠数・数珠ともいいます)
 

最近、ご法事やお葬儀でお参りに来られる方を見ていると、
ほとんどの方がお念珠を持っていません。


社会的にも年齢的にもいい大人が、仏事でお念珠を持っていないということは
とてもみっともないことです。


 これは、作法を何も知らずにお茶席に行って、むちゃくちゃなやりかたをするのと同じです。


蓮如上人は「御文章で」こうおっしゃいました
当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。
そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。
聖人(親鸞)、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし




今は、若い方の方がファッション性のあるブレスレット感覚の「腕輪念珠」の普及により、
いつもお念珠を身につけている方が多くなってきました。


これは喜ばしいことです。


たとえ、お念珠を持っていても、正しく合掌をしている方はまれです。


お念珠を持った手に、もう片方の手を合わせただけで合掌をしたつもりになっています


浄土真宗ではお念珠に両の手のひらを通して、合掌します。


この位は一般常識として知っていてください。


大きな社葬で、社会的に重責のある方が、合掌一つ出来ない姿を見ると
がっかりします。その方の本当の姿を見たような気がします。


そして、合掌のまねごとをしている姿は、いかにも自信なさげで、こっけいです。


合掌とは、自由に動く両の手を、胸の前で合わせ、動かないようにすることです。


そして、今までこの手で何をしてきただろうかと省みる機会であります。


合掌の出来ない方、そんなに自分を省みるのが怖いのですか


今は美しい合掌の姿をしています。この手で何をしてきたでしょう
喜ばれることもしたでしょう、悪いことも沢山したでしょう。


私は本当に救われるに値する自分であるのでしょうか


それは「否」でしょう。


浄土真宗の仏さま「阿弥陀仏」は、
こんな私たちを救うだけのために「仏」になられた仏様です。


「阿弥陀仏」は私たちに性根を入れ替えて、きちんとしろとはいいません
”CHANGE”を要求していません


私たちがそんなこと出来ないのはお見通しで、このままの姿で良いとおっしゃいました。


「阿弥陀仏」はみずからのお働きで、私たちを救われる身に転じさせてくださいます。


”CONVERSION”です


そのお働きが自分に届いていた事がわかったとき
「ありがとうございます」というお念仏「南無阿弥陀仏」を称えさせていただきます。


ご法事やお葬儀でも、このお方も、ありがたい「阿弥陀仏」に救われていった
そして今、私もその救いの中にいる、ありがとうございますという思いから、


手にお念珠をかけ、お念仏して下さい。


 大人のみなさん、お念珠を持ちましょう

お念珠についての詳しくは
「福永念珠舗」 または「京のじゅずや」ホームページへ


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