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ラーメン命名白書


明治期の南京街、中でもラーメンの発祥の地ともいえる横浜南京街では、長崎からの移住組である広東人が勢力を築いていた。そこに新たに、広州、上海、香港で富を蓄えた外国商人達が横浜へ進出するにあたって、広東人の他に、かなりの数の上海人を仲介役として、また使用人として伴ってきた。以来、横浜南京街は広東、および上海という二大文化が共存することになる。言葉も習慣も違う2つの文化が同居していたことになる。例えば、広東人は汁そばをすべて「湯麺」と書いて「トンミン」と発音する。そして「拉麺」は「ラーミン」「ラオミン」という。上海語では「ミェンティヤオ」「ラーミ」である。さらに山東語が同居していた節があり発音は「ラウメン」である。しかし、日本人にはどれももこれもいいにくかった。いや、それ以前にみんな同じに〉聞こえてしまうというのが正直なところだったのではないだろうか。
 明治期の日本人の外来語の適応性として唯一「ラーメン」が精一杯だったのではないだろうか。現在のように外来語と不思議な横文字造語の入り乱れた文化の中で暮らしている我々だって「ラーミン」「ラオミン」「ミェンティヤオ」「ラウメン」より「ラーメン」の方がずっといいやすい。ましてや言葉で精一杯であった当時の日本人が、ラーメンは実は中国では「拉麺」という麺の製法の一つであるなどとは知る由もなかった。だから製法が異なる「切麺」であってもかまわず。全部一括りにして「ラーメン」という名前だけが一人歩きしてしまったのである。南京街の人達がこの日本人の勘違いに気付かないわけがない。ならば勘違いのまま「拉麺」も「切麺」も「ラーメン」にしてしまおう!南京街のみんなに異論はなかった。その結果広東語、上海語、山東語は姿を消していつの間にか「ラーメン」に統一されたのである。なんとおおらかな事だろう、大地の知恵なのかもしれない。
 このラーメン命名の推理、あたらずとも遠からずであると思うのであるが。いや、きっとそうに違いない。別の機会にさらに調べてはみようと思います。
 南京街の住人はこの時同時に味の改革も改革も行っている。中国の南方は塩味文化である。しかし日本関東は醤油文化である。そこで日本人の好みに合わせてラーメンは母国の塩味から醤油味に改革改良されたのである。
 札幌「竹家」でも同じようにラーメンの名づけに心を痛めていた、大久さんのお母さんタツさんであった。王さんが料理が出来上がる度に「好了ハオラー」と声をかけていて語尾のラー発音が耳に残るのでそれに麺を足してラー麺「ラーメン」皆に相談したら、留学生の一人が、これは引っ張って作る麺だから「拉(ラー)」の麺、ラーメンがいいと決まったわけである。しかし、当時既に南京街ではラーメンという名称が使われていたわけで、偶然の一致ということでめでたしめでたしとしたい。

参照 にっぽんラーメン物語 小菅桂子著
ラーメンの誕生  岡田 哲著