一筋の光をプリズムに当てると、光は分解され、 連続した7色のスペクトルとなる。
 1998年──。 BPヤマハレーシングチームの中野真矢は緑の、
 Y.E.S.S.レーシングチームの松戸直樹は黄色の光だった。
 緑の光は歓喜に輝き、黄色の光は苦悩に沈んだ。
 しかしシーズンが終われば、スペクトルは再び一つの光に収斂される。
 「レーシングライダー」という、一筋の光に。
 そして新しいシーズン、また新たなスペクトルが生まれる──。


■ヤマハ発動機発行「WAY」1998年12月号掲載・1998年11月取材

 エキゾーストノートが高まる。マシンに、引き絞られた弓のような力が漲る。ライダーは、横目でシグナルを見やりながら、上体を伏せる。間もなくシグナルが変わる……。
 と、松戸のマシンが一瞬だけ早く、前に出てしまった。
 フライングか?
 松戸は何とかマシンを押さえ込む。その瞬間、シグナルは青になり、レースはスタートした。
 タイミングを外し、完全に出遅れた松戸は、首を傾げながら1コーナーに向けて、黄色いマシンを加速していく。ずっと、首を傾げながら。
「アチャーッて感じでした」
と松戸。
「出足が肝心だと思ってたら、ついグッと出ちゃって……。でも、1コーナーでなぜか内側がガラ空きで、5位か6位ぐらいまで取り返せた」
 中野は、5周目までWGPレギュラーライダー、宇川徹の先行を許した。2番手を走る中野が、トップに揺さぶりをかける。それは、今シーズンにあってまず見られることのなかった珍しい光景だった。
「レースらしいレースができて、最初から最後まで集中できました。後ろだけじゃなくて、前を見てレースするのも久しぶりだったし」
 それは、事実だった。ここまで中野は、7勝を挙げており、そのうち6勝までもが独走優勝だったのだ。
 5周目のバックストレートエンド、ブレーキングで宇川をかわすと、中野はそのままトップを走る。3番手まで順位を上げてきた松戸は、13周目に宇川をパスすると、中野の背中を追う。その差は、約2秒。
 しかしこの2秒は、ついに1年かけても決して縮まることのなかった、中野と松戸の間の距離でもあった。
 最終ラップ、中野は大きく後ろを振り返る。
「最後には絶対直樹さんが来ると思った。こわい存在なんですよ」
 しかし、松戸は中野を捕らえられない。
 優勝、中野真矢。これで今シーズン8勝目だ。松戸直樹は、5秒遅れの2位だった。
 チェッカーを受け、コースをゆっくりと一周する。中野は慣れないウイリーで緑のマシンのフロントを掲げ、喜びを表現している。
 松戸は、「2位だけど、YZRの1-2だしな。メダマも1-2だし……」と思っていた。
 目玉とは、SP忠男レーシングチームのシンボルでもある、目玉マークのヘルメットのことだ。松戸も、中野もSP忠男レーシングチーム出身で、先輩と後輩にあたる。ふたりとも、チームを離れた今も目玉のヘルメットを被り続けている。
 表彰台で司会者に、どんなシーズンでしたか、と聞かれた松戸は、「1回も勝てないシーズンでした」 と答えた。
 11月1日、全日本ロードレース選手権最終戦。GP250クラスでは、BPヤマハレーシングチームの中野真矢が、第7戦筑波ですでにチャンピオンを決めていた。
 SUGO国際レーシングコースには時折日が射すものの、木枯らしとでも言うべき強い風が吹いていて肌寒い。

 今年、中野真矢はGP250クラスでは唯一のヤマハ・ファクトリー体制でレースに臨んでいた。マシンはYZR250。
 一方、サテライトチームという待遇ながら、同じYZR250がY.E.S.S.レーシングチームの松戸直樹にも与えられた。
 大きなチャンスのように思えた、ファクトリーマシンの獲得。しかしこれが、松戸を思わぬ落とし穴に誘い込んだ。
「YZRは、去年までのTZに比べるとパーツの自由度がすごく高いんです。だから、何を変えたらセッティングがどうなるのか、全然分かんなくなっちゃって。第3戦の鈴鹿でホントにスランプに陥っちゃって……。今になってみれば、『こうすれば良かった』って思うけど、あの時は全然思いつかなかった」
 その状態が、ずっと続いた。第7戦で、松戸の悩みは最高潮に達する。
 筑波サーキット、9月20日。
 決勝は、ポールポジションからスタートした中野がホールショットを奪うと、そのまま優勝し、チャンピオンを決めた。
 ツナギの上に、シャンパンに濡れたチャンピオンTシャツを着、黄色いダンロップのキャップを被った中野が、ヤマハのガレージまで戻ってくる。幾分上気しているが、記者会見といくつかの取材を受け、ひと段落といったところだ。
 ガレージにはゼッケンを剥がされたYZR250があり、メカニックが「1」のステッカーを貼り付けようとしていた。細長いため、なかなか位置が決まらない。
 中野は、メカニックに話しかけるでもなく、微笑むでもなく、放心したようにその手元を見つめている。ただじっと、見つめている。
 スーパーバイククラスのレースが始まっていたが、そこだけは、サーキットとは思えないほど静かな時間が流れていた。
 松戸は、後輩のチャンピオン獲得を祝うどころではなかった。
「これだけ勝たれちゃったら、しょうがないですよね。……『おめでとう』って気持ちもあったけど、でもそれより、自分はこの先どうしよう、どうやったらここから抜け出せるんだろうってことで、頭がいっぱいだった」
 思いは複雑だ。
「……やっぱり悔しいですよ。同じマシンに乗っててね……。悔しかった」
 中野が「レース人生の一つの夢」を叶えたこのレースで、松戸は苦しんでいた。
「タイムが出なくなったり転んだりして……。予選でも、遅い人に引っかかったりした。そのうちに、自分にイライラしてきちゃって。……気が焦って空回りしちゃってたんです。セッティングしたいのに、出ないし……。自分が今までどうやったら速く走れたかも、分かんなくなった。ホント、何をしたらいいのか全然分かんなくなった」
 松戸とは10年の付き合いになるチーフメカニックの金子貞彦も、松戸に手を貸してやれない自分にもどかしさを感じていた。
「自分にとってもYZRは初めての経験で、勉強不足でした。ライダーが困っている時に、助けてやれなかった。ライダーがよく分かんないでいる時に、手を差し伸べてやれませんでした」
 しかし、今年6度目のポール・トゥ・ウインを達成した中野も、傍目で見るほどに楽なレースをしていたわけではなかった。中野は、その笑顔の影で、常に「ファクトリー」という大きなプレッシャーにさらされていたのだ。
 BPヤマハレーシングチーム監督の河崎裕之は、中野がファクトリー入りした最初の年、1997年の第1戦鈴鹿での中野の様子を忘れていない。
「もうね、スタートラインでぶるっちゃってるんだよね」
 中野は全日本に昇格し、125ccクラスで戦った1995年と1996年、2年間にわたって勝利に見離された苦しいシーズンを送っていた。
 '95年、最高位は2位、ランキング12位。'96年、最高位は同じく2位、ランキング6位。
 特に'96年は、同じTZ125に乗る宇井陽一が前年にチャンピオンを獲得したことで、中野は「チャンピオンを獲らなきゃ後がない」と自らを追い込でしまっていた。
 そんな状況でのファクトリー入り。自信の持ちようがなかった。中野自身、最も緊張したレースとして'97年の初戦を挙げる。
「去年はどのレースも緊張してましたけどね。最初のレースは、もう、地面に足が着いてないような感じだった。ファクトリー入りして初めてのレースで、とにかくファクトリーの名に恥じないようなレースをしなきゃマズイって。そう考えてるうちに、どんどん不安になっちゃった」
 そして、チャンピオン獲得に王手をかけた筑波でのレースも、中野にとっては楽なレースではなかった。
 いつも明るい表情の中野だが、この日ばかりは緊張を隠せずにいた。頬が紅潮している。決勝前のピットも、ふだんのレースと比べると、明らかに空気が硬い。
 中野は、「スタッフの方が緊張してるみたいで……」と笑ったが、実際には中野の表情もひどくぎこちなく、少なくともいつもの「中野真矢」ではなかった。
 レース前、中野は、チャンピオン決定時のバナーや旗、それにビールなどが用意されていることに気付く。なるべく意識しないようにしていても、それらは中野の視野に入ってきてしまう。
「このレースで決めなきゃマズイとか、いろいろ余計なことを考えちゃう。周りからもそれとなく言われたり、何だかいろいろ用意されてたみたいで……。だけど、結局は自分のレースで、自分でどうにかしなくちゃいけないんですよね。なるべくいろんなことを考えないようにしたんです。でも……」
 前日の夜も、眠れなかった。チーフメカニックの水谷清孝にホテルの部屋に来てもらい、再度セッティングを確認しあった。
 信頼できる人に、ただただ「大丈夫だよ」と言ってほしかった。

 松戸の転機は、第8戦T.I.で訪れた。
 T.I.の事前テストでは、原田伸也が出したTZ250のタイムを凌ぐことができなかった。ファクトリーマシンが、市販レーサーに敗れたのである。
「この方向じゃ、オレ、絶対マズイと思った。それで、ガラッと変えたんです。セッティングを、今までとは全く違う方向にしました」と松戸。
 それが功を奏し、第8戦T.I.の予選では中野をコンマ1秒抑え、ポールポジションを獲得。これが今シーズン唯一、中野がポールポジションをとれなかった予選となった。
「区間、区間でアクセルを開け切れたり、進入の時にも自分の思った所でブレーキを離せたりするようになって。自分で周りの風景を見てても分かるぐらい、スピードが上がったんです」
 決勝では、スタートでミス。2位に終わった。
 しかしT.I.で見つけたか細い問題解決の糸口は、何とか最終戦のSUGOまで持ち込むことができた。
「でも、ちょっと欲ばっちゃって。予選ではうまくいかなくなっちゃった。だけど、いい状態を少し掴んでたから、そこに戻せばいい。……結局、オレが『こうした方がいい』っていうのと、全部逆だったんですよね」
 松戸は、レースだけで食べていけるようになった'96年まで、いろいろな仕事をしながらレースを続けてきた。大型ダンプのドライバーや、魚屋の店員などを経験している。瓦屋を営む祖父を手伝い、屋根に瓦を張っていたこともある。
「あの頃に比べれば、今はレースだけに集中できる分、いいですよ」

 中野は言う。
「去年はダメでも今年はいい、とか、ドン底まで落ちて悩んで、次のレースで勝つ、とか、そういうのが面白い。そういう時は、ゴールした時に『やったぞ、オレはやったんだーっ!』って、ヘルメットの中で叫んじゃうこともある。人生で、これ以上の喜びはないです」
 一度その歓喜を味わったら、やめられない。足を踏み入れたら最後、抜け出せない世界だ。
「麻薬って言ったら変だけど、そういう感覚に近いですね」
 自分の思い描くイメージ通りに走れて、タイムが出ると、もちろん気分がいい。でも、マシンに不都合があっても、ああでもない、こうでもないと、煮詰めていくのが楽しい。その時は苦しくても、後で考えるとあれはあれで楽しかったんだと気付く。
 そうしていくうちに、自分のマシンが手足のようになっていく。
 そして、勝つ。 「いつも簡単に物事が進んだら、面白くないですよ。ぶっちぎりで勝つのも、一番速かったってことを証明できるからうれしいけど、やっぱり興奮するのはバトルで勝ち抜いたり、暴れるマシンを押さえつけて勝ったりすることだし……」
 今年、9戦中8勝を挙げてチャンピオンになった中野真矢。1度も勝てずに、ランキング3位に終わった松戸直樹。
 年が変わり、新しいシーズンが始まった時、中野は新たなプレッシャーの中で戦うことになるだろう。そして松戸は、「人生最高の喜び」に向けて、スタートラインにマシンをつける──。


毎度のことながら、これも本来の編集企画とはまったく違う形になってしまった原稿だ。

本来は「全日本選手権最終戦を終えた中野真矢と松戸直樹を、菅生そばの秋保温泉に連れていき、温泉にでも入りながらのんびりシーズンを振り返ってもらう」という企画だった。原稿も対談形式を予定していた。

しかし、撮影を許可してくれる温泉がなかなか見つからず、ライダーの時間的な制約もあって、秋保温泉そばの川原での撮影、そして喫茶店でのインタビューとなった。原稿に関しては、取材を終えてすぐ、「これを対談形式なんかにしてられっか!」と決めていた。I編集長には謝っても謝りきれないし、ヤマハのWAY担当者の方にも迷惑をかけ通しだった。

中野真矢にインタビューしている間は松戸直樹を撮影し、松戸直樹にインタビューしている間は中野真矢を撮影するという形で、取材を進めた。チャンピオンを獲った中野真矢、ファクトリーマシンを与えられながらも1勝もできなかった松戸直樹。だからこそ、個別に話を聞きたかった(二人はとても仲がよいから、まとめて会話をしているとお笑い方向に走ってしまうという危惧も多分にあった)。

そうして聞いた二人の1998年は本当に対照的だった。ここまでの、ノリックや紀行の原稿は、ダイレクトに彼らの人柄を描写しようとしていたが、ここではレースを通じて、ライダーを描写してみたかった。アスリートとしての彼らの内面を描ければ、また違った視点が得られると考えたのだ。

これは思ったよりも楽しい作業だった。細かなことを言えば、時間軸を少し散らしてもみたかった。いくつかのレースの話を、レース終了後からレース前に遡ったりと、前後させている。短い原稿の中でのことなので、あまり成功してはいないけれど、多少は動きをもたせられたと思う。

しかし温泉でも良かったな〜。キャンギャルと混浴ちゅう話もあったんだけどな……。そういう色気のある仕事、いまだかつてしたことがありません。取材後に食った仙台の牛タンがうまかったのと、帰りの東北自動車道での直樹くんとのバトルが楽しかった。


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