■ヤマハ発動機・芳賀紀行公式ホームページ掲載(1999年2月頃)

 1996年、7月28日。史上最年少、最多周回数記録を打ち立て、鈴鹿8時間耐久ロードレースで優勝した芳賀紀行。'97年にはヤマハファクトリー入りし、全日本選手権スーパーバイクでチャンピオンを獲得。昨'98年はワールドスーパーバイク選手権にフル参戦し、5回の優勝でシーズン最多勝タイ記録をマークした。
 8耐の優勝で一気に注目を集めて以降、この3年の間、彼には確かに勢いがあった。この3年だけを切り取ってみれば、何の苦労もなくトップライダーの座に上りつめてきたかのように見える。
 しかし、現実には彼は、ロードレースデビュー以降、苦節とも言える長い時間を過ごしてきている。そしてその時間こそが紀行の土台となり、今の彼の強さを支えているのだ。
 中学1年生の時にミニバイクレースを始めた紀行は、ミッション付きバイクに慣れると、ほどなくレースを席巻するようになる。
「もう、勝ちまくり」
 と紀行。
「所属してたチームデイトナもミニバイクに相当力を入れてくれてたし、僕も人一倍練習したから」
 その勢いのまま、'92年、ロードレースにデビュー。紀行は、関東選手権SP250ccクラスとNB250ccクラスでランキング2位となっている。SPクラスは、最終戦での「当てられた」と紀行が言うクラッシュさえなければ、チャンピオンも取れたシーズンだった。
 それでも、紀行自身はもう一つレースに乗り切れていなかった。
 好調の波は、翌年にも訪れなかった。'93年は全日本選手権250ccにステップアップし、ランキング13位。
「もう、この頃は全然やる気がなかったですよね。'92年なんか結構太ってたし、自分自身の戦闘力がなかった。この頃は17、8歳で、ちょうど年齢相応の分岐点に立ってたような気がする。レースをやっていく気もそんなになかったけど、チームから契約金をもらってから、しょうがなく走ってたって感じで……」
 '94年、全日本選手権はそれまでのTT-F1からスーパーバイクへとマシンレギュレーションが変わった。タイミングを同じくして、紀行もスーパーバイククラスにスイッチしている。ミニバイク時代からここまで所属していたチームデイトナがレース活動をしないことになり、シートを失った紀行だったが、チームファンデーションから「乗らないか」と声をかけられた。
 紀行の走りには、見るべき人の目を惹きつける強い何かがあった。それはリザルトには残されていないけれど、人々の印象の中には残っていたのだ。
「今まで250ccに乗ってて、大きいのも経験したいと思ったし、だいたい乗れれば何でもよかったような状態でした」
 この年も、ランキングは9位で終えた。
 さらに状況は困難になる。'95年は、チームが決まらないままシーズン開幕を迎えてしまったのだ。
「ロードレースも、もう終わりだなと思った。ますますやる気もなくなっちゃったし。でも、TEAM YDS OKABEで走ることが決まってからは、『ここは勝負どころだ』って思い直して」
 第5戦目から全日本スーパーバイクに復帰。この時から、メカニックの戸田佳秀との付き合いが始まる。SBKでも、さまざまに髪の色を変える紀行と、金髪の戸田との極彩色コンビは馴染みの光景となったが、二人の間柄の深さも、共に難関をくぐり抜けてきたことで育まれている。
「大変でしたよ。何しろ自分でバイクを運ばなくちゃいけないし、トダッチとふたりで美祢とかすげぇ遠い所まで行ったりして……。でも、辛抱するしかなかった」
 モチベーションは維持できず、レース活動自体も楽ではない。それでも、紀行はレースを続けた。
「自分には、それしかないと思ってた。だから続けるしかなかったんだ」
 そして、大きな転機となる'96年の鈴鹿8耐を迎える。
 この年、紀行はチームテクノで、前年までに比べてよりワークスに近い体制で全日本を戦っていた。'95年の終わり頃からダイエットを始め、紀行自身の身体能力も上がっていった。第1戦で4位に入ると、続く第2戦では初優勝を果たしている。
 そんな折り、ヤマハのレース部門を率いる飯尾俊光氏から電話が入る。
「コーリンが、8耐のペアライダーに紀行を指名してきたぞ」
 コーリン・エドワーズは、シーズンの事前テストなどで紀行の走りを知っていた。もちろんエドワーズ自身、勝てるパートナーとして紀行を指名したのだ。
 ついにファクトリーのマシンでレースができる。しかも、舞台は8耐という日本最大のレースイベント──。紀行に断る理由はなかった。同時に、勝利のことなど、考える余裕もなかった。
「ピットの雰囲気からして全然違うんですよ。『スッゴイ所に置かれてレースするんだ』って思った。緊張はしなかったけど、もう、感動してばっかりで、優勝の感触なんかなかった」
 いつかはああいう環境でレースをしたい──。プライベーター時代に憧れたファクトリー体制が、自分の手に入った。
 そして、優勝。紀行はしかし、冷静にこの勝利をとらえていた。
「もちろんうれしさはあったけど、前が脱落していっての優勝だったからね。淡々と走ってただけって感じだった。もちろん最多周回数で、アベレージはすごく速かったんだけど」
 最年少勝利記録のことなど、あとから人に言われて「へえ」と思ったほどで、まったく気にしていなかった。
 この優勝で、「芳賀紀行」の名は一気にレース界に知れ渡る。紀行を取り巻く環境、他人からの評価などは、大きく様変わりした。紀行はそのことを楽しみながらも冷静に俯瞰していたが、彼自身もこの年から大きな波に乗ることになる。
 '97年、ヤマハファクトリー入りを果たした紀行は、決して最強とは言えないYZF750を駆り、全12ヒート中7回優勝。あっさりとチャンピオンを獲得した。
「'96年からノリノリでしたからね、そのままの勢いで行ったって感じ。でも、努力もしてたしね。トレーニングもしたし、レースに対する意気込みも今までとは全然違ってた」
 レース前後の強気な発言や態度などもあって、紀行を表して「強いライダー」という言葉が使われるようになったシーズンだった。しかしスタート前のグリッドでは、吐いてしまうほど緊張していた。
「スタートでいきなり転んで、後続車にひかれて死んじゃうかもしれないでしょ。もう、毎戦毎戦そんなことばっかり考えてたよ。ホントだってば!」
 笑いながら紀行は言う。今では少しマシになったが、それでもスタート直前には色々なことを考えてしまう。特に'98年はSBK初のフル参戦で、初めて走るコースがほとんどだった。
「何があるか分かんないでしょう。予選とかで走ったって、レースになったらどういうことになるのか……。相手は初めてレースする外国人ライダーばっかりで、1コーナーに他のライダーがどんな感じで入っていくのかとか、始まってみないと分かんないからね」
 スタートしてしまえば、緊張などは吹き飛ぶ。'98年SBKでは、初戦オーストラリアの第2ヒートでいきなりの優勝。続く第2戦イギリスでは、両ヒート優勝のパーフェクトウィンを達成する。だがこの後、紀行は勝ち星に見放され続ける。
 ようやく勝利をつかんだのは、第8戦アメリカの第2ヒートだった。ドゥカティのT.コーサーとの激しいつばぜり合いを制し、コンマ5秒差で4勝目をマークした。
 そして、第12戦日本。最終戦は走り慣れたSUGOスポーツランドで迎える。第1ヒートは、独走しながらも13周目の1コーナーでギア抜けによるリタイヤ。そして第2ヒートは完全にレースを制し、5勝目。表彰台の頂点での紀行の笑顔で始まったシーズンは、やはり表彰台の頂点での紀行の笑顔で終わった。
 ランキングは6位。決して楽に進んだシーズンではなかった。極東の地、日本からの移動は、思いがけず紀行の体に疲労を残した。初めてのコースの連続は、スタート前の緊張を呼んだ。遠い海外での転倒や負傷は、肉体的にも精神的にも紀行を痛めつける。
「それでも気持ちのいいシーズンでしたよ。よくない時もあったけど、トータルに考えたら実力は出せたような気がする」
 この余裕は、苦しかった時代を乗り越えてきたという自信から生まれている。
「苦労してきた時期って、全然無駄じゃなかった。調子が悪くて、ダメになった時の弾みになりますよね。もっと苦しかった経験があるわけだから。自分がゼロに戻って努力し直せばいいんだって、分かってる」
 努力、意気込み……。キャラクターからすると意外にも思える言葉が、紀行の口からはよく聞かれる。だが、勝利という目的が明確である以上、そこに至る道は何本もあるわけではない。紀行はそのことを身を持って体験し、深く理解している。
 努力をしなかった時代は、勝てなかった。勝てなければ、すべてが悪い方へ循環した。しかし、自分自身の努力を怠ることなく、チャンスを逃さず勝つことができれば、すべてが良い方に循環する。
「とにかく勝ちたい。8耐優勝や全日本チャンピオン獲得で、勝つことにはそれなりの見返りがあることが分かった。周りの僕に対する評価も変わる。……自分も変わるしね」
 今は、自分の変化を見届けることが、紀行の一番の楽しみだ。変化するということは、紀行の精神や肉体が、決して一ヵ所には立ち止まっていないということに他ならない。また、過去を捨ててしまっては、自分の変化に気付くこともない。
 過去を忘れることなく、未来に歩み続けること。後ろを振り返りつつ、前に進み続けること。紀行は自分の力でこの道を見つけ、自分の意志でその道を歩んでいる。そこには輝ける飛躍はなく、着実で地味な努力という試練だけが待ち受けている。
 勝利へのプロセスは、そういくつも用意されているわけではないのだ。


バックアップのMOを何の気なしに覗いて発掘した、自分で書いたことさえ忘れていた原稿。

SBK参加初年度に5勝を挙げ、「芳賀紀行って何か勢いがあってバーッとイッてる」という印象を多くの人が持っていた98年。シーズンを振り返ってもらおうと名古屋の自宅に行ったが、ちょっとばかり振り返りすぎてレース歴が中心になってしまった。んでもってそのあたりを書いたんだと思うんだけど……。

しかしいつ書いたんだっけなあ? ホントにオレが書いたのか?

オレ、誰だよ……?

ちなみにタイトルは「とどまること」とお読み下さい。

ってことはやっぱオレが書いたんだよなあ。うーむ。

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