隣 人 1
隣の701号室が、入居者募集になっているのは知っていた。
反対側のカナリアの彼女とは違い、こちらの住人とは付き合いがなかったので、引っ越すにあたっても挨拶などはなかったし、特に気に止めてもいなかった。
冗談で、火村に「買えば?」などと勧めたりはしたが。
「大阪府警のフィールドワーク行くのに便利やろう? セカンドハウス」
「バーカ。そんな金あるか」
「ここ賃貸の人もおるで? そういや賃貸の人には、町内会の役員が回らんのや。楽でええやろ?」
「なんでお前んちがあるのに、わざわざ隣の部屋なんか借りなきゃならねーんだよ」
我が物顔に、くわぁ〜っと大あくびをしながらの返事に、ちょっと安心する。
「俺んちはホテルやないって、なんべん言ったらわかるんや。ああ?」
「ほー、学生時代の飲み会のあと、必ず俺のところに転がり込んできたヤツのセリフとは思えねえな」
「う。……まーまーセンセイ、それはもう時効や」
本心で勧めているわけでは決してなかった。大阪に来ているのに別の部屋に泊まるなんて、そんな水臭いことは許さない。……そんな寂しいことは。
一緒にいられる時間は、ただでさえ少ないのに。火村と会える時間は、私に取って何よりも貴重なのに。火村に対する想いがバレたらどうしようと怯えながらも、会えない時間はもっと耐え難くて。
いつか、火村に伝えられる日がくるだろうか。
会えないよりも、隠しておく方が辛くなったら?
今のところは、私には伝えることができない。会えない方が耐えられないから。火村に会えなくなるくらいなら、隠しておくくらいはなんでもない。
大阪府警からフィールドワークの要請が出されるのを待ち望み、更に、火村から私に声が掛けられるのを希っている。お呼びが掛からない時にも、終わったらこのマンションに転がり込んでくれるようにと。以前たまたま外出していて待ちぼうけを食わせてしまったことがあって、それを理由に無理矢理に合鍵を押し付けた。いつでも、気兼ねなく来てくれるように。
幸いなことに火村に対する大阪府警の信頼は篤く、月に1度くらいは有栖川ホテルをご利用頂いている。
その他に会える機会といえば、私が何かと口実を作って、火村の下宿に押し掛けて行くしかないのだ。あまり頻繁に行っては不審に思われるだろうし、私ばかりが会いたがっているようでなんだか悔しい。
実際、そのとおりなのかもしれなかったが……
しばらく空き部屋になっていた701号室が、なんだか騒がしかった。
そっか、ようやく誰か引っ越して来たんやな。どんな人かな、ええ人やといいな…… などと呑気に思っていた私だが、夕方、粗品(!)を持って挨拶に来た人物を見て、ひっくり返りそうになった。
「ひ、火村!?」
私が思わず叫ぶのも、当然だろう。引っ越しするなんて聞いたこともなかったし、わざわざ大阪の、ましてや私の部屋の隣に越してくるなんて。
「君、え? なんで? こんなとこで何してるんや!?」
私の当然の問いに、火村は訝しげな顔だけを返した。
「なんでこないなことになってるん? ばあちゃんは? 今日はエイプリルフールやないで?」
大騒ぎする私を、火村が感情を表さない醒めた目で見つめていた。
なんだか、だんだんと息苦しくなってくる。これは、あまり関わりを持ちたくない人間を見るときの、目つきに似てる……? この私に向かって!!
―――これは、本当に火村だよな? よく似た他人のわけ、ないよな?
「悪いが、人違いだろう」
―――ああ、眩暈がする。
「せやかて、……火村やろう? 間違うわけ、あらへん!」
「確かに俺は火村だが…… たとえ有栖川、さん、の方が俺を知ってるとしても、そんなに詰め寄られる謂れはないと思うが」
………!
「ひむ―――」
それ以上何も言えずに硬直している私に、火村は気まずくなりかけた空気を振り払うように、目礼を返してさっさと出て行ってしまった。
「ひむら……」
私を見知らぬ人のように苗字で呼んだ、あの男は誰なのだろう……
私は呆然と、閉まったドアに向かって立ち尽くしていた。
H13.4.23
はじめてしまいました。
この第1話だけは、遥か遠い昔からできていたのですが……