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       隣 人 2



 1夜明けても、気分は晴れない。あたりまえだ。
 何にも関わりのない人間に、君がわざわざ粗品(入浴剤10回分だ。ラッキー♪)まで持って挨拶に来るなんてことがあるか? 
 付き合いはできる限り、歳暮も中元も、バレンタインのお返しまで省くヤツなのだ。下手すると年賀状まで。あ、いや、お世話になっている人に対しては、ちゃんとしているはずだけれども。
 そんな、義理なんて鼻で笑い飛ばすヤツが、なんで粗品持って挨拶やねん!
 俺に含みがあるとしか思えんやないか!
 それなのに、俺のことは知らんやなんて、そんな人をコケにした話があるか!
 粗品を持って「よろしく」とご挨拶に――いや、私が質問責めにしたせいで、そんな言葉は聞けなかったのだが――なんて、そんなのは全然火村らしくない。
 何のために私のところに挨拶にきたのだろう。性格や行動パターンまで変わったわけではないくせに…… 私のことを忘れてしまった以外、何ひとつ。
 事実、火村は私の所にしか挨拶に行かなかった(らしい)。もう一方の隣人である真野さんの出勤時間に合わせてゴミ出しに行き、それとなく探りを入れてみたのだ。案の定、『新しい人にはまだ会っていない』との答えが返ってきた。
 彼女は火村の顔に見覚えがあるだろうか? 私の友人だとバレたら、変に思われるやろな……
 だいたい、701は端の部屋だから隣人は私しかいないとはいえ、他を省きすぎなのではないだろうか?
 あの横着者め!




 どうしても納得がいかなかったので、その晩、火村が帰ってきた頃を見計らって、701号室を訪ねることにした。今まで隣人を訪ねたことなどなかったが、相手が火村となれば、この私が何を遠慮する必要があるだろう。うん。
 そう自分に言い聞かせて、手足が冷たくなるほどの緊張を押し殺した。
 私のことを、見ず知らずの人間として映した瞳。
 初対面の時でさえ、これよりはるかに親しみのこもったものだったように思う。このドアを開ける火村は、また私をあんな目で見るのだろうか。私はそれに耐えられるだろうか……
 きうぅ〜と竦みそうな心臓を宥めながら、私はインターホンに手を伸ばした。



 待つほどもなく、火村はすぐに顔を覗かせた。
「……ああ、アンタか。なんだ?」
「あのっ。は、話させてもらえんかなと思って」
 ああ。火村の視線はやっぱり昨日のまま無表情で、思わず怯みそうになる。
「…………」
「おねがいしますっ!」
「……どうぞ」
 私はよほど切羽詰った顔をしていたらしい。思いっきり不審そうな顔をしながらも、火村はドアを大きく開けてくれた。

 中は、まるでなにもない部屋だった。いくら引っ越してきたばかりとはいえ、いや、それならなおのこと荷物でごった返していそうなものだが、見事なくらい道具というものがなかった。ビックリして、各部屋を覗いて回る。
 リビングには安っぽい応接セットだけ。
 ソファはベッド兼用。そこに毛布が畳んで置いてあった。
 テーブルの上には灰皿が1つと、大学の図書館から借りてきたと思しき、ぶ厚い洋書が1冊。
 電話もテレビもない。
 キッチンには冷蔵庫はおろか調理器具さえほとんどなく、かろうじてインスタントコーヒーが飲めるだけの装備。
 私が書斎と寝室に使っている部屋に至っては、ものの見事にカラッポだった。
「うわー、なんもない」
 呆れ果てて、呟きと言うには大きすぎる声になってしまった。とても会ったばかりの人に対する態度ではないが、どうせ相手は火村だという思いが、私に遠慮を忘れさせていた。
「どうせ帰ってきて寝るだけだからな」
 初めは止めようとしていたらしい火村が、諦めたように返す。返事を期待して言ったわけではなかったので、はっと状況を思い返してなにやらドギマギした。
「君、ここで暮らす気あるんか?」
 どれほど傍若無人な人間だと思われていることだろう。火村が初対面の人間に対してこんなことを許すとは思えない。それを許してくれているのは、『相手が私だから』 ではないというのだろうか?
「なんなんだよ、おまえは。―――で、話って?」
「あ。スマン、ちょおビックリして。話な。うん。話……」
 いつの間にか、あれほどの緊張が解けている。これなら、冷静に話すことができるかもしれない。


「あの、なぁ…… 君、ホンマに俺のこと知らんのかな?」
 無言の視線が肯定している。
「あー、そしたら教えたるわ」
 私は自分のことを話した。脱サラして、今は専業でミステリを書いていること。出身大学のこと。当時からつるんでいる親友がいること……
 その間にも、火村は顔色ひとつ変えなかった。親友というのが自分のことだなどとはつゆほどにも思わないらしく、大学の話に至っては、同窓生だから顔を知っていたのかと単純に納得される始末だった。

「そしたら今度は、君のこと教えてや?」
 私が訊くことに、火村はすらすらと答えた。
 職業は英都大学の助教授。家は京都の下宿 (引き払ってはいないらしい)。飼っている猫のこと。
 ただ、ここに部屋を借りた理由だけは不明確だった。なんとなく……だそうだ。ここがいいと思ったのだそうだ。(そんなワケあるか! ボケ!)
 大阪に来ることが多いから、なんて理由にならない理由はあったけれども。

 そして―――
 友人らしい友人はいないと言い切った。
 私のことだけが、この火村の記憶からすっぽりと抜け落ちていた―――



H13.4.30


『アリスのことだけ忘れた記憶喪失』と、どこが違うのでしょー?
うーん。ちゃんと書けるといいが……