隣 人 3
偶然の訳がない。
私のことだけを忘れながら、私の隣の部屋を借りるなんて。
私が、何かしてしまったのだろうか……?
忘れてしまいたいと思うほどに酷いことを、私が、火村に?
どうしても納得が行かなくて、大学まで来てしまった。講義に潜り込んだ私の目に映る火村は、全くいつもと変わりなく見えた。
何も、変わらないのかな、火村は。
私が、いなくても。
私の方は君がいなかったら、作家になれたかどうかすら判らないのに。書き続けたのは私だが、その力をくれたのは間違いなく火村だから。
火村に否定されただけで、自分が本当にいたのかどうかすら判らなくなりそうなのに。10年以上つるんできた、その相手に否定されたら、その間の私の記憶に対する自信が揺らいで。だってあんなに記憶力抜群の火村が知らないって言うんだから、私のお粗末な記憶より確かかもしれなくて……
出かける前に、本棚に並ぶ自分の著書を確かめた。
表札も出ていた。
管理人さんと挨拶もした。
大丈夫。私はちゃんと存在している。
片桐さんに電話して、それとなく火村の名前を出してみた。
実家にちょっとだけ顔を出すと、当然のように火村の消息を訊かれた。
私が使っていた部屋――物置きと化しつつある――に置いてある学生時代のアルバムを開いた。
大丈夫。私と火村の過去は、ちゃんと存在している。
私の記憶は、ちゃんと合っている。
ただ、火村の中から私がいなくなっただけで―――
火村は本当に私のことを忘れてしまったのだろうか? そんなこと、あっていい訳がない!
なんとしても思い出させなければ。
私は在室を示す白い札を横目に見ながら建物に入り、悲壮な決意を固めて火村の研究室を訪ねた。
「よう、アリス。どうした?」
……は?
……全然普通やん。
火村は、いつもと全く変わらずに私に声を掛けてきた。
あれ? 昨夜のこと、夢、とちゃうよな?
でも。火村は私を忘れてはいなかった。
―――よかった……
一気に気が抜けて、私は手近な椅子にストンと座り込んだ。
「なぁ、この前会ったのいつやったっけ?」
「おいおい、もうボケたのか? 先週の水曜だろうが」
ボケはオマエじゃ!
確かにその日、火村はウチに遊びに来ていた。ただその後、日曜に火村が引越しの挨拶に来て、月曜の夜は私が押しかけて行ったように、私の記憶には残っているのだが。
「……そっか。せやったな」
うん。これは昔からの友人の火村だ。私のことを知らないと言った火村ではない。
私は、2人を別人として捉え始めていた。
「……君、昨夜はどこにおった?」
「別に。部屋にいたけど?」
「ホンマか?」
「嘘言ってどうすんだよ。婆ちゃんに訊いてみろよ」
訊いたとも。ここに来る前に寄ってきたのだ。
ばあちゃんに会うまではけっこうドキドキだった。よもやまさか、ここでも私を知らないと言われたらどうしようと。内心ビクビクしていた私だったが、ばあちゃんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
火村さんがとても忙しそうで心配だと言っていたぞ。
忙しくて、1ヶ月くらいは大学に泊まり込みだと言ったそうではないか。荷物を取りに、たまに寄るくらいになると。
この嘘吐きめ。
現役の下宿屋だったころ、理系の院生なんかも何人か預かったこともあるから、ばあちゃんはさほど不審にも思わなかったらしい。彼らは実験のため、寝袋持参で何日も泊まり込んだりもする人種――さすがに、1ヶ月も泊まりはしないだろうが――だから。
ただ、寂しがってた。
久しぶりに訪ねた私は、ばあちゃんと猫たちに、熱烈大歓迎を受けてしまった。
火村がおかしい。
これはいったい、どういうことなのだろう?
嘘をつくつもりなら、もっとましな嘘があるように思う。私がばあちゃんに話してしまえばそれまでなのだから。それをばあちゃんに話したとき、火村は本気だった? 私に向かって、私を知らないと話したときのように……
―――まさか、ホントにボケ? アルツハイマーとか?
……我ながら、恐ろしい考えが浮かんでしまったものだ。口に出したら火村に殴られそうだ。
しかしここで普通に話している火村も、701の部屋に帰ってくる火村も双方本気だとすると、そう考えた方が無難なのかもしれない……
H13.5.7
はい。非っ常〜にムチャな言い訳が出てきましたね。
初めにお断りしたとおり、設定がギャグなものですから……(-_-;A) 苦しい……