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        隣 人 16




 応接セットを返して(呆れたことにレンタルだった)、妙にガランとした空間。週末には、きれいにして明け渡さねばならないそうだ。
 改めて、部屋を見渡す。
 あんなに何もなかった部屋なのに、いつのまにか小物が増えて(大半は私の部屋から持ち込んだものだが)、生活する空間ができている。
「もう俺がこの部屋に足を踏み入れることはない。お前は次の入居者とも親しくなったら、また入ることもあるかもしれないけどな」
 私だって、おそらくもうここに来ることはない。
 隣人に会えば挨拶くらいはするだろうけれども、部屋に押し掛けたりすることは、まずないと言ってもいい。そもそも私はそういう性格ではないのだ。それくらい見抜け。今回そうしたのは、相手が他でもない火村だったからで。

 私のことを知らない顔をする火村が許せなくて、早く友達だと認めさせたくて、毎晩のように押し掛けた。
 そのくせ、『こんな短期間で他人を受け入れるなんて、そんなのは火村じゃない』なんて思ってて。その点だけは、嘘だったことに安心している自分もいたりする。
「火村」
「ん?」
「謝れ」
「何を」
「こんな、こんなことして……」
 こんなに私をかき回しておいて。この1ヶ月私がどんなに混乱して、振り回されて、苦しくて。でも……
「嫌だったか?」
「…………」
 チクショウ、見透かされている。
 確かに、楽しかった。火村と毎日一緒にいられるのが嬉しくて、だんだんと打ち解けてくれるのが嬉しくて、何もないこの部屋はとても居心地がよかった。
 だけど。
 怖かったんだからな。知らないなんて言われて。本当の君を怒らせてしまったかと思って。



 形勢が不利になってきた私は、火村からの言葉を諦めて、もう1度部屋をぐるりと見回した。
 いつの間にか、この部屋にも思い出がいっぱいできてしまった。もうすぐ他人のものになってしまう部屋なのに。あれがみんな、私の部屋で起こったことだったらよかったのに……
 そんな表情を読んだのか、火村がぽんと私の頭を叩く。
「思い出は場所に付くもんじゃない。当人が忘れずにいれば、消えてしまうことはないんだ」
「うん。…せやな」
 私は忘れない。たぶん火村も。
 どこからが誤魔化しで、どこまでが演技だったのか。少しは本音が入っていたのかどうか。それは私には判らない。でも、一緒に過ごした穏やかな時間、味わわされた煩悶、火村の費やした労力。そんなものを積み重ねて、今ようやく私たちはこうして並んで立っている。
 他人から見れば(私から見たってそうなのだから)呆れ返るしかないであろう火村の行動は、大いなる無駄ではあっても、決して無意味ではなかったのだろうと、今ならばそう思える。
 ただ、そんな手間暇を掛ける必要は、実はこれっぽっちもなかったのだけれど。



「これからどうする?」
 火村を振り返ると、妙に清々しい顔つきをしていておかしかった。
「あー、少し下宿でのんびりするさ。慣れない長距離通勤はさすがに疲れた。お前、よく4年間も通ってたな」
 そーかそーか、そんなにしんどかったかと少し笑う。もういい歳やもんな。お疲れさん。
「おう、見直したか?」
「まぁそんな学生は少なくないがな」
 むー。
「婆ちゃんにも心配掛けたし。暫くおとなしくしてるよ」
「せやな。ちゃんと謝っとけよ」
「ああ、そうする」
「ウリたちにも忘れられてんのと違うか」
 そう言うと、火村はなんとも微妙な顔をした。『そうだったらどうしよう』とか、心配になったか?
 ダメだ。笑える。
 堪えきれずに吹き出す。と同時に唐突な寂寥感が込み上げてきて、慌てて、止まらない笑いの中に無理矢理に紛れ込ませた。この笑いの発作が治まらないうちに、なんとか消えてなくなってくれないものか。
「どうした?」
「別に、なんでも……」
 ヒステリックな笑いのあと、沈黙するしかなかった私に火村が訊いてくる。
 誤魔化しは効かなかったか。こんなんじゃ不審に思われて当然だ。

「――今度はお前が来るか?」
「!」
 図星を指された私がギクリと顔を上げると、火村お得意のニヤリがそこにあった。でも口元がニヤリを形作っている割には、目元は微笑みの色を浮かべていて…… これじゃ腹が立てられない。
「言っただろ。お前だけじゃないって」 
 寂しいなんてバレてたまるかと思ったけど、私だけじゃないなら、……いいか?
「……今抱えとる中篇が上がったら泊まりに行くわ」
「そうか」
 別に転がり込む訳ではない。2、3日遊びに行くだけだ。
 毎日会っていなくても、ちゃんと普通に暮らしていける。
 火村のいちばんは私だと、そう自信を持たせてくれたから。
「いつ上がるんだ?」
「ん、もうちょい」
 いつになく好調に進んでいたので、本当にもうちょっとなのだ。この間のインフルエンザとその後の騒ぎで何日か書けない日が続いたけれど、それさえなければもう終わっていただろう、という程度には。
「早いとこ終わらせてくれ」
「おー。任せとき」
 私はニンジンには釣られるタイプなのだ。吊るされた餌が大きいほど頑張れる。
「でも無理はするなよ。また倒れてても、今度はすぐには来てやれねえんだからな」
 あ。
「……君、あんときやっぱ来てたんや」
 熱に浮かされて、夢かと思っていたあのとき。ちくしょー火村め、小細工しおって。
「おう。レトルトのお粥も1つだけ補充しといてやったぜ。芸が細かかろ?」
「アホ」
「仰天したね。不審な電話の主の姿を捜してみれば、ガタガタ震えながら床に転がってるんだから」
「……スマン」
「さすがにあの時は動転してたな。いま矛盾を突っ込まれたら、もう隠せないと思ったね」
「せやったらなんで言わんかった?」
「訊かれなかったから。実際、『夢』で片付いたしな」
「かっわいくな〜」
「可愛くてたまるか」
「……けど、ありがとな」
「もう倒れんなよ」
「へーい」



 そんなこんなで、私たちはこれからも大阪と京都で暮らして行く。
 付かず離れず、適当な距離を保って。
 距離や時間的に会えない日々が続いたとしても、精神的に会えないよりはずっといい。なんといっても、長年抱いてきた『バレたらどうしよう』という心配が、ようやくなくなったのだから。
 これからは、なかなか会えなくてヤキモキする時間すらも楽しむことができるだろう。だってそれは、会えば幸せが約束されている者の特権だから。
 今まで一緒に過ごしてきたように、これからも一緒に歩いて行く。
 そしてこの件は、2人の歴史において、燦然と輝く最重要トピックスの1つとして残ることになるに違いない。



H13.11.22


…………
よ、ようやく終わりました〜! よもや7ヶ月もかかるシロモノになろうとは……(爆)
合間に書き溜めて、纏めてアップしようとしていた当初の企みが、いかに無謀であったか解ろうというものです。
リアルタイムで1ヶ月以内にアップ! てゆーのが理想だったんですが、私にはそういう芸当ができないのでした。
トロい話にお付き合いいただき、ありがとうございました<(_ _)>