Paranoiacな日々
-2002年12月-
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2002/12/24

12日に並べたような規制反対派の方々は、法律として決められようとしている『ポルノ規制』に対して反対しているのであって、その運動に対して、あたしのような『だらだらと考えを垂れ流す』ような行為って言うのは、得にはならない上に損になってしまう可能性も在るってことになります。

 そこんとこは、自分でもわかっていますので。
 あたしの、ここらへんの言葉なんてのは、そういう『政治的な運動』に関しては無関係であります。
 もちろんAPP研の言に対する批判なんてもんでありません。
 あたしが、個人的に、思想とかムーブメントとか、そういうものについて『理解』しようという過程を、垂れ流していると、思っていただければ。

*例えば。
『戦争というのは古代から男は殺して女は犯すものと決まっておるのだ』
などという言葉があります。

 似たような言は、なんぼでもありますな。
 例えば?
 『ポルノは理論、レイプは実践』て言葉は、とても似ています。
 すなわち『男は犯すモノ、女は犯されるモノと決まっている』という意味において。
 で、この言葉は、ポルノグラフがレイプを産むとして批判したロビン・モーガンの反ポルノ論文の主張だったりするのですが。

 何を言わんとしているのか、というと。
 もしかしたらAPP研の言うような『ポルノグラフは女性差別を助長する装置である』という言そのものこそが、例えば『レイプと言う性犯罪をこの世からなくすことは不可能である』ということを、あるいは『女性の人権・性的自由・性的平等なんてありえない』ということを、言ってしまっているのではないかな、という気がする。
 そういうことです。

*つまりは、それは『セックスは特殊なものであるという前提』を、全ての人間が等しく受け入れているという、そういう意味なのではないか、と、思うのです。
 そして、その『性は特殊である』という共通認識を広めると言うことは『(肉として弱い)女性は男性から搾取されるように出来ている』という共通認識を広めている、ということに、なりはすまいか。ここらへんの飛躍については後程。

 そう考えると『ポルノグラフは女性差別である』という言そのものが『女性は(肉として)弱いので差別されないようにしなければならない』という主張になってしまう。

 またポルノは、仮にそこに暴力的な支配を合理化しエロチックと見なすメッセージがなかったとしても、それどころか女性支配をそう見なすメッセージさえなかったとしても、女性を単なる「女体」に引きずりおとします。ポルノの中では女性は、脚と乳房と膣だけの存在にされてしまいます。ポルノは、どんなに社会的に影響力ある女性であっても(「対等」ていどの女性なら当然)、そのように見なす視線を、確実に男性たちのなかに植え付けます。先日も、男性誌が社民党の議員を身体(乳房)に還元して揶揄する記事を載せました。

APP研スタッフの声01.09.03-2

 そういう風に考えると、上の言葉も実は『女性は(肉として)弱く、女性は脚と乳房と膣だけの存在であるので、女性をそのように扱ってはならない』という言葉に変換されてしまうのではないか。
 これは、例えば『女性の性的自由、性的平等』って言葉には、あまりつながらない。
 女性は弱い。男性は強い。これを『平等』にするために規制をかけて男性を相対的に弱くするべきである。ってこと?

*さて。
 上のあたしの言には、いくつかの嘘があるわけなんですが。
 そのうちのひとつが『女性の肉体は男性の肉体よりも弱い』という『前提』であります。

 この『女性の肉は弱い』という前提は、真偽については医学的なコトなんで置いときます。
 問題は、それがあまりにも『自明である』こととして、共通認識として、広まってしまっているんではないかなあと、そう思うのです。

*『女性の肉は弱い』という前提と『性は特殊である』という前提から、何が導き出されるかと言うと。
 『女性の肉をセックスで服従させることは、女性の全てを服従させることと等しい』という結論だったりします。

 飛躍でしょうか?

*セックスは特殊であると言う前提は、すなわち『セックスは自分が自分であるという前提のうちで特殊な部分を占めている』ということだと、思います。

 『自分が自分であるために必要なもの、自分であるために保持しなければならないもの』は、いくつかあると思うのですが。
 例えば『セックス』が、そういう『自己を特定するもの』のうちで特殊なものとしてあるということは。
 すなわち『セックス』が『自己』を決定する、ということに、なってしまう。
 『セックス』が『肉』に属するものであるとするならば。『セックスが自己を決定する』というのはすなわち『肉が自己を決定する』ということになる。
 すると『男性はペニスである』『女性はカントである』ということになってしまう。

 それは例えば、ポルノは女性差別装置であるという言の前提である『ポルノグラフは女性を性的な肉に押し込める』という言葉とおんなじことを言っている。
 つまり『女性の肉は弱い』『性は特殊である』が並ぶと、それは既に『女性を性的な肉である』と認めてしまっていることになる。
 もちろん『男性は性的な肉である』ということも同時に言っているのですが、最初の『女性の肉は弱い』という前提より『男性は女性から搾取するように出来ている』ことまでを認めていることになる。

 もし『セックス』が『肉』に属さないものであるとするならば。
 自己を決定するものは『肉ではないセックス』になります。
 そうすると、レイプと言う『肉のセックス』は自己を決定する上で重要ではないことになります。
 それは『肉ではないセックス』の類似行為を強制されたという意味においては特殊な暴力行為であるといえるでしょうが、自己を揺るがすほどの『重大な犯罪』ではない、ということになります。

 もし『セックスは自分が自分であるという前提のうちで特殊な部分を占めている』という前提そのものが嘘であったとするならば。
 そもそもポルノグラフは犯罪であると言う主張は出てきません。

*さて。
 考えて、垂れ流したわりには、なんだかウソ満載風味の言葉になってしまいましたなあ。
 でも、問題の本質は『女性の肉は弱い』『性は特殊である』という前提を、男性も、女性も、等しく持っているということ、だと思うのよね。多分。

 女性の『政治的権利』が弱いっていうのは、もちろん多分本当。
 男性の持つ『女性とはこれこれこういうものである』という観念そのものが問題であるって言うのも、おそらくは本当だと思う。

 ただ、男性の(そして女性も等しく)持つ観念って言うのは即ち『女性の肉は弱い』『性は特殊である』という前提のことなんだと思うのね。
 そういう観念を、男性も、女性も、等しく持っていると言うのは。
 問題の本質ってのは実は、単に『ポルノグラフ規制』とかして『男性の観念を転換させる』ことだけでは充分ではない、ということになる。
 政治的云々は、ここでは無視することとしましょう。政治は、理想や理念や思想なんかだけでは動いてくれないからな。

*『女性の肉は弱い』という前提は。
 言ったとおり、医学とかなんとかに属するようなことなんで、あんまりここでは重要ではないんですが。
 とりあえず『女性は妊娠し子供を産む』という役目を押し付けられていると言う時点で、不利であることは否めない、としましょう。
 そう考えると、医学的に安全で確実な避妊方法や堕胎手段ってのは、女性の『妊娠し子供を産むと言う役目』から女性を解放すると言う意味では、重要だと思うんですが。
 倫理的宗教的その他的問題があるようで、あまり受け入れられないようです。

*『性は特殊である』という前提は。
 これは、どうにも『根深い』ようです。
 でも、これがある限り、きっと『セックスによって人を服従させる』という概念はなくならないと思う。
 で、その概念こそが、例えば『ポルノグラフは女性差別装置である』という言葉の焦点にあるわけで。
 その概念が存在することを赦したままでいるということは、すなわち『性犯罪はけしてなくならない』『ポルノグラフはなくならない』『性的抑圧はなくならない』ということを認めてしまっていることになる。
 規制することでその存在が無くなるだなんて、今更そんな夢物語を語れる程、みんな呑気でもないでしょ。

 ところが『性は特殊である』という前提を、みんなで『それはウソだったね』と言おうとすると。
 それは即ち『性的リベラリズム』ってことになっちゃう。のかな?
 なぜなら、セックスは特殊じゃないのだから、例えばセックスは『女性』と言う集合が等しく持つ『特殊な』権利ではないということになる。その権利は、その行為主体である『個人』に分散されてしまい、その個人が『自由に』行使してよいということになるのだから。
 どっこい、そういう『性的リベラリズム』ってのは、単にセックス好きの人間のタワゴトであるとか、男性が女性を通して言わしめている『女性から搾取しつづけるための方便』とか、そういう風に取られてしまう。
 そしてもちろん、ポルノグラフや売買春をなくしてしまおうと考えるヒトビトにとっては、全く直接に戦うべき相手になってしまっている、わけです。

*そう考えると。
 例えばAPP研の言う『ポルノは害悪であり廃絶されねばならない』『売買春は害悪であり廃絶されねばならない』っていう言葉は。
 セックスは特殊であると言う前提の基に発せられている言葉であると言うことから、その『特殊な権利』を『男性による侵蝕』から守ろうと言う運動である、と言っちゃうこともできる。

 さらに言っちゃえば。
 セックスは特殊であると言う前提を赦していると言うことは、セックスにより他人を服従させると言う行為そのものの存在を認めているということになります。
 つまり、セックスと言う暴力により他人を服従させる人間はいるんだろうけれど、それはやめるようにしよう、という言葉と等しくなります。
 その上での『ポルノグラフは害悪であり廃絶されねばならない』という言は。
 つまり、人間は弱いから、害悪を遠ざけておかねばならない、という言であると考えてもよいわけですな。
 例えばイスラム教の女性のかぶるベール(ヒジャブ)と同じです。

(参考文献1・イスラムにおけるわいせつの概念)
「人間は、本来善でも悪でもないが、弱い存在である。したがって誘惑にまけやすくなるような状況をつくらないことにする。不特定多数の男女が肌をみせて接触していると、弱い人間のこと、乱れるにきまっているから、男も女も、手首、足首までの長い衣服をつけることにする。性的誘惑に対しては、男は、とくに弱いから、女は、髪の毛もおおう「ベール」をつけて、弱き男性をまどわさないように協力する」

 そして、現在のイスラム教圏というのは、例えばAPP研の彼ら彼女らが最も注視し、そこでの性的虐待と性的不平等について警鐘を鳴らし、虐げられている女性に対して手を差し伸べねばならない地域だったり、するのですよ。

*例えば『コンドームの着け方実習 豊中の市立中/性教育、批判の声も』なんていうニュースにしても、その批判の言としては『セックスは特殊である』っていう前提があると思うのですよ。
 性は最もプライバシーに関わる部分であり、特殊なんだから、それは家庭で教えるから、学校はそんなことせんでもよい。なんて言っている同じ口で、行政は有害情報規制をしなさい、等といったりするんだろうなあ。
 それは、自分(親)にとって都合のいい、ただのセックスコントロールであると思うんだがなあ。

*あ、そうそう。
 メリークリスマス。
 異教徒の預言者の聖誕祭ですよ。
 祝おうではないですか。

 日本にも存在する基督教関連組織は、思想統制への運動を強烈かつえげつなく行っているわけなんですが。
 そんなもの、聖なる預言者の言葉とはなんの関連もありません。
 ジーザスクライストスーパースターのエキサイティングな生き様について言うなら、それはなおさらです。
 そして世の恋人たちは、聖なる夜に胸を躍らせ、性なる夜に身体を火照らせていたりするのですよ。

 悔しくなんかないですよ?
 いや、ほんと。
 本当だってば。
 ちくしょう。

Seid umschlungen, Millionen. Disen Kußder ganzen Welt!

 諸人よ、抱き合え、くちづけあえ、ですよ。
 喜びの歌ですよ。

 クリスマスだよ。
 どうだって、いいじゃないか。
 目出度きことは善哉、だよ。

 ねえ。

 世界中に、せめて一日だけでも。
 喜びがあふれたらいいよな。

 理想論と楽観主義に抱かれたまま、あたしは眠るのでした。
 明日は仕事で出張なんだけど。

 世界中の、あらゆるものに。
 キリスト教徒にも、そうでない人たちにも。
 男にも、女にも、その他にも。
 動物にも、植物にも、その他にも。
 缶ビールにも、テレビの電波にも、明日の仕事の資料にも。
 みんな、幸せでありますように。
 メリークリスマス。

 メリークリスマス。

2002/12/18

*嗚呼。
 今、ようやく、理解。

 APP研の所で、キャサリン・マッキノンの論文の訳を読んだわけです。
 それでようやく、彼ら彼女らの『ポルノグラフィはそれだけで性暴力である』の真意を、わかったような気がします。

 もちろん、正しく『わかったような気がする』だけなんですが。
 つまり、知識量が絶対的に足りていないから、という意味において。
 そんでも、あたしの昨日の話みたいなのは、その理念に対して屁のツッパリにもならない、ということは、わかります。

 例えばROSFの鳥山氏が児ポ法に反対する際の心得として『法律の勉強しろ、漫画賛美なんぞするな、作品論なんか語るな、頭の悪い差別論を排除しろ、お前らの敵は強敵だ』って口を酸っぱくして言っている理由も、ようやく理解できたような気がします。

*あたしがここまでで理解できた限りでの、APP研の言うところの『ポルノグラフはそれだけで性暴力である』ってところを、まとめる。

*性的リベラリズムでの、同意の上でのポルノグラフは問題ないって言う言葉。
 これは、資本主義的な『あらゆる物事は金銭的価値に換算可能である』という文脈の上では、すなわち『自分(の裸身を撮影した写真)をエロティックに使用することを許可する契約を、互いの同意の上で結んだ』という風に言い換えることが出来るかと思います。

 ここでの『同意の上で契約を結ぶ』ための前提条件に対して、異議を唱えます。

 女性は男性に対して、法的にも、肉体的にも、ジェンダーと言う名の『身勝手な男性の押し付ける役割』の上でも、常に弱い立場にたたされているからです。

 女性は男性に対して、既に『制限された』状態に置かれています。
 その上での『同意の上での契約』なんてのは、決して『対等な取引』ではありえない、と言えます。
 相手にナイフを突きつけられながらの『対等な取引』だなんて、冗談じゃない。

 したがって、全ての『女性の裸身』が『ポルノグラフ』であり『性暴力』である、わけではなく。
 現在の、男性上位家父長制度の社会情勢での『ポルノグラフ』は、全て『対等ではない』取引の上に結ばされた『不平等な』契約による『搾取』であるので、それは『性暴力』である、ということ。

 ポルノグラフにも、売買春の契約にも、結婚生活の上でのセックスにすら、その『不平等な契約による一方的な搾取』はあります。

 そして、最も大きな問題は、それらの『性暴力』を裁くべき『法』が男性にとって都合のいいように作られたものであり、また法を執行する機関を運営するモノが、女性の権利を拡張することにより相対的に不利を被る男性により構成されている、という事実です。

*と、そんな感じで、いいのかなあ。

 おそらく、上で言った『女性はあらゆる場所で常に弱い立場に押し込められている』という彼女たちの『旗』は、様々な『性暴力』に対する戦いで傷だらけになりながらも、たった一つだけ持ち帰ることが出来た、輝く石。
 なんて言い方をしたら、不謹慎かな。ま、それについては勘弁を。兎も角。
 そんな彼女たちの、実際に『戦ってきた』という経験と、その上での『輝く意思』と、にとっては。
 男性の側からの、言論の自由を前提とした『ポルノグラフ容認』なんて、とても認められないし。
 ましてや、頭の悪い『エロ賛美』なんて、ガキのタワゴト以外の何物でもない。

 『(あたしも含めた)男性』による『ポルノグラフを俺たちから奪うな』という言葉なんてのは、だから彼女たちの『私たちは、産まれた時から既に奪われている』という言葉と比べると、全然重みが違うのですよ。

 で、性的リベラリズムの言う『私(女性)は現状にそんなに不満は無いし、立場も結構対等だと思うし、だからポルノグラフもセックスも私の好きな価格で取引できているから、これは私個人に属する、私の正当な権利でしょ』っていう言葉は。
 男性の性に対する欲望とは親和性がいいけれども、マッキノン風のフェミニズムとは決定的に相容れない。

 こんな感じの理解で、いいのかなあ。

*で、そこまで思った上で、なお。
 やっぱり『ラディカルフェミニズム』ってのは、どうなんだろうなあという、疑問と言うか違和感と言うか、そういうものは、あるのよ。
 具体的には、言えないんだけれども。
 まあ、もっと知識をつけた上で、言葉が凝ってくるのを待ちます。

 ちゃんと、知識をつけなかったら、闘う『相手』が何を望んでいるのかを見誤ります。

*まあ、ゲンジツの『有害情報規制』なんて舞台で闘うべき『相手』の大多数は、実はそんな『主義主張』に全く無関心である『政治屋』だったり、そんな『輝く意思』とは全く無関係であるただの『セックスヘイター』だったりするってのも、悲しいかな事実。

 悲しいけれどこれって戦争なのよね。

2002/12/17

*あ、いや。
 例えばエクパット東京の理念とかポルノ・買春問題研究会の理想とか、そういうものについて言えば、全然否定しない、どころか、全くに賛同するものでは、あるのよ。
 日本、治安がよいブンメイ国家だなどとおだてあげられている日本ですら、児童に対する暴力ってのは、根深く重大な問題です。
 女性一般に対する性的搾取と権利の不平等ってのも、重要な問題でしょう。

 ただ。
 そういう問題を解決する、そのための方策としての思想の矯正と強制とってのは。
 世界各国で今なお続けられている、実在女性に対する、あらゆる方法、あらゆる形態での暴力の真実を知ったとしても。
 それでも、どうにも、納得がいかないのだよ。

*例えばポルノ・買春問題研究会の主張する、ポルノグラフィは女性を性的な『肉の塊』に貶めるための装置である、という主張について、理解できないワケじゃないんだけれど。でも、納得はいかない。
 彼ら彼女らの主張では、ポルノグラフィの全てが『人権侵害』であるということになります。それは

という意味です。
 理解できないワケではないのよ。とっても、わかるんだけれども。でも。
 流石に、それはあやしいのではないかってのが、朧気に見えてきたりするのです。

 女性の裸体の全てが、ポルノ的な意味での『男性にとっての女性差別装置』であるというのは、突飛な話だよね。
 何故って、女性は全て『女性の裸体』を持っているのだから。
 女性にとっての『自分自身の身体』が既に『差別装置』であるというのは、即ち『女性は自らが自らを差別するための装置である』ってことになっちゃう。
 そうでは、ないでしょ。

 では『差別装置ではない女性の裸体』を提示できるのかと言えば、彼ら彼女らには不可能です。もちろん、誰にとっても不可能。
 どこに『差別』と『差別ではない』との線を引くことができるのか。
 誰が行っても、それは『個人的』で『恣意的』に過ぎません。
 それが『ポルノ的であるか否か』は、表現される被写体や表現する撮影者が決定することではなく、あくまで『それを見る者』がどう感じるのか、という点で決定されるからです。

 それは、先のポルノ・買春問題研究会の主張でも言われるとおりです。だからこそ、彼ら彼女らは、ポルノグラフィそのものを廃絶しようとしているんだもの。
 線が引けないモノだから、まとめて『やっちゃだめ』にしてしまおうというのが、ポルノグラフィを否定する言だからね。

 ここまでくると、もうそろそろアレ具合が見えてきていますが、思考実験を続けます。

 もし『女性のビキニ姿』が、一部の男性にとって『性的欲望を刺激し、女性に対する視線を差別的なものとする装置である』と考えられるとするならば。
 女性のビキニ姿の全ては、全ての男性にとって『ポルノ的』であり、それは『廃絶されねばならない』ものになります。

 もし『"脚"という単語』が、一部の男性にとって『性的欲望を刺激し、"脚"という単語に対する視線を差別的なするものとする装置である』と考えられるとするならば。
 "脚"と言う単語の全ては、全ての男性にとって『ポルノ的』であり、それは『隠されねばならない』ものになります。

 "脚"と言う単語のハナシは、冗談ではありません。

……徹底した清教徒的タテマエ社会である英国ビクトリア朝時代(1819〜1901)では,「脚」という言葉は猥褻だから使わなかったらしい.テーブルの脚も猥褻だからテーブル用のスカートを履かせていたという.……

5201大講義室チラリズムの仕組み ('00.07.21)

 結局それは、単なる『抑圧』以外の何物をも産み出さない制限構造でしかなく、その一番進んじゃった形のひとつが、イスラム教圏の女性が身に付けるベール(ヒシャブ)だったりするのです。
 そしてそれは、結局新たな抑圧と、そして新たな『差別装置』を産み出すものでしかない。

*もしもポルノ・買春問題研究会の方々が、抑圧を産み出さない、新たな差別装置を産み出さない形での『抑圧』を創り出す事が出来るとしたら。
 それはおそらく『洗脳』という方法の別の名前でしかありえない、のではないのかと考えます。
 ま、もちろん、そうではない、今まで『人間の手がまだ触れない』方法があるのかもしれないけれどね。

*個人的な意見として述べるのならば。

 数多在るプロスポーツ。例えばNBAでもNFLでもMLBでもプロ野球でもJリーグでも、なんでもいいんですが。
 それらの男性選手達は『力強い男性』という『男性というジェンダー』に押し込められている、とも言えるのではないでしょうか。
 躍動する肉体。激しくぶつかり合う肉体。見られる肉体。
 それらは、単なる『闘争的な肉』に、個性を排除した闘うユニットに、個人を押し込めているシステムだと、言えるのでもないでしょうか。

 『イケメン』『ビジュアル系』『セクシーな男性』、そういう『女性から見たセックスとしての男性』という視線も、男性という個体を『セクシーである』という『無個性』な男性像に押し込めているのではないのでしょうか。

 例えば、女性的であるとするあらゆる服装。これらも全て、男性中心の社会が産み出した、女性を『性的な肉』とするための装置であるとも、言えるのではないでしょうか。下着も、スカートも、制服も、化粧も、全て。

 そんな突拍子も無い意見とも、実は容易に結びついてしまうほど、ポルノグラフィを排除することで女性の人権は守られるという意見は、突拍子も無く、疑問のある考えだと、思うのです。

*何かを『制限』し『抑圧』し『排除』するという方法論は、よっぽど慎重に行わないと、単なる『抑圧する側の自己満足』で終わってしまうのではないかと、考えるのです。
 殊に、あらゆる情報を容易に入手できる現在であれば。
 もしも、情報そのものについても制限しようと言うのであれば、それは例えば『鎖国』と言い、例えば『独裁政権』と言うわけです。お隣の国家は、そんな感じで情報制限を行っていますな。
 その『制限されている』ということに気が付かないほど世界が狭く、天下が太平であれば、まあ、それはそれで『平和』な状態だとは思うんですが、ね。
 私たちは、今更、全ての『文明の利器』を捨ててしまえるほど、達観しているわけでもなければ困窮しているわけでも、ないよな。

*男性はポルノグラフを見ることにより女性を性的なものとして差別する考えを増長させる、という論が正しいとするならば。
 ポルノグラフを禁止すると言う方法論の他に、もう一つ、取りうる方法が、あるはずだよね。

 つまり、その男性が(差別的な)ポルノグラフを見る前に、セックスということとか、性差ということとか、個性と言うこととか、すなわち『男性でも女性でも、その性に別なく、その肉体は性としての肉を持ち、その精神はユニークである』という事実、そういう事実を教えると言うこと。
 まあ、簡単に言っちゃえば『早期性教育』なんですが。
 それだけではない。
 性差による差別的視線は、実は単なる『肉』に対する差別でしかなく、知るべき、理解すべき、尊重すべき特性とは、その個体の持つ『ユニークさ』であるということ、という、まあ、これも言っちゃえば『道徳教育』なんていう陳腐な言葉に収まってしまうものなんですがね。

*ポルノグラフが、男性の性質とか、性格とか、考え方とか、そういうものに対して大きな影響力をもち、またその影響力が『犯罪』を引き起こすほどに重大なものであるとするならば。
 ポルノグラフ以外の全てのコンテンツも、ポルノグラフと同様の『影響力』をもっていると考えてもいいのではないでしょうか。

 もし、ポルノグラフ以外のコンテンツは人間をしてその行動を規制するだけの能力が無い、なんていう言を吐くとしたら。
 それは、ポルノグラフに特殊な感情を抱いていると言う意味で、ポルノグラフの影響により犯罪を起こしたと主張する人間と同様の、まあ裁判で言われるところの『精神的に未熟な』人間であるということに、なりますな。

 もし、ポルノグラフは、全てのコンテンツの中で特に影響を与えやすいという言を吐いたとしたら。
 それも上と同様『精神的に未熟である』という言い方も出来るし、別の言葉を重ねるとするならば、その他の『創作物』コンテンツの作者に対する、あまりにも非道い侮辱とも、言えますね。

*結局にして、ポルノ・買春問題研究会の方々の言う『男性はポルノを見ることにより女性を差別し女性への暴力を行うようになる』という言は。
 例えば売春防止法に見られる『女性は弱いものであり保護が無ければ(国家にとって不利となる)売春をしてしまうものだから、(国家にとって)正しく補導、保護し、(国家にとって)正しく更生されなければならない』という観点を、女性から男性に向けたものだけでしかない、と思うのですよ。

 んで、そういうところに、彼ら彼女らの言に対する『胡散臭さ』というか、もっとあからさまに言えば『反感』があったりするのです。

*どうなんでしょ。
 あたしの、この言も、単に『既得権益を守ろうとする男性の愚かな抵抗』なんでしょうかね。
 現実にある、現実の女性に対する差別的視線の実在って言うものも、確かに存在するものであるってのは、理解できるのよね。
 だもんで、自分の言と脳内感情との、なんでしょ、乖離と言ったらいいのかな、そういうものも、まだちょっと、あるのですが。

 やっぱし、なんかを『抑圧』し『排除』することで世の中が『良くなる』なんていう考え方そのものには、どうしてもファッショな臭いを感じてしまうよなあ。

2002/12/16

*もしも、えろまんが規制推進派の方々が、本当に『有害情報をボクメツしたことで、環境が良くなりました』てな夢を持っておられるのだとしたら。
 それは、ものすごい自分勝手で都合の良い夢想であるなあ、と、思うわけです。

 どのくらい『都合の良い夢想』であるかというと。
 『暗がりを歩いていた女を押し倒した。女は濡れていた』とか。
 『エロコミックを規制した。公衆道徳が2上がった』とか。
 そのくらい、ポルノ小説やシミュレーションゲームと同じくらい、都合の良い夢想です。
 短絡的で、自分にとって良い結果しか見えていない、という点において、それらは全くに等しいと言えます。

 現実はそんなにアマくない、と、大抵の『良識派』の方は言うでしょう。
 『女を押し倒したら悲鳴を上げられ、通りかかった警官に取り押さえられた』りします。
 『公衆道徳が2上がった、犯罪発生率が5上がった、支持率が5下がった』りします。
 全く。現実は甘くない。

 禁欲的な生活、欲望を抑え込んだ生活が、どのくらい『危ない』のかは、世界中にそれこそありとあらゆる事例が存在しています。
 カソリックの神父さんたちが、どのくらい『懺悔を聞いた』かって話で、そっちの世界はいまやもちきりですよ。
 そりゃもう。協会が破産しそうな程『懺悔を聞いた』らしいですが。

*だからえろは正しい、とは、言いませんが。
 少なくとも『規制と抑圧』が正しいとは、全くに思えないと言うこと。
 むしろ『抑圧』の方が、大体において『失敗して』いるわけです。

 抑圧を選択するなら。
 そういう今までの『抑圧の結果』の事例を、知っておいてもよいはずだし、むしろ知らねばならない、でしょう。

*例えば児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律を強烈に支持し成立させようとしてる団体にエクパット東京(ECPAT/ストップ子ども買春の会)とか日本キリスト教婦人矯風会なんていう、基督教系の団体があったりするわけです。
 彼の方たちは、児童買春そっちのけでポルノコミックを規制しようと躍起になっているわけなんですが。
 そんな話ってのは、とっても滑稽に感じませんかね。
 先の、神父たちの性犯罪の話の後では。

 ちなみに、同じ"ECPAT"の名を冠していても、エクパットジャパン関西は、もっとまともな運動をしています。
 ECPATとは『アジア観光における子ども買春根絶国際キャンペーン(The International Campaign to End Child Prostitution in Asian Tourism)』から採られた言葉です。
 エクパットジャパン関西は、エクパット東京の『狂信的な』ポルノコミック規制への傾倒と、その結果の『実在する人間の保護』の観点の欠如に対して疑問を投げかけ、独自の対案を提示したりしています。
 そのおかげで、この二つの同じ名を持つ組織は、対立する全く別の組織とみなされてしまっていたりするのでした。

*児童保護。素晴らしい。
 児童を性的搾取から守ろう。もちろんですとも。
 ただ、そのために『他人の頭の中に手を突っ込む』ようなマネは、やめて欲しいもんであります。

2002/12/12

*まあ、あたしはえろが好きなワケです。であるので、そういう『えろまんがをボクメツしよう!』みたいな運動にはどうにも賛同しがたい、つうか『俺がえろまんがを読んだら何故遺憾っ!?』というもっと積極的な反対の気持ちがあるわけです。

 そういう事実を踏まえた上で、各種の『有害』なるものを規制しようという論を考えてみているわけなんですが。
 やっぱし、えろ擁護という意味だけではなく、様々な問題が、それらの『有害規制』の中にはあるのだなあと、思い知らされます。

鳥山仁/Rights Of Sex Fantasies
ROSF
AMI-Web
AMI-Web
Animation,Manga,Interactive Game NETWORK
「有害」規制監視隊
JSS:日本副次文化安全保障局
Japanese Subculture Security office
八的暁/エロ漫画より。愛を込めて。
エロ漫画より。愛を込めて。
松代守弘/グリーントライアングル
グリーントライアングル
一休/ジポネット

 ま、あたしが『規制反対派』なんで、規制反対派の方のweb頁ばっかりなんですが。

*で、根本的なトコのハナシとして。
 『猥褻』は『悪徳』なのか、ということ。
 で、猥褻ってのは大体にして『セックス』に結びついているので。
 セックスは『悪徳』なのか、ということ。

 なぜ、セックスは『悪徳』なのか。
 なぜ、それは『隠されなければならない』のか。
 なぜ、それは『語ることを憚られる』のか。

 例えば売買春や援助交際なんかの、性を『商品化』したセックスに関して、それは『悪徳』であり『罪』であるとしています。
 浮気や不倫等の『定まった相手以外』とのセックスも『悪徳』とされています。
 なぜ、悪徳なんでしょうか。
 夫婦間の、子孫を成すための性をのみ『善』とし、それ以外のセックスを『悪』とするならば、人間の生活、営み、人生とは単に『新たな労働力を生み出す生産工場』でしかない、ともいえるのではないでしょうか。

 まあ、だからと言って、買春賛成だの、フリーセックスだの、そんなことを言いたいわけではないのですよ。
 性は秘められるべきこと、猥褻は隠されねばならないこと、そういうことは、なぜそう『決められた』のかという、疑問なわけですね。

 各種の『有害規制』論ってのは、性や暴力について、その生息する範囲を狭め、追い詰め、どんどんと『隠して』いこうとする運動なわけです。
 では、なぜそれは『隠され』ねばならないのか。
 その理由を考えようと言う、そういう方向です。

*規制しようとする側の、本当の『規制したい理由』とか。
 規制することで、誰が、どんな得をするのか、とか。
 そういうことを考えるのも、大事だよなあ。

 『えっちなのはいけないと思いますっ!』
 では、なぜ『えっちなのはいけない』のか。
 なぜっていうことに、ちゃんとした答えは、どっかに落ちていませんか?

2002/12/11

*風邪でだう〜ん。
 治ってきたっぽい。

2002/12/08

12月 街は クリスマス気分
あちこちから 思い出したように ジョンの声
そして いつも 俺ときたら この頃になると
何かやり残したような
やわらかな後悔をする

『冬の街は』PSY・S

*国民は、国家に対して、ある程度の『自由』を差し出す代わりに『安全』を受け取っている。そのような『契約』を結んでいる。
 同時に、ここでいう『国家』というのは市民の共同体を指す言葉であって、国家と言う実体があるわけではないのです。
 国家とか、政府とか、そういう『実体』が在るかのように考え始めると、その実体は、本当に実体が在るかのように振る舞い、また実体が在るかのように誰の目にも映りだします。

 さて。
 私たちは、様々な『有害情報規制』という名目による『情報統制』を、受け入れようとしています。
 私たちは、この情報統制と言う『拘束』により、どのくらいの『利益』を得ることが出来るのでしょうか。

 例えば、私たちは『他人からものを盗む』自由を放棄することにより『他人から物を盗まれない安全』を手に入れました。

 私たちは『自分の子供に自由に教育を施す権利』を国家に差し出すことによって、何を得ようとしているのでしょうか。
 私たちの子供は『国家』が思う『あるべき国民』に育て上げられます。
 実体の無いはずの『国家』が、ここでは最早『実体があるかのように振舞うなにか』となっています。
 そこまで、私たちは自分の『自由』を放棄して、なにを得ようとしているのでしょうか。

 得られるものが大きいのであれば、その選択も考慮すべき事柄になるでしょう。
 しかし、大きいつづらの中にはガラクタが一杯、という結果も、大いに在り得るのではないでしょうか。

*つうか、あからさまに『ガラクタの詰まった大きいつづら』を掴まされようとしているんですがね。
 問題は、大抵の場合大きなつづらには『健全育成』だの『児童保護』だの『我々優良種により導かれねばならない』だの、見栄えのいいお題目が並んでいるってことで。

2002/12/06

*様々な『有害情報及び有害環境の排除』のための動きが、あります。
 児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
 青少年有害社会環境対策基本法案
 旧くは刑法 第22章 わいせつ、姦淫及び重婚の罪なんての。
 ポルノグラフおよび売買春に対して規制をかけ、また廃絶させようと言うポルノ・買春問題研究会なども、含めることが出来るでしょう。
 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律なんてものもあります。
 青少年健全育成ホームページなるものが内閣府の内に作られていたりします。

 で、さて、ここらへんで言う『有害』って、何にとって、誰にとって『有害』であるのか。
 為政者、有識者たちは、誰を『有害』から守ろうとしているのでしょうか。

 例えば、早期性教育について語るとき、なぜ『寝た子を起こすな』と言うのでしょうか。
 子供が寝ていて、誰が『得をする』のでしょうか。
 子供が起きて、誰が『困る』のでしょうか。

 なぜ、性は『悪徳』なんでしょうか。
 なぜ『子供に見せたくない』のでしょうか。

*上で並べ立てた『有害環境対策』とやらはほぼ全て、それが『有害であること』を自明のこととした上での『規制』を述べています。
 それが、なぜ『有害』であるのか、どのように『有害』であるのか、誰にとって『有害』であるのか。
 そういうことについては、曖昧なまま『では次に進みます』となっています。
 性非行、だの、援助交際、だの、少年犯罪の凶悪化、だの。
 判りやすい言葉が並んでいますが、それらが、どのように『有害環境』と結びついているのか、正しく理解できる情報は、ありません。

 『有害環境』を規制し排除した(しようとした)結果、逆に犯罪の凶悪化を招いてしまった事例は、世界中に枚挙暇が無いほどなんですが。

*まあ、上記『青環法』や『児ポ法』の類は、大抵が韓国やアメリカの基督教関係団体が強烈な後押しをして日本に成立させようとしてる運動だったりするし。
 ポルノグラフは性差別であり女性の権利を侵害しているとする『検閲派フェミニスト』運動だって米国からの輸入物だし。

 日本と言う国家は、すべからく『舶来もの』に弱いのだなあ。

 日本国に住まう『大人』たちが、子供から『アニメ』『コミック』『ゲーム』『暴力』『セックス』その他『有害』なものを取り上げ純粋培養することで、大人に従順で扱いやすい『大人にとって健全な子供』を育てられると勘違いしているくらいなら、まだ救いはあるのだけれど。
 結局それすら日本国外からの圧力で実施される運動であり、最後にはその『善良な市民(=大人)』まで、従順で扱いやすい『諸外国にとって健全な日本人』に仕立て上げられてしまいました、なんてオチは、日本人としてあまり嬉しくないものであります。

*自らの子供たちに『考えることのできる教育を』なんて言っている親自身が『考えること』を放棄していちゃ、世話ないやね。

2002/12/05

*今更、遅いですか?
 れみドッの、先週のお話、第43話『1級試験!玉木絶体絶命!!』です。
 いや、さっき、ビデオで見たんですが。
 その他の、色々や、あれこれは、全部わきに置いといて結構です。
『気弱な玉木さん萌えっ』とか『島倉さんは可哀想で可愛いすぎです』とか、そういう方面のあれやこれだって、わきに置いといて結構です。冬コミまで取って置きます。

 このお話世界の根本原理として、魔法は『ほんの少しの優しい心』という扱いだったはずだと、思います。
 だから、魔女(魔法使い)の世界と人間界とは交わってはならないはずです。
 特に、美空小学校の生徒たち、小学生たちの心の問題に関して、魔法で解決してはならないのではなかったのでしょうか。
 魔法を使うことはあるけれど、それは『問題の解決』に使うのではなく、一歩踏み出す心を後押しするだけの、『ほんの少しの優しい心』として、あるべきではなかったのでは。
 そういう意味で、玉木の『心』の問題を安易に魔女界の事件とリンクさせ、安易に魔法で解決させてしまったことに、非常な悲しみを覚えます。

 玉木麗香というキャラクターを、非常に『軽く』扱われてしまったような気がしてならないのですよ。
 彼女のキャラクターとして、今回の話のような『目標を見失う』こと、無気力に囚われてしまうこと、それってとってもありそうな話だと思う。
 でも、それをわざわざ『物語』として取り上げておきながら、魔女界のゴタゴタのついでに片付けてしまうのは、それは、玉木麗香と言うキャラクターに対して、あまりにも非道い扱いなんじゃないでしょうか。

 安易な解決方法としての『魔法』を否定し、魔法をあくまでも『ほんの少しの優しい心』の表現として描くことで、今までこの作品群は、素晴らしくも美しい世界を描き出していると言うのに。
 彼女は、玉木麗香は、その世界においては『必要ない』のでしょうか

 そんなことを、思ってしまいました。
 玉木麗香様が、可哀想で仕方が無いのですよ。

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