*電車の中での携帯電話はご遠慮ください、という、そういう話なんですが。
携帯電話の発する電磁波がペースメーカーなどの医療機器に誤動作を引き起こす恐れがあるってことなんですが、これって、本当なの?
現実、そんな実験結果ってのが、出ていないわけよ。
ペースメーカーに密着させて、ようやくちょっと影響が出たってくらいの結果しか、今のところ出ていない。
しかも、その程度の電磁波なんてのは、日常生活では山ほど出ている。
あなたの家には、電子レンジはありませんか?
電車の無線通信は、携帯電話なんかの比じゃないくらいの出力を持っていますが?
そもそも、電車を動かしているのは電気で、電気でモーターを回しているのですが、ここから漏れ出てくる周波数を持った電磁波も、その出力は相当なもんだと思うんですが。
大体、ペースメーカーを埋め込んだ人は、街には出ないの?
街中にはその程度の電磁波なんて、あふれ返っていますよ。
結論として、この『携帯電話の発する電波が医療機器に誤動作を引き起こす』っていう理由での『電車の中での携帯電話しようの制限』は、なんの意味も無い言葉だと考えます。
単に、携帯電話を使っている人が気に食わない、っていう人が、どうにかして携帯電話を排除しようとして、上手い具合に理由をつけてしまったがために、電車内での携帯電話使用を制限できてしまっただけ、というだけです。
そもそも、もっと『信頼できる』実験結果を出してくるべきなんじゃないの? その、医療機器メーカーは、さぁ。
*そして、実は問題はこれだけじゃない。
安易に『携帯電話の利用はご遠慮ください』なんていう放送を繰り返す、電気鉄道各社の罪が問題にされていない。
毎日毎日『携帯電話の電波がペースメーカーに影響がある』と聞かされつづけたペースメーカー利用者は、本当に『携帯電話の発する電磁波』がペースメーカーに影響を与えたわけでなくても、毎日の放送に洗脳されてしまって、携帯電話を見ただけで心臓が痛くなってしまうってもんです。
そういう、人を洗脳するかのような確たる実験結果も無い結論を無批判に流しつづけることによって、ペースメーカー利用者に対して大きな不安を与え、携帯電話利用者に対して大きな不利益を与えるというのは、とても大きな罪だと思うんですが。
*どうでしょう。
とりあえず、もっと理論的な『携帯電話の発する電磁波による影響』に対する説明を、携帯電話会社と、医療機器メイカーが出すべきだと思うんですが。
あたしは、ペースメーカー使用者が電車内での他人の携帯電話利用によって影響を受けてしまったってのは、そのほとんどが、電気鉄道各社の行った『洗脳』効果による影響なんじゃないかなあって、思うんですが。
そ〜いや、CD屋の入り口にある万引き防止の装置でペースメーカーが誤動作したっての、そういうニュースがあったけど。
電車内での携帯電話使用によるペースメーカーの誤動作っての、そんなニュースって聞きませんよ。ぜんぜん。
*どうなんでしょう。現実、ペースメーカ使用者の方は、携帯電話を使わないのかなあ。
*明日(1月31日)は打ち合わせで名古屋に出張です。
よくもまあこの短期間で図面が仕上がったものだと、我ながら感心してしまいます。
これで、正月休みを返上して働いた苦労も報われると言うものです。
いや正確には、正月休みを返上して働いたあたし以外の誰かの苦労が報われるわけなんですが(笑)
しかしナンだね。
正月も休めないような予定を立てるってのは、人として間違っていると思うんだがなあ。
そう思いませんかね、○゚ー○ー○梁さん?(あえて伏字)
*人間のクローンが誕生、とか。
いやまあ、主催団体の胡散臭さも満点具合で、真偽の程や如何に、ナンですが。
クローンと言う存在に対しての批判で『人間の尊厳』なんてな言葉を聞くわけです(産経新聞web/産経抄/2003/01/29)。
人間の尊厳。考えてみると、この尊厳とやらは『鯛焼きに対する料亭の味の尊厳』程度のもんではないかなあ。
人間は時計仕掛けのシステムから生産されるものではない、職人が手間隙かけて創造するものだ。そういう、ことだよね。
結局、尊厳なんて言っても、こんなもんじゃないかなあ、なんて思っちゃうわけです。
*パペットマペット。
真ん中とか覆面とかないです。
続きまして、オーバーアクション。
パペットマペット。
*世の中から全ての『悪徳』が排除される日が来得るか。
ありえない。
人が『全ての自由』を持って生まれ来る限り、あらゆる行為が起こり得る。
貴方が誰かを『殺そう』と考え、それを実行しようとするとき。
そこには、貴方を束縛する何物も存在しない。ただ、法による罰則や、社会的な制裁や、貴方個人の持つ道徳観念等が、その行動を『思いとどまらせる』だけである。
つまり、貴方には『人を殺す自由』があり、その自由を制限する『何か』が、どこかにあるというだけである。
そして、法による罰則や、禁止や、制限が、人を『完全に』拘束することはない。
殺人は罪であると法により規定されている。しかし殺人という犯罪は、今なお根絶されていない。これが、法が人を拘束するものではないと言う証左である。
*例えば禁酒法がある。米国政府が歴史に残る大きな過ちだと認めた失策である。
以前に考えて、結論めいたものが出ているのであるが。すなわち『人間は弱いものであるから誘惑を遠ざけておかなければならない』ということが事実であり、それゆえにポルノグラフや売買春は廃絶されるべきであると言う論点であるならば。
ポルノグラフは人を誘惑するものである、ということを認めているわけであるので、それは禁止されてもなお需要があると言える。
ここから先は、既に米国が実験を済ませている。
即ち、大失敗である。
*ポルノグラフや売買春が悪であり廃絶されねばならないとする。それが、世の良識派の男性と全ての女性の望みであるとする。
これは、ウソだ。
現実に、ポルノグラフを生産し、それに喜びを見出す女性が存在している。その実例はインターネット上でいくらでも発見できる。
『ちんかめ』なども実例としてあげてよいだろう。
彼女たちをして、例えば『男性至上主義社会が生み出した異端者であり被害者である』的な分析をして安心してしまうのであれば、それは真に『女性のための』運動などではありえない。メンタリティの違う集合を無視し排除する運動は、真に『民主的』な運動ではありえない。それは、己のメンタリティに適合する者のみを赦しそれ以外を排除する、一種のファシズムである。
*性暴力を考えたとき。
否定されねばならないのは、性ではなく、暴力である。
『性』を特別視することは、全ての性暴力被害者を特別視すると言うことであり、それは性暴力被害者を救済することにはなりえない。
『セックスは特殊なものだから守られなければならない。しかしあなたはその特殊なものを傷つけられてしまった。あなたは大事なものを失った可哀想な人だ。だから、私たちはあなたを保護し、擁護し、援護し、応援する』
この言葉は、どれほどの意味を持つのだろうか。
性暴力は、自分が望まない行為を強制されたということが重要なのだと考える。
財力により、権力により、暴力により、自分が望まない行為を強制されるということこそが、重要なのだと考える。
己の自由を、暴力でもって強制的に拘束されると言うこと。これこそが重要なのだと考える。
個人は、自分の『性』を行使する自由を有している。
その『性を行使する自由』を暴力により強制的に奪われることが、性暴力と言える。
であるならば、あらゆるポルノグラフを廃絶しようとする運動は、例えば上で述べた『ポルノグラフを生産する女性』の持つ『性を行使する自由』を、政治力により強制的に奪おうとする『性暴力』である、とすら言えるのではないだろうか。
*例えばわいせつ裁判:被害の女生徒が異例の意見陳述 地裁堺支部というニュースで最も注目しなければならないのは、彼女の事例が『異例』であるという事実であり、彼女が『「先生の人生をめちゃくちゃにした」と逆に友人に告訴を批判されたり、上級生に囲まれて「こいつセクハラされたやつや」と無神経な言葉を吐かれて傷ついた』ということであると考える。
そのような、女性が声をあげることが困難である社会を転換しようと言う運動や、性暴力被害者に対する好奇の目を批判する運動であるならば、その運動は正しく推進されねばならないし、全くに賛同するものであるが。
性を特別視し、隠匿し、抑圧する運動は、私には正しい方向性であるとは考えられない。
売買春を禁止し、ポルノグラフを規制する運動が、性暴力被害者が『声をあげる』ことを支援するのだろうか。性暴力者被害者に向けられる好奇の目が減少するのだろうか。
全く、結びつかないのではないだろうか。
性暴力は、決してなくならない。
世の中から全ての悪徳が排除される日は、全人類を完全に『洗脳』しない限り訪れない。強制的に『悪徳』を『排除』し『環境』を『浄化』する社会は、即ち『独裁者の収める社会』であり、恐怖政治に過ぎない。
であるならば、性暴力は決してなくならず、したがって性暴力被害者は決してなくならない。
悲観論ではない。楽観論である。世界は『人を洗脳し独裁者に従わせる』ような方向には決して進まないだろうと言う、楽観論である。
楽観論は嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。
だが、性暴力は根絶出来得ると言う『楽観論』には、賛同できない。
ましてや、単純な『規制』と『禁止』と『罰則』とで『悪徳』を根絶出来る等という言には、楽観論ですらない、『無邪気』とも言える強情さを感じる。
*成されねばならないのは、決してなくならないであろう性暴力を少しでも減少させることであり、被害の程度が小さなもののうちにそれ以上の被害の拡大を食い止める事であり、その被害者の全てを救済し加害者を罰することの出来る適切な方法を模索することだと考える。
ポルノグラフや売買春の規制は、そのためには適切であるかのように見える。
いかにも適切であるかのように聞こえる。
だが、本質は、恐らく違う。
単に『ポルノグラフ』や『売買春』が、その『規制したい人たち』すなわち『セックスヘイター』たちの目に映らなくなるだけである。
そして加害者たちは巧妙に隠れ、またはあからさまに大手を振るって歩き、人々は法を遵守すべき正当な理由を見失い、被害者はさらに深い闇に取り込まれ、救済の手は届かない、そういう世の中になるのではないかという、根拠のある推論が出来る。
根拠は、すでに述べた『禁酒法』という高貴な実験である。
被害者の数が少なくなること"だけ"が目的なのだろうか。
彼ら彼女らに被害者が"見えなく"なればそれで満足なのだろうか。
全ての被害者が正当に声をあげ、全ての被害者が『なんの特別視もされずに』以降の生活を送ることが出来ること。その方が健全なのではないだろうか。
*世の中から全ての『悪徳』が排除される日が来得るか。
ありえない。
ありえないのならば、その上での『より好ましい方向』を模索するほうが健全なのではないだろうか。
*全ての人間は罪を背負って生まれる。やがて神の国が訪れ世界は光に包まれる。
そんな感じの、基督教的な世界観に基づいた、ポルノグラフ規制論だったりなんだったりに聞こえるってわけよ。
胡散臭いこと夥しい。
無邪気すぎる観念にしか聞こえないのであった。
*貴乃花は結局引退ですかぁ…。
別に角力ファンなんてわけじゃあないんですがね。
貴乃花は、もっともっと、ぼろぼろになるまで、それこそ『土俵の上で息絶える』まで、闘って欲しかったなあ、なんて、そんなことを考えてみたり。
それってば、つまり。
ある種の破滅を望む志向と言えましょうか。
全身に矢を受け切り付けられながらも、なお立ち尽くしたまま絶命した漢(と書いて"おとこ"と読む)の死に様ってのは、どうも『漢らしい』魂を激しくゆさぶるようで。
そういう『漢らしい』を、闘う人に求めてしまうのでした。
現実の自分は、そんな『死ぬまで闘い、死してなお闘う』なんてことはせず、とっとと逃げ出してしまったわけなんですが。
だからこそ、他人にそんな自分の理想を投影してしまっているのかな、などと考えましたよ。
*例えばアメリカが危険な国家である北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を放置しているのは、やっぱり『北朝鮮を叩きのめしても利益が無いから』だというのが、どうも真実のようですなあ。
イラクは石油に直結するけど、北朝鮮にはなんの資源も無いから。
だもんで、貧乏国家の北朝鮮は、危険な国家で在りながらも『放置』されているってのが、現状。
ポリティクス・パワー・ゲームなんて、まあそんなもんでしょう。
日本は、イラクとか北朝鮮とかに対して、どんだけ『強い影響』を与えられるもんだかどうだかってのには、注目すべきでしょう。
どうも『屁の突っ張り』にもなっていないっぽいんですが。
*え〜と、なんだっけな。
あ、そうだ。
あけまして おめでとうございます。
地道にゆっくり毎日閲覧に来て頂いている皆様に、感謝を贈ります。
本年も、心を入れ替えることも無く、のんべんだらりと続くであろうサイトですが。
どうか、よろしくお願いいたします。
果てしなく遅いって。
松の内も終わってしまうと、最早『しょーがつ気分』も跡形も無く。
つか、仕事のギアは年始から唐突にもトップに入りっぱなしなんですが。
*小泉首相の靖国神社参拝。
ま、それがどんな意味があるんだか、知りませんが。
国内外から、えらい反発を受けておりますな。
故人を偲ぶって行動が即『軍国主義化』につながる、ていう批判は、硬直した思考だなあと思います。
あと、韓国等諸外国の批判は、ただの内政干渉です。
他人の国の歴史教科書にケチをつける態度から判るように、彼らは日本を『敗戦国で属国』としか見ていません。対等な国家だとは考えていないわけですな。
だもんで、属領が独自の軍事力を持ち自国の支配を離れるような事態を危惧しているということになるんですが。
日本は属国であると言う前提そのものが誤りなんで、彼らの危惧は的外れです。
まあ、国民感情ってのについては、理解できるんですがね。
死者に鞭打ち首をはね、鎖で縛った上で焼かないと満足できないような言には、げんなりしてしまうってもんです。
*旧正田邸取り壊し問題とか豊郷小校舎改築問題とか。
なんか、微妙な違和感を感じます。
旧いものを大事にし保存しようと言う考えは、まあいいとして。
なんだか、その邸宅を管理するべき人々とか、そこを利用する生徒とか、そういう人たちの言葉が見えないってのが、違和感なんだろうな。
何の責任も無く、単なる懐古趣味しか持たない烏合の衆が、なんとなくお祭りに参加しているだけという風に見えてしまうって言う、ね。
旧いものを残すということには精神的な余裕が必要ですが、同時に『経済的な余裕』も必要だったりします。そして、それは『残そうと望む人達』が率先して負担しなければならなかったりするものです。
はて、そういう『伝統感』は、間違っていますかね?
余裕のある人たちか、伝統に対して全てを捧げる決意のある人たちでなければ、真に伝統を残すことは出来ないと思うんですが。
*松井秀喜、ですか。
伝統のピンストライプを着たゴジラ、つーことですか。Godzilla arrives in the Big Apple
だもんなあ。
なんか、NYヤンキースと阪神タイガースとがダブって見えるのは、あたしが阪神ファンだから、かな?
伝統といい、栄光の縦ジマといい、ファン気質といい、なんだか似ているって思っちゃうんですが。
読売なんてぶっとばせっ!
ま、あたしは巨人ファンでは決してないのですが、でもジャイアンツには『強いジャイアンツ』でいてもらいたいと思う。悪の帝王って雰囲気で。
強大な敵に立ち向かう姿こそ美しいなんて思うあたしはきっと、『国破れて山河在り』に憧れるタイプの、まあ男子一般に認められる『破滅を望む』傾向があるんであろう、等と愚にもつかない自己分析をしてみたり。