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       隣 人 6




「来れたんか……」
「ああ? どういう意味だ」
「…………」
 本人が来ると言ったにも関わらず、私は火村が今夜この部屋に来ることはあるまいと思っていた。例えここまで来られたとしても、どうせ隣の部屋に帰ってしまうのだろうと。
 ちゃんと『火村』のままでいることもできるんだ…… と妙に感心してしまい、思わず不機嫌を煽るような言い方をしてしまった。今の彼には身に覚えのないことだろうが、私にだって言いたいことはあるのだ。
 なんや。ちゃんと来れるんやないか……
 火村の、親友と隣人の境目は一体どこにあるのだろう? 漠然と、ジキル博士とハイド氏のお話のように、昼と夜とで入れ換わってしまうのかなと思っていた。アフターファイブ二重人格。または、大阪に近づくにつれ忘れてしまうのかも、と。
 どちらにしても日が暮れてから私の部屋に来ることはないのだろうと思っていた。しかしそれが大丈夫となると、境目は本当に分からない。一体どこでスイッチが切り替わっているのだろう?

「で。どんなヤツだって?」
 定位置のソファにどかりと座り込み、キャメルに火を点けるのももどかしげに早々に訊いてくる。
「どんなって…… さっき言うたやんか」
 火村の視線が痛いが、なんとも説明のしようがない。私はそれから逃れるようにキッチンへ移動した。
「飲むやろ?」
「いや。飲んだら帰れなくなる」
「え。泊まっていかんの?」
「生憎と、明日は朝から会議なもんでね」
 じゃあ、と缶ビールの代わりにコーヒーを淹れる。コーヒーメーカーは隣に出張中なので、インスタントだ。
「わざわざそんなせんでも……」
「お前のせいだろうが」
 火村は 『なにもそんな日に来なくても』 という意味で受け取ったのだろうが、私が呟いてしまったのは、そんな意味ではなかった。
『 もうそろそろ遠距離通勤にも慣れた頃やろう? わざわざ京都まで帰らんでも。……俺んとこに泊まるんがイヤやったら、隣の部屋で寝たらええやん』
 当然のことながら、この火村に通じるわけはなかったが。
「なんで俺のせいやねん」
「お前が思わせぶりなこと言うからだろうが。俺に似てるとか、もう遅いとか放っとけないとか…… お前いったい、そいつに何してやってんだよ!」
「思わせぶりて……」
 そんなつもりはなかったのだが。
 不機嫌な火村。苛立った口調に、なんだかヤキモチを妬かれているみたいな、おかしな気分になった。
 心配、されてるんだよな。本当に嫉妬だったらいいのに。
「安心せえ。俺の1番の親友は君やから」
「バカかお前は」
「なんやつまらん。ヤキモチかと思ったのに。違うんか」
「……そうかもな」
 ひむら?
 こんな馬鹿正直な火村なんて初めてだ。珍しくて槍が降りそうだった。
 でも笑っちゃいけないと思った。気持ちは解る気がした。だって、もしも火村が私の知らないうちに親友なんて作ったとしたら――例え私が火村に惚れているという事実がなかったとしても――きっとすごいショックを受けるに違いないから。色恋沙汰とは別の、子供っぽい独占欲。
 それでもやっぱり、ちょっとは嬉しい。

「君に似とったから、ビックリしたんや」
「せやから気になって、ちょお探りに行った」
「友達おらんとか言うから……」
「ただ行って、コーヒー飲んで話してくるだけや」
「泊めたことも、泊まったこともないよ」
 
 嘘ではない。本当のことだ。
 ただ、ほぼ毎日通い詰めていることや、私の方が親しくなりたくて必死だということは、言わない方がいいような気がした。
 なんなのだろう。友人相手に、浮気を隠そうとしているような妙な気分になるのは。それも相手は当の本人なのだから、不毛だったらありゃしない。
 ただ、この場はそれが正解だと思った。
 親友と呼べる友人はお互いだけだった。10年以上、そんな付き合いをしてきた。そのバランスを崩そうというのだから、それなりに配慮してやるべきか、なんて思ってみたり。
 ――なんてな。
 解ってる。私は嫌なのだ。他のヤツに心を奪われているなんて、火村に誤解されることが。
 恋人ってワケでもないのに。ああ、なんて不毛なんだろう……
「で、今日は行かなくていいのかよ?」
「あー。今日は留守や」
「なんでわかる」
 なんでって……
「そう言うてたから。たまに戻らんときもあるみたいやで」
「ふーーーん。よくご存知で」




 ちっとも納得してくれた風ではなかったが、敵が留守ではしかたがないと、火村は1時間ほどで腰を上げた。この先、なんとか隣人の顔を見ようと急襲してくるつもりなのではないかと思うと、そのたびに空振りする彼を想像して笑えた。
「じゃあな。あんま心配させんなよ」
「心配? 動揺のマチガイと違うか」
 火村の動きが、一瞬止まったかに見えた。
 けど、動揺しているのは実は私の方だ。親友としての火村を目の前にして、さっきから安心したり不機嫌になったり、和んでみたり皮肉な気分になったり、落ちつく暇もなく心が揺れている。
 感情を押え込むのは平気だったはずなのに。平然と親友付き合いを続けるつもりだったのに。
 なんで今までどおりに普通にしていられないんだろう?
「またな。気ぃつけて帰れや」
 そして火村も、確かに動揺していたのだろう。人間、図星を指されると腹が立つものだ。
 帰り際にこちらを睨みつけた彼の目は、思わず硬直してしまうほどに鋭いものだった。
 



H13.7.9


1ヶ月に1度しか更新しない連載ってどうよ。ちっとも進みやしない。
すみません、精進します……