隣 人 7
火村とぎくしゃくしたまま別れたのは昨夜のこと。
はっきりと 『喧嘩した』 というわけではないのが、なんだか余計に気まずい。謝る、というのもなんだか変な気がして、日中はとうとう連絡を取らず終いだった。
これが普段だったら互いに意地を張り合って当分は会えなそうなものだが、でも今は違う。こっちの火村はそれを覚えていないので、私は好都合とばかりに何も気にせず、引き続き隣に押し掛けた。
うん。火村の方に、特に気詰まりな様子は感じられない。
私が行くと、だんだんと習慣になりつつあるとおりに、予め淹れてあったコーヒーを注いでくれた。いつものように別々の本を手にしながら、ぽつぽつと思い付いたように話をして。
沈黙が苦痛でない、ゆったりと穏やかな時間。こちらの火村とも、ようやくそんな時間が過ごせるまでに漕ぎつけた。
やったで。ザマアミロ。
何に対してなのかはよく判らないが、なんとなく勝利を噛みしめていたところに、火村の携帯が鳴った。
立ち上がり、壁に向かって受け答えする火村の背中が緊張している。
私と2人でいるときとは別人のように、ピンと張り詰めた空気。『ちょうどこちらに来ていますので』などと言っているのが聞こえたので、きっと大阪府警からだろうと見当をつけた。
「出掛ける。用事ができた」
「フィールドワークか?」
「ああ」
「そっか」
「―――」
なんだか不自然な間があった。
「なんや?」
「いや…… 有栖川さんはご一緒ですか、って訊かれたよ」
「あー。森下くんか? 最近ご無沙汰しとるからなー。よろしく言うといてくれ」
私がいかにも 『よく知っている』 風なのが意外だったのか、火村は少し驚いた顔を見せた。
「冗談かと思ってた。本当に現場に一緒に行ったりしてたのか……」
「せやからそう言うてるやん。俺は君の助手として認知されてるで」
「マジかよ……」
「ま、今日のところは君を混乱させたら悪いし、留守番しとくわ」
「留守番だぁ?」
「そ。せっかく淹れたコーヒー、もったいないやん。俺が飲んどいたる」
「……」
「そんなコワイ顔すんなや。君の分はちゃんと、帰ってきたら俺が淹れたるから。な?」
「……」
「行ってらっしゃい」
「……行ってくる」
「ん。気ィつけてな」
……火村のやつ。本当に俺を置いて出掛けよった。
盗まれて困るような物は、ここには何もないとお互いによく知っているとは言え、本当に私を留守番に残したまま出掛けるとは思わなかった。短期間でここまで火村の中に入り込めた私の努力を喜ぶべきなのか、十年来の親友でなくてもここまで入り込む余地があるのかと寂しく思うべきなのか、微妙なところだった。
さて。留守番してると言ったはいいが、これからどうしよう?
火村を送り出してから、こういうシチュエーションは初めてだと気付いた。火村からお呼びが掛かったときにはたいてい一緒に行っていたし、行けない場合は締め切り等で切羽詰っているときだったから、フィールドワークのあとに火村が寄ることもなかったから。遊びにくる火村を待つときと違い、なかなかにしんどそうなことだと解った。
自分から望んで行くくせに、その度に精神的に少なからずダメージを負って帰ってくる。
それが解っていて、あいつが戦っている間、何もしないでじっと待っているなんて、やっぱり私には向かないと思った。見届けたい。火村によって罪が暴かれる瞬間も、彼が傷つくときも。
消耗して帰ってくるであろう火村のために、私ができることはなんだろう?
咄嗟に 『お風呂? それともお食事?』 などというベタな新婚さんシチュエーションが浮かんでしまい、慌てて頭から追い払った。
「何考えとるんや、俺……」
そんなの、いくらなんでも寒くて哀し過ぎるだろう?
とは言うものの、料理に振るうには私の腕前はかなり頼りない。もう夕飯は済ませてきているはずだし。そうかと言って、明日のことを思えば深夜の酒盛りもいただけないし……
必然的に、私はバスルームへ足を向けた。
「…………」
最近は不自由しない程度に改善されていたので忘れていた。この部屋には物が極端に少ないこと。
風呂場を覗いたことはなかったが、初めて覗いたそこには、石鹸とシャンプー、タオルが1本置いてあるきり。
「掃除用具、ないやんか」
洗濯機がないせいで妙に広く感じられる脱衣所にも、もちろんそんなものは見当たらない。
「ちょっと待てやコラ」
アイツ…… 人には日常生活においての諸注意をなんだかんだとうるさく言っておきながら、自分はさてはシャワーだけで済ませとるなー?
「ちゃんと湯船に浸からな疲れがとれんて、俺には偉そうに言うてるくせに……」
私はぶつぶつと独り言を呟きながら、道具を取りに行くべく自分の部屋に向かう。
火村は頑なに物を増やそうとせず、未だにキッチンにもフライパンの1つもない。ここに越してきてからは、ずっと外食続き。今まできちんと自炊してきたのに。
忘れているのが私のことだけならば、今までの習慣までも変える必要はないと思うが、もしやその辺の記憶も入れ替わっているのだろうか? 今度訊いてみなくては。
フィールドワークの終わる時間なんて、まるで分からない。読みかけの本を読みながら待っていると、それでも日付けが変わる頃に火村は帰って来た。出て行った時間を思えば、スピード解決と言えるだろう。
「おかえり。お疲れさん」
「ああ、ただいま……」
「もう片付いたんか? さっすが火村やなー」
灰色の脳細胞くんご苦労さま。警察にも頼られてる優秀な君を、アルツハイマーかなんて疑って悪かった!
けれど当の火村は普段より顔色が悪く、なんだかとても疲れているように見えた。
……何かあったんかな? ああ、やっぱり一緒に行けばよかった。
「しんどそうやな。大丈夫か?」
「ああ。シャワー浴びてくる」
「あ、風呂入れといたから。ちゃんと湯船に浸かってこい」
「……」
「オマエ、いっつもシャワーだけで済ませとるんやろ?」
「……」
「俺にはうるさく言うくせに、自分はアカンやんか。めんどくさいんやったら、俺んとこに入りに来れば……」
「嫌だね」
間髪を入れない拒絶だった。遠慮、なんかじゃないのがわかった。即座に断る火村が悲しかった。
「なんで? 俺の部屋に入りたくない理由でもあるんか? 今まではあんなに……」
「……だからだよ」
視線を逸らした火村の口から、低い声が漏れた。小さく、絞り出したような。
「なに?」
「だからだ! お前はその親友とやらと、しょっちゅう行き来してたらしいけどな。俺にはそんな覚えはねえんだよ! それなのにノコノコ入っていって、自分の痕跡があったりしたら……」
――ああ。唯我独尊、私の話などハナから信じていないのかと思いきや、この火村も一応不安には感じていたのだろうか。自分の記憶について。私が語る、私の親友だという火村について。
「……怖いんか?」
「なんでだ。それは俺が聞きたい。なんで俺は覚えていないんだ。チクショウ……!」
「ひむら……」
火村はドカリとソファに座り込んで、両手に顔を埋めた。
こんなに打ちのめされたコイツの姿を見たのは、ほんの数えるほどしかない。私は俯いた火村の髪に、そっと手を伸ばした。振り払われるかと思ったが、私の指はその場に留まることを許された。
髪を梳く。
そっと。
友人にあるまじき想いが伝わってしまわないよう、細心の注意を払って。
「思い出したい?」
「……ああ」
「最初は、全然そんな気なかったやん」
「そりゃ。最初は俺の方が正常だと思ってたからな。けど、どうやらそっちのが正しいらしい……」
「………」
「お前、案外人気者じゃねえか。警部にも鮫山さんにも訊かれちまったよ」
事件よりも私のことをいろいろ言われたせいで、火村は参ってしまったようだった。自分の記憶だけが他人と食い違っているというのは、いったいどんな気がするんだろう? 私だったら耐えられるだろうか?
きっと火村は恐ろしさと不安を抱えてしまっていることだろう。でも、それでも。
―――よかった。
火村が萎れているのは、犯罪者が撒き散らす毒気にあてられたせいでも、関係者に心無いことを言われたせいでもないらしい。
それなら、よかった……
「君が思い出したいなら、いつか思い出すよ」
「大丈夫や。焦らんでも、きっとそのうち思い出す」
「俺んちにも、来たくなったときに来ればええよ」
「来たくないならそれはそれでええ。もう言わへん」
「疲れてるのに、かんにんな?」
髪に触れたままになっている指の陰から、火村が上目遣いで見上げていた。
目が合ったら、逸らせなくなった。
伝わるだろうか? 君を大切だと思っていること。触れた指先から、絡まる視線から。
私についての記憶があってもなくても。
余計な想いが伝わったらマズイと思ったけど、大切な友人だということは伝わって欲しい。
ムシがよすぎるかな? でも火村を安心させてやりたくて。
思い出してくれなくても、もういいや。
部屋に来てくれないのは寂しいけど、別にいい。
嫌われているせいでないなら、全然、構わない―――
H13.7.18
ああ。コメディのはずなのに……