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       隣 人 8



 自分の部屋に戻って真面目に執筆に励んでいると、携帯が鳴った。
 こんな夜更けにいったい誰だろう? 私の活動時間の範囲内ではあるのだけれど、世間一般的には非常識な時間。同じような生活パターンを持つ作家仲間の誰かだろうか?
「はいはーい、誰やーちょっと待ってやー。……はい、有栖川です」
『…………』
「?」
 相手は無言だった。間違い電話かなとも思ったが、そうでもないようだ。悪戯電話か?
「もしもーし?」
 こちらが男の声で名乗ったのだから、けしからん類のイタズラ電話だったら、切られてもよさそうなものだが。それとも私あての嫌がらせか?
 暫く待っても無言なので、こちらから切ってやろうかとも思った。が―――
「……ひむら?」
 どうしてそう思ったのか解らない。気がついたら呼び掛けていた。
『……アリスか?』
 だから本当に火村の声が聞こえてきたとき、すぐには信じられなかった。

「うわ、ホンマに火村か! なんや君、ビックリさせんな。この番号で俺以外の誰が出るっちゅーねん」
 隣の火村から電話が掛かってきたのは初めてだ。2時間ほど前に別れて、もうとっくに眠っている時間のはずなのに。
「こんな時間にどしたんや? さっき言い忘れたことでもあったか?」
『ああ……』
 火村はなかなか要領を得ない。明日も仕事に行かなきゃいけないはずなのに、こんな時間にあいつは何をやってるのだ?
 フィールドワークで疲れているはずなのに。今頃はぐっすりと夢の中にいなきゃ……
 夢? ぎくりと心臓が鳴った。
「火村?」
 ……まさか。もしかしたら、もしかしたら。
 火村は、私には知られたくないと思っているはずだ。悲鳴を上げて飛び起きる自分のこと。
 でも今のあいつはどうなんだろう?
 同じように感じるとは限らないかもしれない。誰かに側にいて欲しいのかもしれない。新しい親友 (ホントか?) の私を、弱さをさらけ出す相手に選んでくれたのかもしれない。
 まさかとは思うけど、もしかしたら。
「どした? 悪い夢でも見たんか?」
『…………』
 できるだけ軽いからかい口調で尋ねながら、私の心拍数はドキドキと上がってきた。今まで入り込んじゃいけないと思い込んでいた領域に、触れることになるかもしれない。
 応えない火村に、仮定は確信に変わる。
「行くから。すぐ行くから。鍵開けて待ってて。ええな!」
 書斎を飛び出し、玄関に直行しようとして思い直す。そして寝室を経由して、私は今度こそ玄関を飛び出した。





 そっとノックしてノブを回す。ドアは簡単に開いた。
「火村?」
 暗いリビングに入ると、ソファベッドにがっくりと座り込んでいるシルエットが見える。
 ついさっきも見た姿。たださっきは顔を埋めていた両手を、今は掌を上に向けた状態で、だらりと足の上に投げ出している。そのまま微動だにしない。水を飲んで手を洗って…… という、私が把握している一連の作業は、もう済ませたあとらしかった。
「ひむら……」
 もう1度呼び掛けると、肩をビクリと揺らしたのが判った。そっと近づいて髪に触れると、火村はそのまま私の方に身体を預けてくる。
 こ、これは、本当にあの火村だろうか?
 私の知っている火村だったら、絶対にしないであろう行動に混乱する。記憶だけじゃなくて、人格まですっかり別人になってしまったんだったらどうしよう?
 でも。
 嬉しかった。いつでも無理にでも自分の力だけで立っている火村が、私を頼ってくれたことが嬉しかった。
 これは火村の本意ではないだろうが、こんな姿を見せてくれて嬉しかった。

 訊いてみようか?
 何が君をそんなに追い詰めているのか。どんな過去が、君をいつまでも苦しめているのか。
 今なら教えてもらえるだろうか。この火村なら答えてくれるだろうか?
 私の身体に手では触れようとせず、でも額を押し付けてじっと私を感じているこの火村だったら―――



 でも、できなかった。やっぱりフェアじゃない気がして。あっちの火村が自分から話してくれる以外のことを、私は知っていちゃいけない。
「もう寝よ。明日仕事なんやろ?」
 そっと火村の身体を押しやり、横になるように促す。
「ホレ、詰めて詰めて」
 私はソファベッドの狭さをものともせず、持参したマイ枕を、隣にデンと並べた。
「今夜はここに泊めてな」
 そして火村が何も言えずにいるうちに、速攻で布団に潜り込む。うー、狭い。朝まで落ちねばよいが。
「おやすみー」
 火村は文句を言うわけでもなければ、私を抱き枕にすることもなかった。下手に身動ぎすると落ちるので、2人して気を付けの姿勢のまま。
 どうしてもぶつかってしまう手で探ると、火村が掌をコブシに握ったままなのが判った。
 開いてもいいのに。
 何に触っても、赤く汚す心配などないのに。
 私は彼の拳をこじ開け、自分の手をムリヤリに滑り込ませる。
 ―――大丈夫だから。君の手は汚れてなんかない―――
 振り払われないことに安心して、ぎゅっと握り締める。こんなにダメージを受けているのが解っていながら、いつも狸寝入りで突き放してしまっているお詫びも込めて。





 目が覚めたら火村はいなかった。そりゃそうだ、とっくに朝がきていた。
 こんなに狭いベッドなのに、火村が出ていく気配に気づかなかった自分に呆れ果てる。
 テーブルの上を見ると、鍵が1つ置いてあった。私の部屋のとよく似ているから、この部屋の鍵なのだろうと判った。これで戸締りしておけということなのだろうと思った。
 そう了解して玄関を出ようとして―――ドアには既に鍵が掛かっていることに気がついた。火村は自分用の鍵は持って出たんだ。
 合鍵。
 私の部屋のは火村も持っているはずの、合鍵。
 これ、私が持っていたらダメかなぁ? 毎日来てるんだから、私しか訪ねて来る人もいないみたいだから、これからは私が使っちゃダメかな? アリス用、とか書いたメモでも残ってたらよかったのに。
 今夜訊いてみよう。頼んでみよう。
 だって、欲しいんだ。いつでも訪ねてきてもいいって証に。


H13.7.28


アリス、ようやく火村を手懐けることに成功した模様。長かったなー(>_<)
いや、火村が見知らぬ他人に懐くにしては、異例の短時間なんだろうけれども……