隣 人 9
突然だが、風邪を引いた。
本当にコイツは突然やってきた。予兆も何もなかったのに……
自分の部屋に戻った途端に連続したくしゃみに襲われたので、てっきりホコリが溜まっているせいかと思った。慌てて掃除を始め布団も干してみたが、その間にもくしゃみは頻発し、水っパナが止まらなくなってきた。
誰にとっても花粉症は唐突だというし、とうとう私のところにもやって来たのかっ???
戦々恐々としながら机に向かってみたが、ぼーっとして全然集中できない。特に頭を使わなくても書ける部分のはずなのに、1時間でようやく6行。
そのうちに節々が痛くなってきて、そういえば運動不足やなぁ、と軽くストレッチをし、ついでにラジオ体操の真似事でも…… と思ったら目が回った。
「うーーー」
『さっき掃除しといて正解やったー』 と、自分の先見の明を褒め称えつつ、書斎の床に突っ伏した。なんとかゴロンと仰向けになってみたものの、そこからはもう動けなかった―――
寝苦しさと身体の痛みで目が覚めた。やたらと寒く、起き上がろうとすると再び世界が回った。
「くー」
回転が治まるのを待って、床に逆戻りした頭をもう1度そろそろと起こす。
「体温計……」
幽霊のような覚束ない動作で立ち上がり、敗残兵のようによろよろとリビングを目指す。
目的のものは確かに救急箱の中で発見された。がしかし、最近とんとご無沙汰していたそれは、無情にも電池が切れていた。
「…………」
熱がある (たぶん) にも関わらず、私の頭はもう1つ重要事項を思い出した。誉めてやってもいいだろう。
『食い物が無い』
こういう非常事態に備えて、私はレトルトのお粥を常備している。
普段は。
しかし賞味期限が近づいてきたので前回の締め切り前の食料にしてしまい、それ以降補充をした覚えがあるような、ないような……
しょうがない。今はとても食えそうもないけど、どうしようもなく腹が減ったらカップ麺でもいいから食べたいと思うかもしれない。それならある。
でも水分は摂らなアカンけど、大丈夫だペットボトルならこのあいだちゃんと買っておいた偉いやんか俺。たしかお茶とポカリとあったようなどっちがええかなせや野菜ジュースもあるんやトマトジュースは嫌やけど野菜のはヘイキなんや身体によさそうやし。おおこれやこれでいっぱい水分とって薬飲んで眠って汗かいていやアカン薬は腹になんか入れてからでないとまぁええかくすりはあとからでも……
ベッドまでとおくてそういや掛け布団を干してたんやったとベランダで回収してそのままソファへ。けど寝心地がわるくて転がったらゆかにオチてあー目がまわるふとんもあるしもういいやここで。
寒い。さむくてふとんにぐるぐる巻きのみのむしになる。おれは簀巻きのドザエモンかイヤやなそれどーせならのり巻きのかんぴょうの方がうまそうで好きや。
寒い。早うねむってあせかいて、夜までにはなおってるといいけどな―――
治っているどころではなかった。
目を開けるとソファとテーブルの隙間から薄暗くなった天井が見えた。幸い意識ははっきりしているが、この息の熱さとしんどさからいって近年稀に見る高熱だ。測ってないけど、たぶん。
我ながら呆然として、取り合えず傍に転がっていたペットボトルを手に取り、野菜ジュースを一口飲んだ。大仕事だった。口の中がサッパリしなくてお茶にすればよかったと思ったが、今日口にした唯一の栄養源だと思えばこっちでよかったのかもしれない。
「今夜は行かれへんなぁ……」
はっきり言ってへろへろだった。寝室までも遠いと感じる今の私に、701号室は遠過ぎた。これ以上なく近いと思っていたのに。
それより今は自分の体調だ。何か腹に入れて、薬を飲んで、ベッドで眠らなければと頭では判っているのだが、そんなにたくさんの仕事はできそうにない。身体が要求する優先順位を考え、ベッドを選ぶ。暖かくしてこの熱を汗として流してしまわなくては、いやそのためには薬を、いや薬を飲むためには食べ物を―――
ああ、昼間の繰り返しだ。それができないからこそこんなところで転がっていたのに……
火村。
ぽっかりと火村の顔が頭に浮かんだ。
こんなとき、私から彼にSOSを出したことはなかったが、電話でのささいな一言や口調でそれと察して、買い込んだどっさりの食材と共にレスキューに来てくれることが度々あった。それこそ私の目には、白馬の王子様兼白衣の天使のように――決して白ジャケのせいではなく――見えたものだ。
でも今回はさすがに無理やな。
火村が期待できないとなると、もうこれは実家に頼るしかないか?
いや、アカン。もし万一、母親と隣の火村が鉢合わせでもしたらどうする。あのオカンのことだ、隣に火村がいることがバレたら、いったいどうなってるのか根掘り葉掘り訊いてくるに決まっている。このヘロヘロの状態で、あれこれ追及されるのは耐えられない。私にだって訳が解らないのに! かと言って、火村の方に質問の矛先を向けさせる訳にはいかない。何かは判らないけど、何かがあったに違いないのだから。今の火村に、不躾にズカズカと踏み込んで行くことは私が許さない。
これは私と火村だけの問題なのだから。誰も入ってこないで……!
今アイツは、隣の部屋にいるはずだ。私の部屋には来てくれたことのない火村だ。
電話で助けを呼んだら、来てくれるだろうか?
昼間のうちに電話していたら、普段の火村のままで来てくれていただろうか。今電話したら、なったばかりの友人として、来てくれるだろうか。
もう、ただの顔見知りの隣人じゃないよな? もう友達になったって、言うてもいいよな?
君に友人とすら思われてないなんて、そんなん、イヤや。イヤ……
我慢できなくて、テーブルの上に置いたはずの――手が届くところでよかった――携帯に、なんとか手を伸ばす。
火村の携帯は、短縮番号の3番。
でも…… すぐに切った。
迷惑を掛けたくないから。ただでさえ遠距離通勤で疲れているのだから。風邪がうつったら大変だから。
―――この部屋には、来て、くれない、から……
そんなこと、思い知らされたくない、から。
会いたい。火村にあいたい…… 火村。ひむら、ひむ、ら……
「……ら、ぁ?」
「寝てろ。いいから」
ひむら? どっちの? ゆめ?
目を開けると火村がいて。
私はベッドに寝かされていて。
とろとろのおかゆさんと、水と、薬。
それから、冷たいタオル。
今の私に、1番必要なもの。
今の私が、1番欲しかったもの。
なんて一石二鳥な男なんやろ……
なぁ、なんで来てくれたん?
ここには来たくないって言うてたやん。
俺からの電話やって、わかった? だから?
けど隣の火村は、自分がこの部屋の鍵を持ってるって、知らないはずやし。
どうやって来てくれたの? ねぇ……
目が覚めると私はベッドで寝ていて、でもそれだけだった。
額のタオルがなかった。食器もコップも定位置にあり、薬を飲んだ後のゴミもない。
「―――?」
私は自分でベッドに入ったんだったろうか。
火村が来てくれたと思ったのは、夢だったのだろうか。額を冷やしてくれたのは。
私をこの上なく安心させてくれた力強い眼差しも、髪を撫でてくれた優しい手も?
そろそろと起き上がる。熱はまだあるみたいだったが、起き上がれなかった昨日に比べたら断然マシだ。
自力でトイレへ行き、キッチンで水を飲んだ。
ラッキーなことに、無いと思っていたレトルトの卵がゆを1つ発見した。
「その前に、着替えな……」
じっとりと湿った服は、昨日の昼間のままで。
「―――」
本当に火村が来ていたのなら、着替えくらいはしていてもよさそうなものだった。見掛けによらず案外世話焼きなあの男は、それくらいのことは無理矢理にでもさせてくれるはずなのだ。
私はのろのろと着替えを済ませると、粥を腹に入れ、薬を飲んだ。
「やっぱ夢、かぁ……」
嬉しかったのに。
来てくれたと思ったのに。
私は熱の篭もったままのベッドに戻り、すぐさま目を閉じる。
不貞寝じゃないぞ。具合が悪いから寝るんだ。
習性で、未読の同業者の本を1冊持って来たが、開く気にもなれなかった。それだって熱のせいだ。
断じて火村のせいなんかじゃ、ない……
H13.9.2
記憶喪失 (違うんだけど)、というお約束ネタのついでに、これもやってしまえと定番その2。
風邪ネタです。いや今まで書いたことなかったような気がして。
ウチの2人、意外と丈夫やな……