隣 人 10
電話が鳴っている。
熱でぼーっとした頭で留守電に切り替わった機械の音声を聞いていると、
『居留守じゃねぇのか?』 火村の声がした。
失敬な。意味を把握した頭は不快感を示したが、身体の方は、耳が火村の声を捉えた途端に起き上がっていた。なおも何か話し続けている電話に向かって、フラフラしながらできる限りのダッシュ。
「もしもしぃ!」
途中どっかに足をぶつけたりしたが、なんとか時間切れまでに電話までたどり着いた。
『お。やっぱり居やがったな。ちゃんと出ろよ』
「せやかて、今まで寝とったんや」
『いくら朝まで書いてたって、もう起きてもいいんじゃねぇのか? 2時過ぎだぜ』
「うん。今起きた」
耳ざわりのいい声を、うんうんと頷きながら聴いていると、不意に火村の声が途切れた。
「ひむら?」
『おまえ……』
「?」
『なんか変だな。具合でも悪いのか?』
「……なんで?」
声は別になんともないと思うのに、火村にはどうして判ってしまうのだろう? やっぱり名探偵だから?
『否定しないな。風邪か?』
「んー、それがわからんのやー。熱だけある」
薬のおかげか汗をびっしょりかいて一時は下がったかと思ったのだが、またなんだか怪しくなっている。
『何度?』
「……さぁ? 体温計、電池切れやねん」
『―――』
チッという舌打ちが聞こえた。きっと呆れられてる。
『解った。持ってってやる。あと必要なものは?』
「……食いもん」
ああ、怒られる…… と思いながらも背に腹は代えられず白状する。
聞こえたのは今度はため息。絶対に呆れられてる。
『他には? 医者には行ったのか?』
「いや。けど薬は飲んだから」
『ちゃんと寝てろよ。本なんか読んでんじゃねぇぞ』
「ん。わかった」
『素直じゃねぇか。……そんなに重症なのか?』
「どーいう意味や!」
最後はアホな応酬で電話は終わった。でもまぁ、図星なのだけれど。さすがは名探偵、侮れない。
目が覚めた。ってことは、今まで眠ってたってことだよな。
人間、具合の悪い時には眠るようにできているものらしいと、改めて実感する。昨日からほぼ丸一日寝ていたはずなのに、またいつの間にか眠っていたらしい。
目を開けると火村がいて。つい最近、見たような気がする光景。
「……きてたんか」
「来てたんかじゃねえよ、バカ。いったい何度あるんだよ」
額に乗せられた掌が気持ちいい。
うっとりと目を閉じようとすると、ぬっと体温計を差し出された。昔ながらの水銀体温計。おとなしく受け取ると、その手は額から髪を梳くように流された。
昨夜も、この手が髪を梳いてくれていたような気がするのに。優しく、何度も。
あれは夢だったのだろうか。本当に?
ああ、また熱が上がってきている気がする。だって、ちょうどこんな感じだった。
おとなしく潜っているのは却って身体に悪いんじゃなかろうか、というくらい布団に篭った熱と、口から吐き出される熱い息。暑くて暑くて、だからひんやりと額に乗せられた掌がとても気持ちよかった。とても安心できた。
こんなにはっきりと覚えているのに。
「なぁ、ひむら……」
「ん?」
「あんな、きのう、うちに来た?」
「なんだ。夢でも見てたのか?」
―――やっぱり夢かぁ。せやったらあれは、今日の予知夢やったんかな?
「で、何度だった?」
「――――」
39.8℃。
マジか?
我ながら恐ろしい数字で、口に出すのがためらわれる。
「おい」
「た、たいしたことない、かな……」
「貸してみろ」
「あ」
「――――」
私は問答無用で近所の町医者に連れて行かれた。
頼んで買ってきてもらったレトルトのお粥は棚にしまい込まれ、今夜は、柔らかく煮込んだ具だくさんのスープが夕食だ。リクエストの内容に哀れをもよおした火村が作ってくれたのだ。有難や。
幸いなことに、胃腸もやられてないし鼻も詰まっていないので、食欲がないと思っていた割にはたいへんおいしく頂くことができた。その症状を、いかにも食い意地が張っている私らしいと一頻り笑ったあと、火村はお決まりのセリフを口にする。
「お前なぁ。ちゃんと食わねえからぶっ倒れたりするんだぞ」
「うー」
ごもっとも。
昨日からまともな物を食べていなかったので、一口食べるごとに胃袋からじわじわと、栄養が身体に染み込んでいく気がした。
「ふー。お前が関西人でさえなきゃ、納豆でも食わせとくんだけどな」
「冗談やない。誰が食うか」
あんな恐ろしいモノ。
「消化がよくて栄養もあるし、なんたってそのまんま食えるし。お前みたいなものぐさにはぴったりじゃねぇか」
「あ、あんなもん食ったら、ますます具合悪くなるやんかー!」
「じゃあ普段からちゃんと食え」
口では火村に勝てない。だが納豆を強制されそうになったら、断固として戦うが。
素晴らしきかな抗生物質。
医者の処方箋による薬を飲んで一眠りすると、あれほど下がらなかった熱が、笑っちゃうくらい簡単に引いた。巷で流行りはじめているインフルエンザだったらしく、市販の風邪薬では太刀打ちできなかったらしい。
なんで大学なんて人込みにいる火村がなんともなくて、部屋に1人でいる私が罹るのだ。理不尽だ。
熱が下がると、現金なものでもう一睡もできそうになかった。
火村は念のため昼過ぎまでいてくれたが、私があまりにも元気そうになったため、早めに帰ると言い出した。実際すっかり平熱に戻っていたし、昨夜看病してくれた分、火村には今夜はゆっくり休んで欲しい。
「火村、ありがとな。助かった」
命の恩人やー。と大袈裟に感謝すると、呆れたような苦笑とともに頭を小突かれた。
「次回からはまず医者に行けよ」
「そうするわ」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして、玄関まで火村を見送りに出る。
あとはバイバイと手を振るだけ、という時になって、火村がそれに気づいた。
「なんだ、この鍵?」
「あ、それは……」
下駄箱の上に置いてあった701号室の鍵。
くれと頼もうかと思ってみたりしたが、その前に寝込んでしまって、返しそびれて置きっぱなしになっていた鍵。
うちのとよく似ているから、誤魔化されてはくれないか―――ダメか。
「……ずいぶん仲良くなったみたいじゃねえか」
「それはっ」
やっぱりダメか。そうだよな。キーホルダーのついた我が家の鍵が一緒に置いてあっては。
「ふーん。やっぱり隣の鍵なんだな?」
「…………」
くっそー。カマ掛けよったな。
視線が、冷たい。
「……気になる?」
隣人を気に掛ける私を、君は気にするだろうか?
「別に。アリスにいつ恋人ができようと、どんな親友を作ろうと、お前の勝手だしな」
―――拗ねている。
そういう風に受け取ってはいけないだろうか?
必要以上に不機嫌に見えるのは、自分の他に親しい者を作った私へのやきもちだと。
そう思わせといてくれるかな? そうとでも思わなければ、泣きそうだった。
こんな冷たい口調が火村の本心だとしたら、そんなの、イヤだ……
「じゃあな」
私が口を開けないでいるうちに、火村はスルリとドアを開けて出て行った。
「君んとこのやで……」
ぽつりと呟いてみたが、その言葉を火村に届けられるはずもなかった。
H13.9.18
10話以内で終わるはずだったのに…… 相変わらず山もオチもHも(笑)ない話が続いてます。
書いてる私ももどかしいですが、それより読んでくださってる皆様の方が焦れったいかと。
すみません。もう少しお付き合いください。