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        隣 人 11



 ちゃんと説明したほうがよかったかな?
 701号室の鍵を手に、私は考えていた。
 別に貰ったわけではないのだと。返さなくちゃいけないものなのだと。
 隣に泊まって、相手が出かけるときもまだ夢の中だったので、しかたなく合鍵を置いて出掛けたんだろう、と……?
 ―――却って墓穴を掘っていたかもしれない。うん。言わなくて正解だったのだ。

 けど、誤解されたかなぁ……
 自分は火村にとっての1番でいたいと願い続けながら、火村には私にとっての1番の地位が危ないと思わせてしまったかもしれない。私だったらショックだけど、あいつはどう感じただろう?
 自分が火村に合鍵を渡しているから、だから私も火村の鍵が欲しかったのだけれど。
 火村のだから欲しかったけど、本来の火村にとって701の火村は別人だ。私も別人として認識していなきゃいけなかったのかもしれない。あんなに懐いていかないで、会えば挨拶する程度の、ただの隣人のままでいた方が……?
 ―――だめだ。私から押しかけなきゃ、そもそも会うチャンスすらないではないか。
 そんなのイヤだ。ワガママだって解ってるけど。
 だって隣にいるのは火村なのに。せっかくこんなに近くにいるのに!

 返そう。
 私が頼んでこれをもらったところで、あいつとの距離が縮まるわけじゃない。どうなるわけでもないのだ。
 もしも私が頼むことで隣の火村ともう少し近づけたとしても、そのせいで本来の火村にあんな醒めた目で見られることになるなら本末転倒だ。そんなことになるくらいなら、鍵なんかいらない。
 私は、火村が、好き。
 ずーっと親友でいる間に、私の奥深くにいつの間にか根を張り巡らせた。少しずつ、長い時間をかけて。
 その火村が、好き。
 時間の長さが想いの深さに比例するわけではない。それは解ってるけど。
 一緒に過ごした時間。
 火村と過ごした時間の全てが私にとっては大切で、それを共有してきた火村を、私は大切に想っているから。
 隣の火村には、もう、これ以上深入りしない―――






「火村、これ……」
 701号室の合鍵。4日前、火村が出掛けるときに置いていった鍵。
「あれからカゼで寝込んでもうて、返しそびれてた。ゴメンな」
 私がテーブルに置いた鍵を、火村は黙って見つめていた。

 快気祝と称して、私は手土産に釣鐘饅頭を持参した。この火村は覚えてはいないはずだが、看病の感謝の気持ちも込めて。もちろん彼が好きだと言った、こしあんのヤツを。
 風邪を引く前と同じ時間。
 彼はいつもと同じようにコーヒーを淹れてくれて、私も同じように饅頭を肴に寛ぐ。はずだったのだが……
 上手く行かない。
 昼間、もうこの火村には深入りしないと決めた。そうかと言って、今まで毎晩来ていたものを突然止めることもできず、私はここへやって来た。
  『鍵を返す』 そして 『明日から暫くは来れない。と宣言する』 という大仕事のため。
 一大決心してきたにも関わらず、私はなんと切り出したものかと迷っていた。
 口実は、締め切り。作家が錦の御旗として掲げるのに、これ以上自然かつ優先されるべきものはない。実際は、火村が来た最初のうちこそ混乱したものの、毎晩好きなだけ火村を補充できるようになって、いつになく調子よく筆が進んでいるのだったが。
 そこまで決めていたのに、なかなか切り出せずに愚図愚図していると、部屋の中に嫌な沈黙が落ちた。今までは、会話がなくても穏やかな空気のままでいられたのに。



「持っててもらおうかと思ったんだけどな」
 沈黙を破ったのは、火村の方だった。
「え…」
 火村の視線の先にあるのは―――この部屋の鍵。
「嫌か?」
「…………」
 火村の帰りを確認してから来るのだから、実際には必要のない鍵。それは火村にも解っていることだ。
 留守中にこの部屋に入り込むのを許してくれるくらい、私を信頼してくれたってこと?
 私を特別だと、認めてくれたってこと?
 私に、ここにいて欲しいということ……?
 心臓が、勝手にドキドキと踊りはじめた。せっかく固めた決心がぐらつく。だって目の前にいるのは、記憶はともかく火村本人なのだから。
 ここで私がいらないと言ったら、この火村はどう感じるのだろう?
 せっかくここまで私を受け入れてくれたのに、また最初のような目に戻ってしまうのだろうか。昨日の火村が最後に私に向けたような、何の関心もない相手に向けるような、あの視線に。
 ダメだ。
 私が欲しいとかいらないとか言う以前に、火村をそんなことにさせちゃダメだ。私の方からここまで入り込んでおきながら、今更突き放しちゃダメだ。昨日の火村に感じた以上に、この火村にあんな顔をさせるのはやっちゃいけないことのような気がした。
 701号室だけの火村。
 本来の火村が私に見せまいとしていたはずの弱い部分を、隠すことなく見せてくれた。
 別に同情したわけじゃない。怖くなったのだ。今この手を掴まなかったら、この火村とは二度とこの距離に戻れなくなってしまう。
 だけど……


「君は…? 俺んとこの鍵、欲しい?」
 火村は私の部屋の鍵を持っているはずだけれど、一応訊いてみる。
 答えは解ってるけど―――
「……いや」
 案の定、火村はそう答えた。
 この火村は、まだ1度も私の部屋に入ったことがない。その理由は前に聞いた。覚えてもいないのに、私の部屋に残したもう1人の自分の痕跡を見たくないのだと。
 火村が既に持っている、目に付くところにあるはずの、私の部屋の鍵。
 この火村は、それをいったいなんだと思っているのだろう―――?
「……ずるいやん」
 自分は目を背けることを選んでおいて、私には向かい合うことを選ばせるなんて。そりゃ、強制されているわけではないけれど。意向を訊いてくれてはいるけれど。

「ああ、ずるいさ……」
「ん?」
「だがな、ここにはお前が逃げたくなるようなものなんて、ないだろ?」
 確かに。ここに私を脅かすものは何もない。―――火村の他には。
 一緒にいるのは心地良いけれど、でも真剣に向き会ったりしちゃいけない。そうする相手は、本来の火村とでなければ。
「俺は逃げたい。お前の親友だっていう、自分の痕跡からだけじゃない。お前の両親とか、他の友人とか、恋人とか。そんなものの残した痕も、俺は見たくない」
「こ、恋人なんか……」
 いつの間にか目の前いっぱいに火村の顔があった。フィールドワークの現場で見せるような、鋭い視線。

 ヘビに睨まれたカエル状態で、私はようやく自分の過ちに気づいた。けど遅すぎた。どうしよう。私のわがままのせいで、とんでもないことをしてしまった。
「思い出したかったが、それはもういい。今の俺が知ってるお前だけで充分だ」
「ひむら?」
「俺はお前がいい」
「火村!」
 ダメだ。それ以上言うな。
 私が間違ってた。この火村とは、こんなに親しくなるべきではなかった。
「俺を選べ、アリス」



 私は今日、距離を置くために来たのに。
 この火村に、こんなこと言わせちゃ、いけなかったのに―――



H13.9.30


アリスに懐いた途端にこれかい(爆)
別人火村。いや、別人格だからいいと言えばいいんですけどー。恥ずかしいヤツめ。