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        隣 人 12





「俺を選べ、アリス」
 火村が、私に、言った。

 私は―――
 首を、横に、振った。
 ちゃんと振れていたかどうかは、よく、判らない……





 夢を見ているようだった。
 欲しくてたまらなかった光景にちょっと似ていたけど、これは、悪夢だった。
「ダメか?」
「…………」
 これは違う。こんなのは違う。火村はこんなこと言わない。言ってくれない。
「誰か他に好きなヤツがいるのか?」
 好きなヤツ? 
「―――おるよ」
 もうずっと前から。
「恋人か?」
「……ちゃう」
 私が、私が好きなのは……
「片想いか」
 悪いか。失いたくないんや。
「そんなヤツ、止めちまえ」
 痛いくらいの乱暴さで顎を取られた。

 乱暴だったくせに―――
 柔らかく押し付けられるだけのそれは、泣きたいくらいに、温かかった。
 




 キス、された。火村に、キス……
 たぶん顔は真っ赤になっていることだろう。
「なぜ、逃げない?」
 だってここにいるのは火村だ。でも私の好きな火村とは違う。
 身体と私以外についての記憶をを共有しているだけの、別人なのかもしれない。
 私はどうすればいいのだろう……?

 どうしてこの火村が私にキスなんてするんだ。好きだから? まさか。
 だってこの火村は私のことを何も知らないはずなのに。私のどこを好きになったと言うんだ。
 本当の、10年以上付き合ってきた火村なら、私のいい所も悪い所も全部知ってるはずだけれど、この火村はいったい、私のどこを見てそう言ってくれるの?
 10年以上一緒にいても好きになんてなってもらえないのに。たかだか会って1ヶ月足らずで、いったい何を言っているのだろう。



 もしも、ずっとこのままだったら……?
 これが記憶喪失だったら、記憶がなくても私は火村が好きだと言って、受け入れてしまってもいいように思う。けど、これは記憶喪失とは違う。ちゃんと私の部屋に来てくれる、いつもの火村もいる。
 もしもこの火村とそういう関係になったら、これは浮気なのだろうか。
 いや、火村とはただの友達だから浮気も何もないのだけれど、でも私は、今までの記憶のある火村が好きだ。
 こいつも火村だけれども、こちらの彼も大切だけれども、ずっと親友だった火村を私は好きだ。どっちの火村も本当でも、この火村に応える訳には行かない。
 ちゃんと記憶のある火村もいるんだから。
 この火村とは別で。
 いや、同じか?
 ああもう、なにがなんだか……




   混乱する。
   視線が、突き刺さってくるから。
   痛くて。
   ちゃんと、考えることができない。
   息ができなくて。
   もう、何も考えられない―――







「帰る」
 怖い。
 どうしたらいいのかわからない。
「逃げるのか?」
「なんで逃げなアカンねん。帰るんや」
 視線に貫かれそうだ。見透かされる。隠しておきたいのに。
 逃げなくちゃ。早く。
「返事は?」
「言うたやろ? 好きなヤツがおるて」
 火村に会いたい。声が聞きたい。もう1人の火村に会いたい。
「……俺の他に?」
「……っ」
 否定しなければ。
 でも、火村なのに。ここにいるのは火村なのに!
「俺はお前が好きだ。お前は?」



 ―――ああ。
 ずっと欲しかった言葉。
 せっかく火村が言ってくれたのに。ようやく言ってもらえたのに。
 それを否定しなければならないなんて……!

 ゴメン。俺は君を否定する。
 けど失恋するんは、君だけじゃないから。
 火村を否定する。それがたまらなく苦しくて息が詰まる。
 これってやっぱり、浮気かな?
 君のことも、私は失いたくなかった。どっちの火村も、とても大切だった。
 私が欲張りすぎたから。これは、その罰なのだろうか。




「俺が好きなんは…… 10年以上、ずっと親友やったヤツや! それを知らんなんて。友人らしい友人はおらんなんて言う薄情なヤツは、違うんや!!」



 一生、告げるつもりはなかったのに―――
 



H13.11.4


大混乱中。