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まさ様
ご協力ありがとうございます。 えっと、私が見たのは「ビジュアル源氏物語」と言う雑誌です。NO,21に下屋についての説明があって、そこに”使用人は…”という表現で書かれていて、その中には”女房”も含まれているものと私は受け取ったのですが……違うのでしょうか? それでいろいろと疑問がでてきた訳なのです…。
その辺、詳しく記してある本がなかなか無いので、困っています。見つからないというか……。
難しいですね…(汗) ほんと、どんな事でもいいので教えてください。宜しくお願いしますっ!
ゴロ様
まさです。今回はお風呂ですか?
>今回はとても素朴なしつもんです。
う〜ん、素朴な質問ほど難しいような気が・・・
で、ちょっと調べてみようと思うのですが、そこで気になるのが、
「ある平安資料本」というものです。差し支えなければ何という
本なのか教えてください。
今日は。またお邪魔いたします。 以前、源氏の姓について質問させていただいた者です。 しげちゃん様、まさ様、そしてる〜様(あの時すぐにお返事できなくてすいませんでしたっ!^)、その節はありがとうございました。 とても良い資料になってますv 今でも!
今回はとても素朴なしつもんです。 平安のお風呂(お湯浴み)は、お湯殿で行なったのでしょうが、ある平安資料本の中に、”女房達は湯浴みするのに、外の下屋まで行かなければならなかった”と言うことが書いてあって、とても困惑しています。 とくに知りたいのは宮中(内裏)に勤める女房さん達。 一体、お湯浴みはどうしていたのでしょうか? 清涼殿には”お湯殿”が設けられていますが、他の殿舎にもあったのでしょうか? あったとすれば、それは女御さまからお付の侍女、下女に至るまで、誰でも使えたのでしょうか? もし侍女などが使うそれらしき場所があるのなら、教えてください。
…なんだか、素朴な質問のわりにはお聞きしたい事が多くてすいません…(汗)。
どうか、よろしくお願いいたします。
覚えておられますでしょうか?
夏頃に私のサイトからリンクさせていただいた「平家」の泉裕樹でございます。
以前いただいたメールで、平家物語を読みこむ上で関わるデータをまとめようとされていたと言う事でしたので、すみませんが相談にのって下さい。
先日、サントリー美術館で「源平の美学」という展覧会へ行ってきまして、
買ったカタログに源平の系図が載っていたのですが、
そこに平頼盛の子供に先盛という私が知らない名前が載っていまして、
(他に載っていたのは保盛のみ)そんな人がいたのかなぁと分からなくて。。。
展示されていた高山寺文書に載っていた光盛でさえ載っていなかったので、
光盛の誤植だったのかなとも考えたのですが。
ご存じでしたら教えて下さい。よろしくお願いします。
再びやってまいりました。今「大外記」について調べているのですが、いくつか教えてはいただけないでしょうか? 「訳註日本律令令義解」に「弁官(旧字が出ません)並びに他司より来る奏書詔勅について、失不の状を勘える。」とあるのですが、「失不の状」とは何のことでしょうか?
また、義解に「上日行事の類、少納言に読み申すなり」とありますが、上日行事とは具体的にどんな行事を指すのでしょうか? 少納言に読み申す公文とは「上日行事並びに仮請文(旧字が出ません)の類」とありますが、仮請文とは何のことでしょうか? 突然に恐縮ですがどんな書物で調べたらよいかだけでも教えていただけるとありがたいです。
今日は。
皆様の助言の甲斐あり、ようやく近所の図書館の書庫にあった『女官通解』を見付けることが出来ました!\(^▽^)/
でもやっぱり自前で欲しいので(笑)本屋さんも引き続き探してみるつもりです(^v^)
>しげちゃん さま。
「時代小説」だなんていえる程の代物じゃないです(///)
あくまで時代背景をモデルにしている程度ですよ。
ただ、出来うる限り現実味を持たせたいとは思っています。
多分これは初心者です。さまも他の創作をなさっている皆様も同じだとは思いますけれど。書き手のこだわり、でしょうね(^^)
もともと歴史は好きでしたから、調べることは苦ではありませんし(^_^)
はじめまして。
三上喜孝「平安時代の銭貨流通」(『史学雑誌』105-9、1996年)をごらんになってはいかがでしょうか。造都の終了により銭の存在価値が低下するものの、国家はその延命をはかっていた、というようなことが書かれていたと思います。
延命の例としては、『日本紀略』永延元年十一月二日辛酉条に「仰検非違使。加制止上下人々不用銭貨事。」とあります。
さらに、『同』二十七日丙戌条には「諸卿定申。於十五大寺。七箇日間。毎寺令八十口僧。祈銭可用之由。又有験寺々如此。」とあります。
流通しないので、検非違使に命じて人々に用いさせ、さらに仏に祈りましょう、という政治判断です。
ご参考になれば幸いです。
まさ 様
こんにちは。
ぶしつけな質問にも関わらず、リターンBBSありがとうございました。
それにしても10倍って、とてつもないですね…。
最早インフレ等という言葉で片づけられない気もしました。
制度として貨幣がきちんと機能していれば、貴族たちの生活ももっと楽だったのかもしれないとも、思いました。
租庸調に頼っていては下級貴族は暮らせなかったため、畑を耕していた、という話も聞きました。
きっと、栄養失調気味の貴族が大勢居たのでしょうね…。
(話がそれてすみません。家庭科の教員目指していましたので…)
では、取り急ぎご回答のお礼まで。
タツミ様
はじめまして。
平安時代の貨幣制度についてですが、書店で少し探してみたところ、
朝日選書から貨幣制度にかんする本が出ていました。
書名はメモしなかったのですが、ちょっと見たところ、ご質問の内容に
沿うもののようです。
さて、手元に1997年に歴史民族博物館で開催された「お金の玉手箱」
展の図録がありますので、そこから一部抜き出します。
【和同開珎】
銭1文の価値は1日働いた労賃に相当し、(中略)政府の支払い手段として
官人の給与や労働者の賃金に支給され、位階を銭で買う蓄銭叙位法・献銭叙
位、雑徭や調を銭で納めることにより銭貨の普及につとめた。平城京と畿内
では貴族・寺院が中心となり市場で流通したが、畿外では従来通り稲や布が
交易の手段として用いられた。
以上、奈良時代の和同開珎についての解説ですが、その後平安時代に入ると
さらに流通範囲は狭くなり、平安京内だけで使用されたようです。
また新しい貨幣が鋳造されると、古い貨幣の10倍の価値を付与したために
インフレが起こり、価値の下落した銭で高騰した米を買うことができなくな
るという現象も起こったそうです。
それにしても、今回調べるまで知りませんでしたが、新しい貨幣を鋳造する
ときに価値を10倍にするとはすごいことをしたものだと感心します。
今度現代のお札も新しくなるそうですが、当時の政策通り、新しい紙幣の
価値を旧来の紙幣の10倍に換算したら・・・と想像すると驚きです。
さらに古代では皇朝十二銭とあるように12回貨幣を発行していますから、
そのたびに十倍して、最後には10の12乗、最初の価値の10兆倍に
なっているのですから使えないわけです。
こんにちは。
初めて書き込みいたします。
今回は、知りたいことがあって書き込みをいたしました。
知りたいことと言うのは、
平安の貨幣制度のことです。
・物々交換が主流であったのか
・貨幣制度があるとしたら、通貨単位は?(円、文、その他…)
・貨幣制度があったのなら、その普及率(公家社会のみ普及、
平民にも普及、その他…)
以上です。
自分でも調べてみているのですが、なかなかよい文献に巡り会えず、調べ切れません。
もしご存じでしたら教えて下さい。
宜しくお願いいたします。
あっちゃん様
「監」のつく官職についてですが、しげちゃん様があげられた続日本紀
和銅四年の馬寮監以前の用例として、日本書紀持統七年四月辛巳条に
「監物」の記述が見えます。
それ以前にも、壬申の乱に際して「軍監」という記述が見えます。
(天武元年六月己丑条)
ただ天武元年の「軍監」はやはり壬申の乱に際しての臨時的なものと
思われますので、恒常的な官職としては「馬寮監」が最初の例といっても
良いのではないでしょうか。
* あっちゃん(さん)
はじめまして。
ご質問の件ですが、役所ではなくて、個人の就く官職で「監」が付くものですよね。
ご存知の「将監」の他、わたしにわかる範囲では以下のものがあります。
・馬寮監〔めりょうかん〕 馬寮に置かれたもの
・御監〔ごげん/みかん〕 馬寮に置かれたもの(馬寮御監)
・営城監〔えいじょうげん〕 筑紫営大津城監など、太宰府他諸国に臨時に置かれたもの
・堂監〔どうかん〕 文章院に置かれたもの
・牧監〔ぼくげん〕 甲斐・信濃などの国に置かれたもの
・軍監〔ぐんげん〕 軍団で有事の際、副将軍の下・軍曹の上に置かれるもの
上で挙げた官職の設置時期はいずれもはっきりしませんが
(解明されていないというのではなく、
わたしがちゃんと把握してないという意味です)、
最も古くからありそうなのは「馬寮監」で、
阿部猛さんの「日本古代官職辞典」によると
「続日本紀」の和銅4(711)年12月2日条に記述があるそうです。
これがこの官職名の初見なのかな、という印象です。
参考文献としては、
坂本太郎さんの「日本古代史の基礎的研究 下」に「馬寮監」があるようです。
*** *** ***
「源氏物語データベース」ですが、
画像をアップした方との連絡がつかないらしく、
未だ盗用であるとの確認は取れていないようであるものの、
9月22日に問題の画像をコンテンツ内から削除してくださる
との約束を本日ようやくいただけました。よかったです。
皆様、どうもありがとうございました。
以前、高松城址に行ったときに
藩主の「松平何某を讃岐の守に云々」と
いう幕府老中の書面が展示されているのを
見た事がありますが、老中の官命がかなり
低いものだったので、不思議に思った事が
ありました。
讃岐の場合、国司の位階がどうだったか?
は判りませんが、
水戸は中将、讃岐松平は少将だったと思い
ますが、江戸期はその辺かなり ケース・
バイ・ケースで行われていたのでしょうね?
また、お尋ねさせていただきます。
今後とも、よろしくお願いいたします。
はじめて投稿します。
このサイトすごいですね。久しぶりに歴史の勉強を思い出しました。これからも興味深く研究させていただきます。
さて、「監」のつく官職が日本ではじめて登場してのはいつのことで、なんと言う官職なのか、お分かりの方いらっしゃれば教えてください。
「監」で検索すると将監とかいろいろとあるのですが・・・・・
よろしくお願いします。
* 宮沢 さん
はじめまして。わたしは江戸時代について門外漢なので、
参考にしてもらえそうな知識がありません。
いくつか RES してくださってる方(どうもありがとうございます)
がおられますが、いかがでしたか。
* 一条 さん
> ちょっと見ているうちに引き込まれて、結局通読してしまいました(笑)
> 専門と全く関係のない旧唐書や新唐書を読んでいたときも
> そんな感じでした(^^;<時間を忘れる
なんとなく、わかります(^_^)
> 私が大学生の頃だと「まぎれもなくおじさん」呼ばわりでしょう(笑)
ごめんなさい(^^;
でも、若いときフケて見られる人(重ね重ね失礼m(_ _)m)は、
ある時期から逆に若く見られるといいますよ。
おじいさんになったときに、若く見られるのはいいかも。
わたしは子供の頃ずっと大人びて見られてましたが、
二十歳を過ぎた頃から、逆に若く見られるようになりました。
精神年齢が関係してるのかもしれませんね。
> 渋い好みだったのですね(笑)
ん。口の悪いわたしの言葉を、
オトナの男性だったら包容力で笑って聞き流してくれるけど、
短気な青少年だと目を三角にして怒られて、コワかったんですもん(苦笑)
* 月読 さん
まささん(<ご教示ありがとうございます)が云われてるように、
「女官通解」でしたら、図書館よりも、少し大きな書店に行けば
きっとあると思いますので、がんばって探してください。
青い背表紙の講談社学術文庫です。
あと、図書館司書の方(貸し出しとかをされてる人ですね)に
リクエストしてみられれば、その図書館の蔵書ではないものでも、
他の図書館から取り寄せてくれますので、相談してみてください。
官制大観の来訪者には「時代小説を書いてるから」って方、けっこう多いですよ。
わたし自身はその話題には参加できないと思うけれど、
このボードでそういう話題をされることは、ちっともかまいませんので、ぜひ。
活発なボードではないけれど、今回の月読さんがそうだったように、
誰かがそうした個人的な話題を書き残しておかれることで、
別の方がお仲間を見つけるってことになったりしたら、楽しいじゃないですか(^^)
(ただ、なんというんですかね、その書き込みそのものから
その人のお人柄や日常が感じられないようなもの、っていうかな、
ただの宣伝に過ぎないような内容....
そういうのは、「勉強」の面での有益性が低いし、
何より気持ちの交流がないって点で、パソコン通信出身のわたしの
ネットへの幻滅を助長するので(^^;
避けていただきたいと思っているのですが....。
いや、ボードが活発化しないのは、こういうことを云ってるから、
ってのも理由のひとつだって、わかってはいるんですけどね(苦笑))
*** *** ***
下の方に書いています「源氏物語データベース」で当方の画像が
使用されていた件ですが、話し合いが難航しており、ちょっと疲れています。
Web での公開は停止されたのですが、盗用の確認が取れないため、
削除はできないということです。
当方には制作途中の画像もあると伝えているんだけれど....。
あまりメンドくさいと「もういいや」って投げ出したくなります。
そういうことじゃイカンと思ってネバってはいますが。
上野介の職が実際に朝廷から受けたものかどうかは知りませんが、
いずれにせよ通称として用いていたように思われます。
吉良家の領地が上野にあることも関連しているのかもしれません。
先祖にも何人か上野介を名乗っていた人がいますしね。
ちなみに上総、常陸、上野が親王の任国で介が政務をとっていたというのは、
唐王朝の官制をそのままパクッたと思われます(笑)
#都がある京兆、河南、太原の三つは「州」ではなく「府」で、長官は「牧」
#といって親王の職でした。次官は「尹」で、これが実質的な長官。有名な
#ところでは、白居易(白楽天)が河南尹でした。<洛陽の知事ですね
月読遊様
后妃制度について書かれた本が見つからないのですか?
「女官通解」はまだ書店でも購入できるかと思います。
もう一度、探してみてはいかがでしょうか?
さて、その他参考になればということで、下記の本を
ご紹介します。
至文堂から出ている「平安時代の文学と生活」という
シリーズの内、『平安時代の儀礼と歳事』という巻に
後宮制度という章があり、ここで大まかな后妃制度の
変遷を見ることができます。またこのシリーズは平安
時代の貴族社会について幅広く扱っており、小説の設定
調べなどにはもってこいではないでしょうか?
>宮沢 泰行 さま。
『官職要解』に次のような記載がありました。
「(前略)みだりに高位高官に昇ることができないので、家々につき役によってその規定ができている。されば、征夷大将軍も、就職ののちに正二位内大臣となり、薨後に正一位太政大臣を贈られ、世嗣が大納言となる例である。その他の大名役人も、それぞれ任官叙位が定まっている。」
また、同書によると、
「上総、常陸、上野の三ヶ国は親王の任国であるから、いつでも介がもっぱら政務をとっていた。(中略)それゆえ、まるで守と同様で、ちょうど太宰大弐を帥といったのと同じようにこの三国の介をば守ともいったのである。」
とも、ありました。
推測ですが、吉良家の家格に関わるのではないでしょうか?
それから、上野介は正六位下相当ですが、外官の中ではいいポストだったのではないでしょうか?
あるいは“介だけど位階はもっと上”だったのかも知れませんが(^^;)
>しげちゃん さま
折角勧めてくださったのに、どの本も見つけられませんでした(;_;)
京都の図書館なんだから平安時代の資料をもっと揃えてくれても良いのに(T_T)
実は私も、初心者です。さま同様、小説を書く為に資料を集めているんです。
同じことをしていらっしゃる人がいるというのは、励みになります(^▽^)
ありがとうございます〜。すっかり名前を忘れていました(^^;
検索して見つけた大宝元年〜応徳三年のテキストをダウンロードして、
ちょっと見ているうちに引き込まれて、結局通読してしまいました(笑)
#なじみのある人名が出てくると、ついつい先が知りたくなって(笑)
大学にいた頃、専門と全く関係のない旧唐書や新唐書を読んでいたときも
そんな感じでした(^^;<時間を忘れる
>その子の目には「げ、おじさんばっかし」だったので、ショック★
私が大学生の頃だと「まぎれもなくおじさん」呼ばわりでしょう(笑)
#実年齢より五つは上に見られます……当時も今も(TT)
>逆にわたしは中高生の頃から、ずっと30代男性が好みでしたけどね〜(^.^)
渋い好みだったのですね(笑)
江戸時代、官位の有りようは、自称も含めて大分複雑に変化したようですが
ひとつ分からない点があるので、教えて下さい。
吉良 上野介 の前の官名は、近衛の少将(権官か?)だったと思います。
その前が、侍従だったでしたか?
いずれにしても、元禄のころの少将ならば、従四位であったと思いますが、
それが、何故上野介のような、平安期であれば従六位相当の官職になったのか?
まして、禁裏の覚えもめでたいと呼ばれていた人が何故そうなったのか?
わかりません。
江戸期、上野介という官職(と言うより、官名ですか?)は必ずしも、低い
ものではなかったのでしょうか?
下野国は、たしか親王家が国司になる国とかで、別格扱いだと聞きましたが…。
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