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非違(=非法・違法)を検察・糾弾する、という意味の職名(役所名ではなく)で、原則的に「左右衛門府」の役人が宣旨によって兼帯・出向する令外の官職です。唐名は「廷尉〔ていじょう〕」。
主に京内の治安維持や衛生などの民政(民は貴族を含む)を担当、具体的には、不法行為・禁制違反や祭日の濫行の取り締まり、犯人追捕(時代が下ると審理・量刑も)、未納税や贓贖物〔あがもの/ぞうしょくぶつ〕(=罪や穢〔けがれ〕の祓い清めとして差し出す代償物で、主に高位高官を対象とした罰金のようなものです)の徴収、臨時の要人の護衛など、また、年中行事・祭事・行幸といった臨時の行事で催場や道路の清掃を行います。
※ ちなみに、検非違使の果たす役目について、’70〜’80年代以降、社会史的観点からの研究が目立ちます。まずは、罪の「穢〔けがれ〕」やそれを祓う「清め」という視点に立った研究があり、また、被差別民を管轄下に置き、権力支配が内包する暗黒面(?)と関わっていることも明らかになってきてるようです。
こうした研究について関心のある方は、たとえば以下の文献(敬称略m(_ _)m)を参考になさってみてください。
・「非人施行と公武政権」 丹生谷哲一(1979) 『歴史研究 17』
・「検非違使と『河』と『路』」 中原俊章(1984) 『ヒストリア 105』
・「検非違使−中世のけがれと権力−」 丹生谷哲一(1987) 平凡社
かつて、河や橋や路は、「あの世」と「この世」を分け、かつ、結ぶところ、「境界」と理解されていた。そしてそこには必ず非差別民がいた。これがこうした話題を理解するための(?)キーワード(概念)です。判官義経と弁慶が初めて出会ったのは橋の上だった、って設定は面白いですね。
官舎(官庁)を「検非違使庁〔けびいしちょう〕」、略して「使庁〔しちょう〕」と言い、また、衛門府の役人を指す「靫負〔ゆげい〕のつかさ」から、こちらを「靫負庁」と言うこともあるようです。
当初は左右の庁に分かれていましたが、天暦1年(947年)ひとつに統合されます。
[けびヰし〔けびいし〕]を略して[ひヰ〔ひい〕]とも言い、また、「使庁」と言って「検非違使(役人)」自体を指すこともあります。
検非違使の設置時期は不詳です。弘仁年間(810〜824年)に設置されており、史料に於ける初見は「文徳実録」の嵯峨天皇の代、弘仁7年(816年)の記述です。弘仁2年(811年)に「衛士府」が「衛門府」と改称されたときに置かれたのではないかとの指摘や衛門権佐の置かれた時期との関わりなどで諸説あるようです。
従来の法規や官制に縛られない天皇直属の組織として太政官とは一線を画しており、また、捜査活動に政治的圧力が介入しないよう、長官である別当の命令(=「別当宣」)は勅宣に準ずる、という絶大な権威を与えられています。別当が置かれたのは承和1年(834年)です。
設置当初、検非違使の規定は「左右衛門府式」に規定があったようですが、職掌は特に規定しなかったようです。ただ、「弾正台と同様の職掌」となっており、追捕を行わない弾正台に代わって、その部分を担当していたと考えられます。
弘仁11年(820年)には犯罪者の贓贖物の徴収も行うことになりますが、職務繁多のため、貞観12年(870年)の別当宣で、取り締まりの対象を強盗・窃盗・殺害・闘乱・博戯・強姦のみに限定、貞観17年(875年)に「左右検非違使式」を撰定、ここで法的な権限を確立します。
使庁の開設時期も不詳ですが、寛平7年(895年)、「左右衛門府」内に左右使庁を置いています。天暦1年(947年)には左右使庁を統合して左庁だけとし、平安後期には別当の私邸で庁務を執るようになります。
平安末期〜鎌倉時代頃には、使庁の判例は「庁例」と呼ばれる独自の慣習法を形成・発達させます。「庁例」は律令の訴訟法を基礎としていますが、治安の悪化に対応し、強権的かつ簡便な手続きで量刑・訴訟を行うようになっています。
司法警察関連の役所は「六衛府」をはじめ、「刑部省」「弾正台」「京職」などいろいろありますが、10世紀以降、これらが担当する仕事は概ね「検非違使」に吸収され、職掌を失っていきます。
一方、「検非違使」は警察機構の頂点に立ち、多数の職員を抱える強大な機構に発展して、賑給や商業流通の監督、治水などにも関与するようになり、また、活動範囲も畿内まで拡大し、宣旨を得て京外の遠隔地へ出動することも多くなっていきます。
※なお、乱の鎮圧の際に、検非違使庁の役人が「追捕使」として派遣されることがありますが、これについては、まだ、検非違使としての任務であったかどうか、学界の意見が分かれている状態で、決着が付いていません。
鎌倉幕府成立後は、「京職」の保持していた民事訴訟・裁判権も吸収し、他の警察機構が追捕した犯人でも使庁へ移送されて裁判・量刑が行われることとなり、さらに権限を強化します。
検非違使の武力の主体は、当初、河内・摂津を主とする畿内の在地勢力(在地領主・有力農民)出身の「志〔サカン〕」だったようですが、11世紀後半以降は、そうした畿内勢力を配下に吸収した「北面武士〔ほくめんのぶし〕」(=院の警護・及び僧兵防御のため、院御所の北面に置いた武力組織。ですが「武士」ばかりとは限らず「貴族」も含みます)の「尉〔ジョウ〕」が主体となります。
平安後期には、地方諸国にも「検非違使」(職掌は同様)が置かれますが、これは武士の勃興によって有名無実となります。
室町時代に入り、幕府の警察・裁判権が強化されるに伴い、検非違使は「侍所」に機能や権限を吸収され、消滅します。
別当 → 佐 → 大尉(4名) → 大志(4名) → 府生(1〜4名)→ 看督長(4名) (1名) (2〜4名) 少尉(不定)→ 少志(4名) 案主長(2名) → 案主 → 火長 → 下部(放免) ※火長には「官人従者」と呼ばれる「佐従」「尉従」各4名、「志従」「府生従」各2名などがあったようです。
衛門佐(従五位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職
衛門尉(従六位上〜正七位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職 (※坂上〔さかのうえ〕・中原の二氏の世職でもあります)
衛門尉(従六位上〜正七位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職
衛門志(正八位下〜従八位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職 (※原則的に明法家(=明法道の家筋の人)であること)
衛門志(正八位下〜従八位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職 (※原則的に明法家であること)
検非違使を統括します。唐名では「大理」といい、衛門督(従四位下相当)、または、兵衛督(従四位下相当)を兼帯している中納言(従三位相当)・参議(二〜三位相当)の兼任職で、宣旨によって補されます。
衛門佐(従五位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職です。案主(※後述)を指揮して検非違使内部の庶務にあたります。
志とともに、府生・看督長(※後述)・放免(※後述)を指揮して犯人の追捕・捜査・審理・量刑にあたります。
このうち、追捕は特に武力に秀でた「追捕尉」と呼ばれる少尉が指揮します。「追捕尉」は10世紀後半頃から清和源氏など武門系が任じられることが多くなります。(ちなみに、源九郎義経「判官」は検非違使の判官=「尉」でした。)
また、審理・量刑は明法道に通じた尉・志(※後述の「道志〔みちのさかん〕」)が担当しています。
衛門尉(従六位上〜正七位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職で、五位の人が務めている場合、「大夫尉」「大夫判官」などと呼んでいます。
時代が下ると、明法家(=明法道の家筋の人)である坂上〔さかのうえ〕・中原の二氏の世職となります。
尉とともに、府生・看督長・放免を指揮して判任の追捕・捜査・審理・量刑にあたります。
衛門志(正八位下〜従八位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職です。原則的に明法家が任じられ、これを「道志〔みちのさかん〕」と呼んでいます。
時代が下ると、坂上〔さかのうえ〕・中原の二氏の世職となります。
火長から選ばれ、主に獄舎の番を担当します。
火長から選ばれ、文書の作成・保管を担当し、検非違使内部の庶務にあたります。
刑期を終え出獄した前科者を採用したもので、検非違使下部〔しもべ〕として、犯人の捜索・追捕を担当します。
ただ、「放免」自身に、不法な横暴が少なからず見られたようです。