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予備知識:京・宮・みやこ(付:唐の長安城):

平安京

(最終更新日:98.10.02

 − 目次 −




 

平安京


平安京は、最南部中央に京を象徴する「羅城門〔らじょうもん〕」、最北部中央に約2km四方の宮城「大内裏」を置き、「大内裏」の南中央には宮城を象徴する「朱雀門〔すざくもん/しゅじゃくもん〕」を置いています。

羅城門〔らじょうもん〕は都の正門で、朱雀門から南に、都の中央を走る朱雀大路の最南端に位置し、当初、蕃客(=外国客)を迎える式典や神事が行われましたが、早い時期に荒廃します。
羅城とは、中国では都市の外周を巡る城壁のことですが、日本では羅城門の東西に付設された築地塀に過ぎません。

朱雀門と羅城門とを結ぶ中央のメイン道路は「朱雀大路」です。この朱雀大路によって、京内を「左京(東の京)」と「右京(西の京)」とに分けています。

また、「条坊制」(=「条・坊」という地番区分呼称を用いた都市計画システム)に基づいて、南北を9つの「条」(「北辺〔きたのべ〕」を入れると10条)に、東西を8つの「坊」に区分しています。

※以下の説明では、3種類の「坊」が出てきますが、これらの「坊」を混同しないよう注意してください。もしこんがらがったときは、「坊」という語を「地区」と読み替えれば理解しやすくなるかもしれません。お試しください。現代なら「区画」とか「地区」とかの言葉で表現するもの(概念)を当時ここでは「坊」と表現しているようなのです。


− 平安京条坊図 −
平安京条坊図 GIF 43K


都の町路には「大路〔おおじ〕」と「小路〔こうじ〕」とがあります。それぞれの「条」や「坊」の間を区切っているのが大路です。小路は、2本の大路の間に通常3本ずつ、大内裏に接する大路同士の間では1本、敷かれています。

東西に走る大路は、「条」を区切る大路で、北より一条〜九条という大路名が付けられています。他に、大内裏を挟む「一条大路」と「二条大路」との間に、4つの「〜御門大路」もあります。この4つの大路名「〜御門〔みかど〕」は、その大路が通じている大内裏の門の通称です(正式な門号とは異なります)。
ちなみに、一条大路から九条大路までの距離は約5.25kmあります。

先に説明した「条」の具体的な名称は、南北は、一条大路から南の土御門大路までを「北辺〔きたのべ〕」、土御門大路から南の中御門大路までを「一条」、中御門大路から南の二条大路までを「二条」、以下、三条大路までを「三条」、四条大路までを「四条」という具合に続いて「九条」までとなっています。

なお、これらの「条」は、それぞれ「〜坊」という別名も持っています。「二条」までの別名(坊名)は、左京も右京も同じになっていますが、「三条」以南は、同じ「条」であっても、左京と右京では坊名が異なります。

「三条」〜「九条」までの「条」の中央を走る小路は、いずれも『〜条坊門小路』という名称になっています。これは、その「条」(具体的にはその小路)と朱雀大路とが交わるところに『坊門』が置かれたためです。
「三条」〜「九条」までですから7ヶ所、それが左京・右京の両方に置かれたので、計14ヶ所に坊門があります。

さて、南北に走る大路は、中央に『朱雀大路』、両端に東西の『京極大路』(都の端という意味ですね)があり、他に、「大内裏」を間に挟む形で東西に『大宮大路』などがあります。
ちなみに、西京極大路から東京極大路までの距離は約4.4kmあります。

東西は、これら南北に走る大路で区切って、左京・右京をそれぞれ4坊ずつに分けています。この「坊」が、先に説明した条坊制でいうところの「坊」で、「条」の別名である「〜坊」とは異なります。
具体的には、左京では、朱雀大路から東の大宮大路までを「一坊」、大宮大路から東の西洞院大路までを「二坊」、西洞院大路から東の東洞院大路まを「三坊」、東洞院大路から東の東京極大路までを「四坊」として、右京もこれと同様、朱雀大路から数えて「一坊」〜「四坊」というふうになっています。

ちなみに、平城京は9条×8坊プラス東に5条×3坊の「外京」を持っており、また、藤原京は、中央に宮城を置いて10条×10坊となっていたと考えられています。(藤原京は、少し前までは北に宮城を置いて12条×8坊というのがほぼ定説となっていましたが、最近は10条×10坊という説の方が有力(?)なようです。はっきりと決着が付いたかどうかはわかりません。)

小路の道幅は約12mです(現在の道路で言うとどのくらいかな?、小路といっても広いですね)。
大路の道幅は、通常、小路の道幅の倍の、約24mです。
宮城へ続く大路の場合はそれよりも多少広くて30mあります。
都の南端にある「九条大路」と大内裏両脇の「大宮大路」はさらにもう少し広くなって約36mです。
大内裏の前面を東西に走る「二条」は通常の大路の倍の約51m、中央の「朱雀大路」になると、通常の3倍の約84mもあります(有事の際は兵を進めることができるような広さ....とは言うものの、当時の日本には必要以上の広さだったでしょう)。
羅城門から、朱雀大路を北へまっすぐ、約3km歩くと、南北約1.38km×東西約1.15kmの宮城を象徴する朱雀門へ到ります。

以上が、京内の大規模な区画割でした。次に小規模な区画割を見ていきます。

大路で囲まれた真四角な区画1ブロックも『坊』と言います。
「坊」の中は、『保〔ほ〕』という4つの区画に分けてあります。この「坊」や「保」は、京職の管警する単位で、住所(地点標示)を指し示すのには用いません。朱雀大路に近い側の北のものから1保、2保、次に朱雀大路に遠い側の南から3保、4保と数えます。


坊図 GIF 8K

「坊」の中は、別に、小路によって区切った16区画にも分けられます。この区画を『町〔ちょう〕』と言います。1町は約120m四方です。

通常、大路と大路の間には小路が3本走り、「町」が4つありますから、12m×3本+120m×4町=約520m弱、これが大路間の距離、つまり通常の「坊」の一辺の長さ、となります。

「町〔ちょう〕」は、朱雀大路に近い側の最北の町から南へ1町、2町....と数え、次は南から北へ向けて5町、6町....と、ジグザグに数えていき、朱雀大路からいちばん遠い最北の16町までです。

「町」の中は、東西を4区画に分けています(南北に長い長方形区画となります)。この区画を『行』と言います。「行」の間は名もない(?)道で区切られています。行の幅は約30mです。
「行」は、やはり朱雀大路に近い行から、左京(東の京)では、西1行、西2行....、右京(西の京)では東1行、東2行....と数えます。混同しそうなので注意してください。西から何行目、東から何行目、という言い方だと思います。


町図 GIF 8K

「行」の中は南北8区画に分けてあり、この区画を『戸主〔へぬし〕』と言います。この「戸主」が、一応、1件の敷地で、南北約15m×東西約30m=約450平方m=約140坪の敷地となります。(時代が下ると「戸主」の中もさらに細分化されていくようです。もっともこれは政策ではなく自然とですが。)
1戸主ごとにそれぞれ1門を立てたようで、このことから、4行にまたがる東西の列を「門」と呼びます。「門」は、北から、北1門、北2門....と数え、北8門までです。

というわけで、たとえば、下の例のような3戸主の住所(地点標示)は、「左京 六条 三坊 十四町 西二行 北四・五・六門」と言い表します。


地点標示図 GIF 6K

以上、京内の小規模な区画割でした。

左京・右京にはそれぞれ鎮護の「東寺」「西寺」(※西寺はすぐになくなります)、「東市」「西市」(※西市も早い時期になくなります)、外国からの使節を泊める「鴻臚館〔こうろかん〕」を置いています。
また、京の東を流れる鴨川の向こう岸には、刑場の六条河原があります。六条大路からまっすぐ河を渡った向こう岸です。
右京は、10世紀にはすでにかなり衰退した状態となり、「京」としての機能をほとんど失いますが、代わりに平安京の外部、東北方面が自然発生的に開発されていきます。




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