親鸞聖人二十四輩

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番号

名 前

 

性信房
(しょうしん)

性信房は、文治三年(1187)常陸国鹿島神宮の神官の家系である大中臣氏に生をうけ、鹿島の神職出身の順信と俗縁があるらしい。幼い頃より悪童、腕白ぶりを発揮し、青年になっては怪力無双の無法ぶりで、世間からは七十五人力の悪五郎と呼ばれる程であった。十八歳の時、紀州熊野権現に参籠して荒修行の後、神勅を蒙った。以来、心に深く感ずるものがあり、十九歳のとき上洛して黒谷に法然上人を訪ね、他力本願の教えに帰依した。この時、法然上人は高齢であったため、彼を高弟である善信房綽空(当時の親鸞の名)に託した。ここで聖人にとっても生涯初めての師弟の契りが結ばれた。そして法名を性信房と賜り、それからは聖人のいるところ必ず性信房の姿ありといわれ、常随眤近(じっきん)の弟子となった。親鸞聖人より14歳年下。

真仏房

真仏房は、寺伝によれば真岡城主大内国春の嫡男で、十七歳で聖人の弟子となり、のち関東門弟の統率者となった。正喜二年(1258)高田山専修寺において五十歳で示寂した。

順信房

順信房は、寺伝によれば、俗姓を藤原尾張権守片岡信親と称し、鹿島神宮の大宮司であった。鹿島明神の御告げにより親鸞聖人の弟子となり法名を順信房信海と賜った。 

乗念房

乗念房は俗名を片岡源九郎親綱と称し、兄の信親(後の順信房)が命をうけ鹿島神宮の大宮司となったあと、家名を継いだが、遁世菩提の念深く、ある時本尊の霊夢を感じたのが緑で、建保三年(1215)稲田の草庵に親鸞聖人を訪れた。念仏の教えを聞き次のように詠んだという。
「よしあしも知らぬ難波の蜑小舟誓の海によりてさだめん」−親綱、
「本願の海によりてのあま小舟 櫓櫂もとらで乗りてしかなり」−親鸞。
親綱はこれを機に聖人の弟子となり、乗念房領海と法名を賜った。霞ケ浦の草庵を守り、聖人生存中から滅後まで尽力したその功績は大きいものであった。 

信楽房

信楽房の俗姓は、鎮守府(陸奥・出羽二国の蝦夷を鎮定するために置かれた役所)将軍、村岡五郎良文の流れをくみ、千葉介常将四代の孫千葉介常胤(つねたね)の嫡子、相馬二郎師常の子、三郎義清とあり、いわゆる武家の出である。寺伝によると、義清は当時下総の大守の任をもち「にいつつみ」に住んでいたが、建暦二年(1212)関東に入った親鸞聖人が伝道に力を入れはしめた頃、義清の守り本尊薬師如来の霊告により、聖人の法を聞いて弟子となった。義清は法名を信楽と賜り、自邸を改造して一宇を創建し親鸞聖人の教えを実行した。「仮初の教えにそむく言の葉は世々の誠を諌めしもかな」と歌った信楽房は、親鸞の忠実な弟子であったに違いない。しかし、信楽房は親鸞聖人の教えに異議を唱え聖人の元を去ったが、覚如上人が父覚恵上人と共に関東に行かれたとき(1290)、信楽房と会われ、信楽房は自分の非を悔い帰参を許されている。信楽房が亡くなる一年前のことである。

成然房

寺伝によれば、成然房は俗姓を藤原氏従三位九條中村幸実といい、無実の讒言(ざんげん)により承元四年(1210)下総国猿嶋郡一の谷(現境町一の谷)に配流の身となった。幸実は、その頃常陸の稲田で一向専念の教義を弘通していた親鸞聖人のもとを訪ね、従弟にあたる親鸞聖人(成然房は親鸞聖人の妻、玉日姫の兄)との再会を歓び、その教えに深く帰依して剃髪し弟子となって、法名を成然房と賜った。建保六年 (1218)に成然は勅勘を免されたが、そのままこの地にとどまり、念仏の伝道に精進した。

西念房

寺伝によれば西念房は俗姓を源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州高井郡井上城主井上五郎盛長の子三郎貞親といった。貞親は文治年間(1185〜1189)父盛長が戦で討死したのを機に世の無常を感じ、道を求めて親鸞聖人の流刑地越後国府五智国分寺の如来へ参寵。そして、如来の夢告を受け親鸞聖人をたずね、その弟子となった。貞親は聖人から西念と法名を賜り、常時聖人に仕え、やがて親鸞聖人が流罪赦免となって関東へ赴いた時も常随し、常陸へと入国した。その後、西念房は武蔵国足立郡野田の郷に一字を建立、聖人伝来の聖徳太子尊像を安置して専修要道に励んだ。この地は井上家の旧領のあったところと伝えられ、聖人に帰依渇仰の門徒は門前市をなしたという。やがて帰洛の途につく親鸞聖人に、西念房も同行をと願うが、聖人は「関東に止まり有縁の衆生を化益すべし」と諭し、自ら彫刻した尊像と、連座の御影を授けた。西念房は野田の地に止まり、聖人から賜った尊像を師に随従する思いで恭敬尊重して、この地での布教につとめ、正応四年(1291)百八歳で往生の素懐を遂げた。

證性房
(しょうしょう)

證性房は「性證」とする説も有力だが、同一人物であると推察される。俗姓を畠山重秀といい、鎌倉幕府の御家人で、武蔵国の豪族であった桓武天皇の遠孫にあたる畠山重忠の第二子として生まれた。
父重忠はたび重なる合戦に阿弥陀如来の一軸を守本尊として肌身離さず鎧の袖に持ち、戦いに挑んだという。重秀は父重忠が戦死した後も、父の形見の阿弥陀如来を肌身離さず、信心いよいよ固くなって、元久2年(1205)に出家して栂尾明恵上人の弟子となり、恵空と号していた。承元4年(1210)12月に栂尾を出て、父の基をたずね常陸の国に巡ってきたとき、この地の太子堂で一夜を過ごした。その夜、太子の夢を見、そのお告げによって親鸞聖人に出会い、弟子となったのである。法名を「證性」と賜った。建暦2年(1212)の春とされている。聖人の弟子となった證性房は、下野国塩谷郡犬飼に道場を開いたので、「犬飼の證性」といわれ村人から親しまれた。それから文永2年(1265)4月25日、77歳で往生を遂げるまで、證性房は本願を信じ、教化に励む生涯を送った。

善性房

寺伝によると善性房は、後鳥羽院の第三王子但馬の宮正懐親王で、順徳院の弟にあたる人といわれ、出家して比叡山にのぼり、名を周観と改めた。公家の出で、仏門に入ったことなどは、親驚聖人とよく似ている。 仏教を学んだ周観(正懐親王)は、優秀な成績で将来を嘱望されたが、山上の名利の争いを嫌い、建保6年(1218)20歳の時に山を降り諸国行脚を決意した。そして、下総に入り国守豊田四郎治親のもとに留まることになる。ちょうどその頃、親鸞聖人が流罪赦免により、越後から関東に入国したことを聞き、小島(下妻市小島)の地に聖人を迎え、その教化を受け弟子となった。その後、親鸞聖人が稲田の地に庵を結んだ析、他力本願の真髄を学び善性房と法名を授けられた。 

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是信房

開基是信房は、もと藤原氏の流をくむ吉由大納言信明と称し、宮廷に仕えるものであった。罪を得て越前に配流の身となり、間もなく勅免となったが、再び雲上の栄華人たる廷臣になることに無常を観じ、帰洛をとどまり、深く菩薩の道を尋ねんとした。ある夜、不思議な霊夢にあった。青衣の童子が枕上に立ち「おしえ善信の聖世に出でて常州に法のはなさく」と、くりかえし三返吟して姿を消した。驚いた信明は歌の心を案し、「よきまことのひじり」とは「善信聖」をさし、「常州」とは「常陸の国」をいう、常陸の国に善信(親鸞)聖人という方があるにちがいないと、まだ夜深きうちに越前を発って常陸へと向かった。そして親鸞(善信)聖人を小島の草庵に尋ね、本願他力念仏の教えを聞き、随喜の涙にむせび、弟子となって法名を是信房と賜ったのである。その後、聖人に常随し給仕を怠らず、聖人も彼の信心の厚さと才美の凡ならざることを認めていた。

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無為信房

親鸞聖人と武田太郎信義の子、無為信房との出会いの経緯は、次のように伝えられている。会津若松市門田一ノ関出身の武士であった無為信房は、どのような理由か無常観を味わい、常陸稲田にある親鸞聖人の草庵を訪れ、教えを請うた。親鸞聖人自らが多くの悩みを担い、しかし人間に煩悩があるのは、当たり前との悟りに至り、悪人こそが救われると説くその教えに深く感銘して、無為信房は聖人の弟子になった。

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善念房
(ぜんねん)

@酒門の善重寺伝
善念房は寺伝によれば、俗姓を三浦義重といい、万夫不当の武士であったという。建保4年(1216)8月、文武に励む18歳の青年三浦義重が、戦さの神で知られる鹿島神宮へ願をかけに行ったその帰りのことであった。ちょうど桜川にさしかかった時、麻の粗末な墨染めの衣を着た一人の出家が土手の上にたたずんでいた。川を渡ることができず因っていたのである。それと察した青年義重は、さっそく、その屈強な体に出家を背負い、無事対岸に渡すことができた。感激し感謝の意を表する出家の前で、義重は何か心が晴れない様子である。尋ねる出家に義重はこう答えた。「実は今、大いに悩んでいます。父の教えで文武に励み、今も鹿島神宮へ願をかけに行ったところですが、強くなるということはどういうことなのですか。結局、勢力の争いでしかないのではありませんか」と。この粗衣の出家が親鸞聖人であった。ここで聖人がどう答え、導いたのかは明らかではないが、義重は親鸞聖人に魅かれ弟子となって、法名を善念房と賜った。

A鷲子の善徳寺伝
善念房は寺伝によると、善念房の前身は佐竹昌義の孫で南酒出六郎義茂といい、久慈郡内報の領主であった。

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信願房

信願房の俗姓は、清和源氏の流れをくむ佐竹の一族、下野守昌義の孫で稲木三河守義清。義清は祖父昌義(法名蓮寂)の影響を受けて出家し、当初法名を「慈清」と称した。のちに親鸞聖人を知り、稲田の草庵に参詣し聖人の弟子となって「信願房定信」という法名を賜ったのである。信願房は天福元年(1233)常陸国粟野鹿崎に一宇を草創。健武の13番慈願寺は、もと健武生まれの少年和久勝介が稲木家に仕え、信願房のお供をして稲田へ通う間に親鸞聖人の御指導を受け、信願房の御弟子となり定念と号した。定念故郷の健武に帰りて貞応元年(1222)の春、親鸞聖人をおまねきし七日間の御説法をいただき、健武の道場を建立、その堂宇を信願房へ寄付せられた。その後本願寺第三代覚如上人が健武の道場に御滞在になり、慈願寺の寺号を受けた。 信願房、正嘉元年(1257)10月19日往生

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定信房

大山禅坊第二代の定信房は、清和天皇第五皇子といわれる京都三井寺の沙門尭範阿闍梨(ぎょうはんあじゃり)という天台宗の学匠で、天台仏教弘通のため関東に下って大山に来て、建保二年(一二一四)、佐竹氏の祈願所として建立された天台宗願泉寺にいた。開基と親鸞聖人とのかかわりは、寺伝によれば、祈願所の観世音前庭に植えられていた梅の木のそばに、十六歳の聖徳大子が現れ、定信房に「稲田へ参詣し、親鸞聖人の弟子となりなさい。法名は定信と授ける」と霊告したのである。定信は早速稲田におもむき、念仏をきいて弟子となったという。

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入西房
(にゅうさい)

入西房は俗姓を日野左衛門尉頼秋といい、近江蒲生郡日野の出身で、日野左大弁頼秀の末孫であるといわれ、故あって大門の里に流された武士。ここで有名な故事「親鸞枕石」がおこった。その時親鸞聖人の教化を受け弟子となり、法名を入西房道円と賜った。入西は自分の家を寺とし、枕石寺が草創された。

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穴沢の
入信房
(にゅうしん)

入信房は寺伝によれば、俗姓を清和源氏の末孫佐竹別当常陸助義重といい、久慈郡金紗一帯を治めた城主であった。しかし義重は武士として生きることに疑問を持ちはしめ、やがて世の無常を観じて、自ら勝山蓮義と名を改め穴沢村に隠居することになる。そして、ひたすら菩提を祈り厳しい精進を続けたのである。建保五年(1217)の春、霊告を受けた義重はさっそく稲田禅坊に参詣し、親鸞聖人に逢い他力本願の神髄を教示された。それは義重の今までの悩みを一気に解決するものであった。義重は即座に弟子となり、釈入信房という法名を授かったのである。

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念信房
(ねんしん)

念信房は、寺伝によれば俗姓を高沢伊加守氏信といい高沢城主であった。縁起には、氏信は守り本尊の観世音菩薩のお告げと、父の臨終の遺言により、稲田草庵に親鸞聖人を訪ねたと記されている。城主とは言え地方にあっては民衆との、接触も多かったものと思われる。その中で、無常を観じつつ悩んでいるときに父の死に遭遇。信仰者であった父は、臨終の際に「稲田の親鸞聖人を訪ねよ」という言葉を残した。自らの悩みを持ち草庵を訪ねた氏信は、聖人の教化を仰ぎ、他力の不思議に心をひかれ、弟子となり「念信房勝渓」と法名を賜った。31歳のときである。

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八田の
入信房
(にゅうしん)

開基入信房は、同名の第十六番御前山寿命寺の「穴沢の入信」に対して「八田の入信」といわれる。寺伝によれば、入信房の俗姓は八田七郎知朝といい、武将でその闘いぶりは近隣に名を馳せたという。知朝は源氏新羅三郎義光の流れをくむ常陸国司佐竹義照の順孫八田民部郷朝範の息男であった。武士である知朝は、仏心浅からず毎日を仏道にのっとった生活にと努力していた。八田郷(現大宮町)に寺のおこりはあった。稲田草庵に住まわった親鸞聖人は、常陸国内を精力的に布教し、奥久慈にまで足を伸ばした。その時、この地方に古い太子堂が建っており、聖人はその太子堂を参詣したことがあった。知朝はこの機会をとらえ、親鸞聖人に会い、日頃の疑問や悩みを打ち明け、聖人のゆきとどいた教えを受け、その教えに歓喜してさっそく弟子となり、入信房と法名を賜ったのである。建保四年 (1216)那珂郡八田に一宇草創、常福寺と称した。
 入信房は、親鸞聖人が帰路したあと、師を慕って上洛しようとしたが、尾張日比野(愛知県)の運善寺において往生をとげた。現在も、運善寺には入信房の木像が所蔵されている。 

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明法房
(みょうほう)

明法房といえば弁円のことである。弁円は親鸞聖人を殺害しようとした人物である。弁円は、藤原氏法性寺入道前の関白忠通公の曾孫として生まれた。幼くして聖護院の宮の門弟となり、播摩の公弁円と人称し、苦修練行のすえ修験道界においてはかなりのカを持つようになった。厳しい修行に耐えた人でなければ極楽往生できないという旧仏教がはびこる常陸国の当時の情勢の中で、修験道を全うした弁円の言葉の一節一節は、かなりの威厳をもって民衆の心に浸透していった。常陸金砂の城主佐竹末賢も弁円の徳を慕い、久慈西の郡塔の尾楢原谷に護摩堂を建てて、弁円を招き祈藤所とした。弁円の社会的地位は一挙に上昇し、弁円自身も自らの歩もうとする道に確信を持った。
 そこへ現れたのが親鸞聖人であった。稲田に草庵を結んだ聖人の影響力が次第に広まるにつれ、民衆の心が弁円から離れ始めた。仏教の敵と受け取った弁円は、その張本人である親鸞を殺害しようとするのである。板敷山にたてこもり、当時石岡方面との唯一の交通路であったこの道を聖人が通るのを、三日三晩待ち狙ったのである。しかし聖人はついに現れず、やむなく稲田の草庵に夜襲をかけた。鎧に身をかため、弓箭刀杖を携えたまま親鸞に逢う。ものものしい姿をした弁円一行に引き換え、ふいに襲われたにもかかわらず、親鸞は笑顔で山伏たちを迎える。その瞳を見た瞬間、害心はたちまち消滅し、後悔の涙で顔を濡らした弁円は、その場で弓矢を折り懺悔の心を示した。早速弟子になった弁円は、法名を明法房と賜った。寺伝によれば、承久3年(1221)上宮寺を建立した明法房弁円は、その後、親鸞聖人の手となり足となり給仕を怠らず、余生を自信教人信の道に捧げ、建長3年(1252)往生を遂げて、楢原谷に葬られた。

20

慈善房
(じぜん)

慈善房は、俗姓を後鳥羽院の朝臣壷井大学の守橘重義といい、文学に才能があり、特に歌道には優れた人であったという。重義は武蔵相模両国を経て関東に下り、常陸国王川辺村田郷に来て、その地の太子堂に参籠した。この太子堂は、人皇三十六代孝徳天皇のときに、聖徳太子自ら刻んだ太子像を安置してあった大和国橘寺から、大化元年(645)に当地に遷したとされるもので、後の佐竹下総守源昌義と嫡男隆義が保護し、特に秀義はその尊敬の志深かったといわれる。その太子堂で一夜を明かした重義の枕元に、夜半、夢とも幻とも思われぬ聖徳太子が現れ「これより西南に高僧ましまして説法したまふ、阿弥陀如来の化身なり、汝すぐ行きて要法を聴受せよ」 と霊告した。重義はお告げのまま稲田草庵に親鸞聖人をたずね、教えを聞き、聖人の弟子となって法名を慈善房と名付けられた。建保3年(1215)のことである。

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唯仏房
(ゆいぶつ)

唯仏房の俗名は藤原隼人佑頼貞。84代順徳天皇のとき、藤原隼人佑頼貞が那珂郡枝川村(現勝田市枝川)に居住したことにはしまる。さらに、建保2年(1214)親鸞聖人が稲田草庵に居住していた時に、頼貞が教化を受けたのが、聖人との出会いになる。聖人の教えを聞いた頼貞は、生死無常の理をさとり、深く聖人に帰依し、他力本願の不思議を味わって、頼貞応元年(1222)剃姿して、法名を唯仏(ゆいぶつ)房浄光と賜った。そして貞応元年10月15日、自らの館を開法の道場とし、常光寺と名付け開基したのである。

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戸森の唯信房
(ゆいしん)

開基唯信房は、俗姓を宍戸の域主宍戸四郎知家の三男、山城守義治といった。義治は、どういう理由からか、若い時から仏教に興味を持ち、特に親鸞聖人の教えには感激していたという。二十歳を過ぎる頃になり、いわゆる無常観を味わいはしめ、深刻化していった彼は、盛んに稲田草庵へ出かけては聖人の教化を受け、法名を『唯信』と賜り弟子になった。寺伝では二十二歳と記されている。
このように、若くして無常を味わい聖人の弟子になった人は珍しい。弟子になったあとは、聖人の関東教化の折、いつもそばに居ていろいろと細かな仕事をしていたという。唯信房は戸守を根拠に、各地の布教活動につとめ、七十六歳で仕生。

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幡谷の唯信房

親鸞聖人と信願寺開基の唯信(ゆいしん)房との出逢いは、聖人の鹿島明神参りを抜きには語れない。当時は藤原家宮司が鹿島に任官されるのがならわしであった。聖人も藤原家の流れをくみ、身よりのない関東の地にあって、その血脈を求めたことは想像できる。その上、鹿島神宮には一切経が揃っており、その書見のために度々参詣したことは十分考えられる。また、鹿島、行方地方の教化もその大きな目的の一つであったに違いない。稲田から鹿島の道すじに橘村幡谷というところがあった。域主幡谷次郎信勝が治めていた地である。信勝は常に観音像を守り本尊としていたほど信仰が厚かった。建保四年(1216)八月十三日の夜のことであった。信勝の枕辺に、その守り本尊が現れて夢告した。驚いた信勝が城外へ出てみると、三日月を仰ぎながら念仏を唱える僧の一団がいる。信勝はさっそく域内へ案内して夜を徹して教化を賜った。親鸞聖人の「他力本願」の教えは、無常に悩む信勝にとって救いであった。さっそく聖人の弟子となり法名を唯信と授かった。
 唯信はその後、各地を移り布教活動に励んだ。「親鸞聖人門侶交名傑」によれば、北へ進んだ唯信は奥州に道場を建て、その後、常陸国小瀬のあたりに寺基を移したという。さらに、寺の歴史は、慶長十年(一六〇五)水戸城西(信願寺町跡)に移築し、延宝九年(一六人一)火災に遭ったのを機に、水戸光因公の命により黄金若干並びに鞍馬入十頭を賜わって、現在の地に落ち着いたとされている。
 開基唯信房は、親鸞聖人入滅後、九年間その墓を守ったといわれる。その折に、山陰地方にまで脚をのばし布教したと伝えられ、裏付けとして、島根県浜田市真光町顕正寺で、開基を唯信房とし、二十四輩二十三番を名乗っていることがあげられる。 このような例は他になく、ほぼ間違いないとされ、各地を巡った唯信房が、かなりの健脚であったことが伺われる。

24

唯円房

唯円といえば、歎異抄の撰者である河和田報仏寺の開基が思い浮かぶが、ここの唯円房とは、同名異人であるとの説が有力である。寺伝によれば西光寺の唯円房は、俗姓を橋本伊予之守網宗といい、承安3年(1173)に武蔵国猶山の域主の家に生まれた。かなりの勢力を持ち、平和な日々を過ごしていたある日のこと、寵愛していた一人子の清千代丸が病に襲われ、8歳にして死亡してしまうのである。綱宗の嘆きは深かった。このことが契機となり、仏法にひかれていくことになった綱宗は、清千代丸が亡くなって間もなく、身を修行者に変し、城を弟の次宗に譲り渡し、諸国を巡って遂に常陸国那珂郡鳥喰村(現那珂町)にたどり着き、空き家で一夜を過ごすのである。綱宗はその夜、薬師如来光明が赫灼として現れ霊告したのである。綱宗はお告げのまま稲田におもむき、親鸞聖人の教えを聞いて、たちどころに″他力本願”の意を解し、弟子となって法名を唯円と賜った。

 

 

如信

 

 

如信

 

 

平太郎

 

 

唯円房

 

 

実念

 

 

信証

 

 

明空

 

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