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シナチクは何故ラーメンの上にのったのか?

原料の麻竹がシナチクになるまで ラーメンとシナチクの同居 メンマは和製造語
ラーメンといえばメンマ、メンマといえばラーメンこのふたつはいつも、一つどんぶりの中で仲良く肩を寄せ合い、お互いを引き立て合っている。この付き合いはどのようにして始まったのだろうか。シナチクは昭和の初めにはラーメンの上にのっていた!ということは麺とシナチクの出会いはこれ以前にさかのぼることになる。
 モノの本によると、笋干(スンカン)と呼ばれる台湾製のシナチクが日本に入ってきたのは昭和12年頃、神戸南京街でのことという。その背景には笋干が採れすぎて大弱り、こうなったら乾燥して保存するしかない。それに目を留めた日本人の貿易商がいた。何を思ったのか大量に注文して帰国する、肝心の食べ方までは聞いてこなかった。苦肉の策、ほんの思いつき、口から出任せももいいところで「この干筍は台湾の味、水に戻して煮て味をつければまことに美味、中華そばに欠かすことのできない絶妙な味である」とまぁこんなような能書きを講釈したわけだが、世の中には物好きな御仁もいるもので、物は試しと買い込み早速味わってみた人がいた。するとこれがなかなかの珍味、美味!「これはいける!」そういったかどうかはともかく、以来、神戸ではラーメンとしなちくとは切っても切れない関係になり、それが全国に広まったと言う、そんな筋書きであった。

 ところがシナチクが最初に輸入されたのは昭和どころか大正?いやもっと以前の明治期にタイムスリップするのである日本のラーメン史の来々軒ではいつ頃からシナチクを使うようになったのだろうか。資料によると大正6年当時、来々軒ではすでにシナチクを使っていたことが解っている。それでは使い始めたのはいつなのか。その資料とは今で言う出入り業者一覧でありその中に草柳商店干筍アリと記されていたのである。その記録をもとに探ってみたがどうにも先に進まない。まぁそれでも明治時代には南京街の食材屋に並んでいた事は確からしい。シナチクの原料は麻竹で産地は限定される。続く・・

参照 にっぽんラーメン物語 小菅桂子