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官職:太政官:

弁・史/少納言・外記

(最終更新日:10.01.02

 − 目次 −




 

左右弁官局


八省を管轄する役所で、左弁官局は中務省式部省治部省民部省の四省を管轄し、右弁官局は兵部省刑部省大蔵省宮内省の四省を管轄します。

両局とも、諸省・諸国から舞い込んでくる庶務を処理して納言に上申し、宣旨や『官符〔かんふ/かんぷ〕』(=太政官が出す令達書)・『官牒〔かんちょう〕』(=太政官が他の役所へ出す照会書)を書くなど、太政官内での文書についての一切を担当します。

後に『弁官局』として一局にまとめられます。


 

左右弁官局職員構成


両局ともに、職員構成は以下の通りです。


  大弁(1名)→ 大史(2名)→ 史生(10名)→ 官掌(2名)→ 使部(80名)→ 直丁(4名)
  中弁(1名)  少史(2名)   |        |
  少弁(1名)            −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→ 召使(各2名)

 ※ 時代が下ると、左中弁に権官1名が置かれます。
   さらに、時代によっては、右中弁や少弁に権官が置かれる場合もあります。


『弁〔べん〕』・『史〔し〕』はそれぞれ左弁官局に属しているなら「左大史〔さだいし〕」、右弁官局に属しているなら「右大弁〔うだいべん〕」というように頭に「左右」を付けます。

史生〔ししょう〕・使部〔しぶ〕は下級職で、弁官局に限らずいろんな役所に置いてあります。召使〔めしつかい〕は、その史生・使部の下で雑役などを務めます。


 

弁官〔べんかん〕


大中少の弁を指して『弁官』と言います。【弁】=判=判断・判定、の意で、[へむ]と読んでいる場合もあります。
もし、同じ立場にある一方の弁官(たとえば左大弁から見た右大弁、右中弁から見た左中弁など)が不在のときは、その業務も併せて行います。


 

○ 『大弁〔だいべん/おおともい〕


管轄する役所の宿直〔とのい〕や諸国の朝集を認知監督し、庶事を受け付け、文案を作成・検討し、太政官内の糾判もする監査職です。あらゆる文書を担当するので文才のない人は『弁』になれません。
重職なので、参議が兼任している場合もあります。定員は両局に1名ずつです。

 

・ 大弁の別称


 『おおともひ〔おおともい〕

和名です。借字で「大鞆火」と書くこともあります。
由来は諸説あって、【ともひ】=率いる、の意だから「八省を率いる」ことだ、とか、「諸司諸国を伴い政治を行う」意味だ、とか、「大臣に伴う」意味だ、などといわれています。


 

○ 『中弁〔ちゅうべん/なかのお〕』・『少弁〔しょうべん/すないお〕


職掌は大弁と同じです。詔勅を草するので、やはり学問のない人は就くことができず(その資格がないとされます)、儒者や文章生〔もんじょうしょう〕の中から任命されます。


 

弁官の総称


 『七弁』

中・少弁は定員1名ずつですが、のちに、左中弁に権〔ごん〕官を置いてから、大弁と併せて7名になると、こう呼ぶようになります。(※ 右中弁や少弁に権官が置かれ『八弁』と言ったこともあります。)

 『六座』

左右の大・中・少弁を併せて言ったものです。

 『蘭省〔らんしょう〕』・『蘭台〔らんだい〕』・『握蘭の職〔あくらんのしょく〕

漢の『尚書郎』にあてたもので、尚書郎は親近の官なので「口に鶏舌香〔けいぜつこう〕を含み、手に蘭を握った」という故事があるため「握蘭の職」なのです。
「蘭省」はもとは太政官を指したのですが、後世になると弁官のみを指すようになります。


 

史官〔しかん〕


【史】=文筆を以て仕える、の意で、中国の官制に依ったものです。

外記・史・式部丞民部丞左右衛門尉などは、「顕官」と言って、下級官職のうちでは特に重要な職、とされており、上流とされる家柄出身ではない人(=「卑姓官人」)にとっては、叙爵への足掛かりとなる官職です。(『職原抄』では、外記・史・式部丞・弾正忠勘解由判官が「顕官」と解説されているようです。)
「顕官」には、「顕官の挙」ということがあって、これは、県召除目の二日目に、これらの職に任じる人を公卿に推挙させるものです。


 

○ 『大史〔だいし〕』『少史〔しょうし〕


『大史』は『おほともひ〔おおともい〕のおほい〔おおい〕さう官』とも言い、『少史』は『へむのすないさう官(=弁の少サカン)』とも言います。

『史』は、太政官の文書勘例を担当し、諸役所・諸国の庶務を取り扱います。
弁官局で実務を取り扱っている(実権を持っている)のはこの『大史』です。

『大史』は、通常は正六位上の人が勤めますが、従五位下で勤めたときには『史の大夫(=五位)』『大夫の史』『史大夫〔したいふ〕』『大夫史〔たいふし〕』などと言います
(※ この部分の≪≫で囲んだ記述は、ご指摘を受け、誤っていたことに気付きました。詳しくはこの下の太字になっている記述の(3)の項をご覧ください。)

一条天皇の代に、小槻宿禰奉親〔おづきのすくねともちか〕が左大史となって以降、その子孫が代々、左大史を勤め、のちには右大史も兼任するようになったので、左右弁官局は合併されます。
(※ この部分の≪≫で囲んだ記述は、ご指摘を受け、誤っていたことがわかりました。詳しくはこの下の太字になっている記述の(2)の項をご覧ください。)

『大史』が『禰家〔でいけ〕』と呼ばれている場合、この小槻氏の「姓〔かばね〕」が「宿禰〔すくね〕」だからです。

なお、小槻氏は算道の家柄で、鎌倉時代以降、壬生〔みぶ〕を住まいとする隆職〔たかもと〕流小槻氏=壬生家と、大宮通を住まいとする(少なくとも室町時代はそうだったようです)広房流小槻氏=大宮家とに分流し、中世を通じて次に述べる「官務」の地位をめぐるライバルとなります。


 

・ 『官務〔かんむ〕


どうも、古い時期に書かれた解説書や辞典などではいずれも「当初は『大史』を指して言う言葉だったが、平安時代以降、壬生小槻氏を指して言うようになる」といった説明がなされているようですが、その後、研究が進んで、比較的最近になって書かれたものでは、「弁官局の実務を統括する人、すなわち「史官」の最上首(最上席にある人)=最上席の左大史、を指して言う」といった内容の説明になっています。以下、最近の解説をまとめると....。

平安中期以降、左右弁官局は実質的に一つの局となり、最上首の左大史は、五位に叙され「大夫史」と称されて他の「史」以下を統括し、局内の実務を掌握するようになります。これを「官長者」「史長者」などとも呼んで、少納言局の「大夫外記(外記長者)」と並んで太政官の庶務を奉行するようになります。また、鎌倉時代初頭あたりからは『官務』の称が定着し、「大夫外記(外記長者)」はこれに応じて『局務』と併称されるようになります。
さらに、この頃から「官務」は「装束司史〔しょうぞくしサカン〕」を兼任するようになり、ひいては、それと関連する「主殿頭」をも兼任するようになります。
戦国時代以降〜江戸時代には、壬生家が独占世襲するようになります。
「大史」を指して「壬生みぶ」と言ったりするようになるのは、おそらくこの頃からなのでしょう(ここはわたしの推測)。


 

 このページの内容について、1998年07月に、中世の卑姓実務官人層の経済的基盤、及びその政治的動向などをテーマに大学院で勉強しておられる中島善久さんから、以下のようなご指摘のメールをいただきました。
どうもありがとうございました。中島さんの了解のもと、一部抜粋して掲載(改行位置他に若干の編集あり)させていただきます。
それから、中島さんへは、早いうちに転載についてご快諾いただいていながら、個人的事情のために本文への反映が著しく遅れてしまいましたことを深くお詫び申し上げます。

------以下、太字は中島さん----------------------------------

 さて、内容に関してですが、若干、私が気が付いた点がありましたので、ご報告いたします。

 (1) 本文では『官務局』『局務局』という用語をお使いになっておられますが、少なくとも史料の上ではこのような用語はみられないのではないでしょうか。論文等で上記の機構を記す際も、『弁官局』『外記局(王朝国家期では「少納言局」とする場合もあるようです)』の呼称が一般的だと思います。

このご指摘をいただくまでは、官制について解説された本の「(太政官は)「官務」と「局務」の両局になった」とか「「官務」と「局務」併せて「両局」と称した」といった文章を読み違えて誤解したままの状態でした。たしかに資料で「官務局・局務局」という称は見たことがありません。
今回、ご指摘を参考に、官務・局務が関わる文章を書き改め、また、官務についての説明を書き加えさせていただきました。謝々。
さらに、局務についても、官務と同様の誤り(=研究の進展)が見られたので、そちらも一緒に書き改め、かつ追加しました。

なお、お読みの方へ、用語について、少し補足させていただきます。
「王朝国家」というのは、一見、雅な「王朝時代の国家」を言い表す一般用語のように見えます(?)が、実は、1960年代頃から広く使われはじめた歴史用語で、古代国家である「律令国家」が終わりを迎え、中世国家である「封建国家」へ向かうまでの、過渡期の国家ないし国家体制を呼び表す概念です。

したがって、「王朝国家期」とは具体的には、平安中期の10世紀初頭〜鎌倉幕府成立以前までの平安後期、と見なすのが主流のようです。(つまり、たとえば奈良時代だとか最澄さん・空海さんの活躍した時代は、もちろん王朝はありましたけれども、王朝国家時代とは言いません。)
ただし、研究者によって、いつを律令国家の終わりと見、封建国家の始まりと見るか、などの立場がいろいろ異なりますので、10世紀後半からを王朝国家とする見解や、11世紀後半の院政成立をもって王朝国家の終末とする見解など、諸論があって、いまはまだ「王朝国家期」という用語の明確な時期設定はなされていません。

 (2) 本文では大夫史の説明で、「小槻宿祢奉親が左大史となって以降、その子孫が代々左大史を勤め、のちには右大史も兼任するようになったので左右弁官局は合併され」とありますが、史実として左大史上首が右大史を兼帯した事例はないようです。
 詳しくは橋本義彦「官務小槻氏の成立とその性格」(『平安貴族社会の研究』所収)、曽我良成「官務家成立の歴史的背景」(『史学雑誌』第92巻3号)を御覧頂けると良いと思います。
 また、中世後期近くになると、六位外記同様、右大史以下についても官司請負制が展開して、安倍・高橋・紀氏等が下級官史を独占し、殊に前二者に関しては「安大史」家・「高大史」家としてその地位の安定化が看取できます。詳しくは現在、論文にまとめておりますが、そのことから考えても、見任官務による右大史兼帯は誤りだと思います。

これについては、同時期に別の匿名希望の方からも、同様のご指摘をいただきました。(その方へも、本文への反映が著しく遅れてしまいましたことをお詫び申し上げます。)

その方は、壬生家を中心に中世の下級官人を勉強なさっていて「小槻が右大史を兼任した例はこれまでにほとんど見たことがない」とのことでした。
また以下は、その方のお話を若干編集してまとめさせていただいたものですが、

------ここ、太字は匿名希望の方------------------------------

「史」の組織では比較的早くから「官務」の地位が形成され、固定されましたが、その他のポジションは流動的で、短くて1年、長くても3年ぐらいで次々に交代しています。
平安時代の終わりから鎌倉時代の始めまでは、下位の左大史になった後、また場合によっては右大史になった後もですが、「史巡」で受領に任命され史を抜けるのが一つの出世街道になっていました。

例:右少史→左少史→右大史→下位左大史(ここへ来るまで1年〜3年)→受領

 その後、鎌倉時代の半ばになると「史」はそういう出世街道ではなく、小槻氏の門弟である安部・高橋・三善氏など長期にわたって「史」にとどまる一族によって構成されていきます。安部・高橋・三善氏は右大史を極官として活躍しており、特に安部・高橋の両氏は鎌倉時代の中期以降、右大史を世襲していき、安大史・高大史などと呼ばれていました。一方、小槻氏は、(鎌倉以降ですが、)幼少のころに主殿頭になり次いで左大史になる、というのがコースだったようです。

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とのことでした。どうもありがとうございました。

なお、「史巡」について、さらに伺ったところ、
「史巡」というのは「史」に与えられた国司補任申請権であり、官史を勤めて叙爵した人に与える恩典として慣例化された受領補任のこと、だそうです。

「巡」というのが国司補任申請権のことを指すそうで、「巡」は「史」のみに与えられた恩典というわけではなく、他に「蔵人巡」「検非違使巡」「民部巡」「式部巡」「外記巡」があり、いずれも六位の人がこの恩典を受けることになっていたようです。
どの職も激務だったため、このような恩典が用意されたようですが、それぞれに与えられていた国の数は「蔵人」5国、「史」4国、「検非違使」4国、「民部」3国、「式部」1国、「外記」1国と、計18国に及び、当てる国があまりに多すぎたため、順番待ちの状態になってしまい、人によっては30年近く待たされた人もいたらしい、とのことでした。

当てる国があまりに多くて順番待ちになる、とは少しわかりにくいですが、わたしは、この「巡」以外のルートから国司になる人々との兼ね合いで、受け皿である国の数の方が足りなくなり(受け入れ先として別のルートからのものとダブってしまい)、結果的にそうなるのかな、と勝手に納得してしまいました。(違ってるかも)
この「史巡」については、『官史補任』(続群書類従完成会)の解説に詳しく書かれているそうですので、気になる方はそちらをご覧になってみてください。(そして結果を官制大観までフォローしていただけましたら嬉しいです(^^;)

 (3) 本文では、「大夫史」と「史大夫」を同一視して使っておられますが、これは同じものではありません。
「大夫史」は文字通り「五位の官史」のことで、鎌倉後期・南北朝期の見任官務大宮秀氏・同冬直の四位昇叙を例外として、貞和五年以前は見任官務一人を指示する用語です(これに関しては拙稿「大宮流官務家の経済的基盤について」(『社会文化史学』第38号)にわずかですが記してあります。)。
それに対し「史大夫」は、右大史以下、六位史を勤めてその功績によって叙爵したという意味で、官史は前任官であり、現在は弁官局を離籍している(つまり現在は史ではない)散官をさす言葉です。前項の六位史の固定化に伴い、史大夫は官務家嫡流以外の小槻氏庶流出自者がその対象になったと考えられます。これも現在、「「史大夫」小考」という文章にまとめておりますが、基本的には外記局における少外記以下の動向と同じだと考えております。

これについても同様のご指摘を、先ほどの匿名希望の方からもいただいています。お恥ずかしい。どうもすみませんでした。

なおちなみに、これとそっくりな「大夫」の付く位置による対象の違い、に、たとえば五位蔵人と蔵人五位(=蔵人大夫)の例があります。
この種の呼び分けは、現代人(少なくともわたし)には、とてもややこしいのですけど、昔の人なら習慣的なものとして、ちゃんと聞き分けられたのでしょうかねぇ。

 (4) 本文では「顕官」の説明として、『職原抄』の記述を用いながら、これが具体的には外記・史・式部丞・弾正忠・勘解由判官を指し、これらが「貴く重要な官」であるから、とされていますが、この記述ではいまひとつ不明確なように感じられます。これらはいずれも「顕官挙」の対象となる官職であるのですから、「叙爵をするためには大変都合の良い官職、したがってその意味で卑姓官人にとっては、重要な官職」という説明を施されると、より分かり易いと思います。

これについては、ご指摘を参考に、関連のあるページ全ての当該部分を以下のように書き換え/加えました。さらにお気づきの部分がありましたら、(もちろんどなたでも)ご教示よろしくお願いいたします。

外記・史・式部丞・民部丞・左右衛門尉などは、「顕官」と言って、下級官職のうちでは特に重要な職、とされており、上流とされる家柄出身ではない人(=「卑姓官人」)にとっては、叙爵への足掛かりとなる官職です。(『職原抄』では、外記・史・式部丞・弾正忠・勘解由判官が「顕官」と解説されているようです。)
「顕官」には、「顕官の挙」ということがあって、これは、県召除目の二日目に、これらの職に任じる人を公卿に推挙させるものです。


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また、中島さんからは、壬生・大宮家についてもお話を伺いました。以下。

王朝国家期は、中世的「家」の生成期であって、この時期に「壬生」「大宮」等の「家名」が史料に現れるのはむしろ稀少な事例であるようです。
管見の限り、隆職流小槻氏が「壬生」と呼称されるのは、建久2年5月12日付「三善善仲書状案」の充所「進上 壬部(ママ)殿」(図書寮叢刊『壬生家文書』第2548号)が初見で、広房流小槻氏が「大宮」と呼称されるのは南北朝期に入った貞治3年、時の広房流当主小槻光夏を指した「大宮殿」が初見です(『師守記』同年7月18日条)。
結果としては、平安後期に広房流が何と言われていたのかは分かりませんが、少なくとも「壬生」ではないということは言えそうです。私は中世前期の史料に疎いもので、広房流小槻氏の邸宅が何処にあったかはわかりませんが、室町期と同様であれば大宮通とも考えられます。

補足ですが、中島さんのお話にある「充所〔あてどころ〕」というのは簡単にいうと「充名(宛名)〔あてな〕」のことです。ついでにいうと、その「充所」の上に付ける「進上」などの語を「上所〔あげどころ/じょうしょ〕」と言い、また、宛名を指しても「上所」と言う(つまりこの場合は「充所」と同義)ことがあり、宛名を書くところのことを「上所」と言うこともあります。

さて、さらに壬生・大宮家については、前述の匿名希望の方から「豆知識」も伺いました。せっかくなので、短く編集してご紹介させていただきます。

「官務」をめぐる、壬生・大宮両家の争いは、戦国時代に大宮家が断絶することで決着がつきます。
その大宮家断絶についてのハナシですが、大河ドラマの「毛利元就」に、大内義隆の愛人として登場していた「お才の方」を覚えてらっしゃいますでしょうか。その人が、当時の大宮家の当主である大宮伊治の娘さんであったそうです。こうした嫁入りは(?)、その当時の、都ではまともな生活ができないために、地方の有力大名を頼って下っていった貴族の典型的な例なのだそうです。大宮家当主伊治は、その縁もあって山口に下向中、陶の反乱が起こり、巻き添えで討死してしまったために、大宮家は断絶してしまいました、とのことでした。

お二人には、詳しいご指摘や補足をいっぱいいただき、本当にどうもありがとうございました。

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 上記の内容について、2009年12月に、ご趣味として前九年の役を調べておられる小林正弘さんより、
「小槻が右大史を兼任した例」について、

『朝野群載』の「太政官符」に康平七年三月廿九日付で
伊予国司の源頼義に宛てて出されたものがあります。
この官符の最後に「右大史小槻宿祢孝信」と記されています。

と教えていただきました。
小林さんの了解のもと、掲載させていただきました。 どうもありがとうございました。


 

史官の総称


 『八史』

大・少史を併せて8名になることから来たものです。


 

○ 『官掌〔かじょう〕


職掌は、訴えのあった人の申し出を伝え通し、使部を管理監督し、官府を守当し、時に応じて鋪設をすることです。





 

少納言局


詔勅・宣旨などの清書、及び、除目・叙位・その他の儀式などを担当します。後に『外記局』とも呼ばれるようになります。


 

少納言局職員構成


  少納言(3名) → 大外記(2名) → 史生(10名) → 使部(43名)
  権(員外)少納言  少外記(2名)

史生〔ししょう〕・使部〔しぶ〕は下級職で、少納言局に限らずいろんな役所に置いてあります。ただし、養老令では、少納言局に使部は置かれていません。


 

○ 『少納言』


『侍従〔じじゅう/おほとひと〕の人員のうちに入ります。
和名で『すないもの申す司』『すないものぶうし』などとも言い、さほど重要ではない事柄(小事)に関する上下のパイプ役で、詔勅宣下を担当し、内印(=天皇御璽)・鈴・伝符を請進し、飛駅の函鈴を進付し、外印〔げいん〕(=官印=太政官印)を管理します。

定員は3名ですが、他に奈良朝では「員外〔いんがい〕少納言」、平安朝では「権〔ごん〕少納言」があります。

はじめは要職だったのですが、『侍従』を兼任する習いになっていたため十分に局内の執務を行えず、次第に実権を『外記』に奪われてしまいます。さらに、令外の官職「蔵人所〔くろうどどころ〕の勢力が増してからは職権もなくなり、名ばかりの職となります。
(※ この「名ばかりの職になった」という表現は、少し検討しなければいけないかも。少納言の説明は後日、書き改めようと思っています。)


 

○ 『外記〔げき/とのしるすつかさ〕


中務省の「内記〔ないき〕の作った詔書を検討修正し、太政官の奏文を作り、公文書を読み上げ、また、先例を考えて恒例・臨時の儀式の執行を担当する職です。文筆に長じ儒官を経た人でなければなりません。

『大外記』は通常は六位の人が勤めます(延暦二年以降)が、年功で五位に上がったときには『外記大夫(=五位)』と言います。

平安中期以降、明経道の清原・中原氏が代々、大外記に任じられるようになりますが、清原氏(舟橋家)は、室町時代以降には、少納言へ進み「侍読」を勤めて三位に昇るようになります。

外記・式部丞民部丞左右衛門尉などは、「顕官」と言って、下級官職のうちでは特に重要な職、とされており、上流とされる家柄出身ではない人(=「卑姓官人」)にとっては、叙爵への足掛かりとなる官職です。(『職原抄』では、外記・史・式部丞・弾正忠勘解由判官が「顕官」と解説されているようです。)
「顕官」には、「顕官の挙」ということがあって、これは、県召除目の二日目に、これらの職に任じる人を公卿に推挙させるものです。

 

・ 『局務〔きょくむ〕


少納言局の実務を統括する人、すなわち「外記」の最上首(最上席にある人)=最上席の大外記、を指して言います。弁官局の「官務」と併称されます。

少納言局では、時代とともに、大外記が局内の実務を掌握するようになり、五位に叙される例も多くなります。平安中期以降、最上首の大外記を「大夫外記」「外記長者」などとも呼ぶようになり、「大夫史(官長者)」と並んで太政官の庶務を奉行するようになります。
鎌倉時代初頭あたりから「大夫史(官長者)」を『官務』と称するのに応じて、『局務』の称が定着していきます。
『少納言局』が『外記局』と呼ばれるようになるのも、実権がこの『局務』にあったためです。
またこの頃から、「局務」は「穀倉院別当」を兼任するようになります。
江戸時代以降、中原氏(押小路家)が独占世襲するようになります。




[太政大臣・左右大臣・内大臣・准大臣] [大納言・中納言・参議] [弁・史/少納言・外記]

[神祇官] [太政官] [八省] [職〔しき〕] [坊] [寮] [司] [監] [署] [台] [府] [所] [使] [外官] [下級職員・その他]

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