[正法寺ホーム] [沿革] [浄土真宗のキーワード] [浄土真宗の基本]
[仏教なんでも相談] [リンク集] [墓地新区画募集中] [MAP]
[フォトギャラリーインド仏跡編] [フォトギャラリー・ブータン編] [天竺紀行][築地本願寺の意匠][小林永濯・永興展][坊守のたわごと][住職の日記]
_承元元年(1207年)、親鸞聖人は念仏布教の咎により京都を追われました。師の法然上人は四国に、親鸞聖人は越後に流罪となりました。四国へ流罪となられた法然上人とは今生の別れとなりました。 |
番号 |
名 前 |
いわれと所在地 |
1 |
国府の片葉の葦 |
聖人が越後で最初に配流になった国府では、国分寺境内の草庵に居 住していたが、ある日この地の居多神社に詣で「わが念願を守りて、その奇瑞をあらわし給え」と祈願をこめたところ、境内に生えていた葦が一夜のうちに片葉になったと伝えられている。 |
2 |
田上の繋ぎ榧 |
通称「田上の繋ぎ榧」と申しているのは、洋食器で有名な新潟県燕市近くの田上の護摩堂山の麓にあるご旧跡のことです。 |
3 |
鳥屋野の逆さ竹 |
親鸞聖人が国府から鳥屋野へ来られ、草庵をむすんでお念仏のみ教えを説かれていた頃、親鸞聖人は人々にみ教えをひろめようとされましたが、誰一人耳をかそうとしませんでした。親鸞聖人は「我が弘むるところの仏法、もし仏の意にかなうなら、この枯れた竹にかならず根も芽も生じるであろう」と持っていた竹の杖を大地に突き刺されました。その言葉通り、やがて竹の杖に根が張り芽が出ました。しかし、この竹は親鸞聖人が逆さに杖を刺されたのか、枝葉が下に向いて繁茂し、後に立派な竹藪になりました。大正11年国の天然記念物に指定されています。 |
4 |
山田の焼鮒 |
信濃川を挟んで鳥屋野の対岸に山田という集落があります。聖人は鳥屋野の草庵から山田にもお念仏を伝えにお越しになっていました。 |
5 |
保田の三度栗 |
親鸞聖人が保田の里にこられたとき、一人のはたを織るおばあさんがお念仏のみ教えにふれてたいそうよろこぴました。そのよろこびをあらわそうにも、おばあさんはどうしていいかわからず、たまたま持っていた栗の実を焼いて親鸞聖人にさしあげました。そして、お名号の交付を願いました。ところがその場に一枚の紙もありません。おばあさんは、たまたまそこにあった大切な織りかけの布をさいてさし出し、聖人はそこに「南無阿弥陀仏」と書いてお与えになりました。聖人はその後、おばあさんからいただいた焼栗を、帰る途中の「上野が原新山」というところで土に埋め、「わが勧むる弥陀の本願、末世に繁盛いたすならば、この栗ここに根芽を生じ、一年に三度花咲き実るであろう」とおおせになりました。その言葉の通り、栗の木は年に三度花と実をつけたと伝えられています。また、1枚の葉の先が2枚に別れて成長したといわれています。当時の木は枯れてしまいましたが、現在では若木が育ち、今でも1年に3度実をつけています。 |
6 |
小島の八房の梅 |
小島の里でのご教化の途中、親鸞聖人は一軒の家に宿をおとりになりました。そしてその家のあるじ夫婦に、「世路にまぎれて生きる者の、生死を出づべき道は、本願の念仏を聞き、他力廻向の信心のほかにありえない」とお話になり、それを聞いた夫婦は涙を流してお念仏のみ教えをよろこびました。夫婦がおぜんに出した塩づけの梅を、聖人は手にとって、「弥陀の本願を信じまいらせ浄土往生疑いなくば、この漬けたる梅より芽を生じ、花一輪に八つの実を結んで末代まで繁り栄え、凡夫往生の証拠となるべし」とおっしゃって庭前に埋められるや、やがて枝葉は四方にひろがり、花八重の紅の梅の花が咲き、一輪に八つの実を結ぶようになったと伝えられます。 |
7 |
小島の数珠掛桜 |
親鸞聖人が、暫く逗留されていた小島の草庵を出立されるとき、その手に掛けられた百八の数珠を道の辺の桜の木にかけ、「わが弘むる他力本願のみ法にいつわりなくば、花房、数珠のごとく咲くであろう」 とおっしゃったところ、その通り、今に至るまで、うすくれないの花が、数珠のふさのように長くたれ下って咲くようになった言われています。この桜の木も、昭和2年、国の天然記念物に指定されています。 |
浄土真宗本願寺派正法寺 〒156-0043東京都世田谷区松原5−43−30 TEL03-3321-0205 FAX03-3321-0660