越後の七不思議

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  _承元元年(1207年)、親鸞聖人は念仏布教の咎により京都を追われました。師の法然上人は四国に、親鸞聖人は越後に流罪となりました。四国へ流罪となられた法然上人とは今生の別れとなりました。
 親鸞聖人は、越後国府(現在の上越市、五智国分寺)に2年程居られましたが、その後蒲原地方を行脚され、信濃河畔鳥屋野(現在の新潟市)の里に住まわれていました。建暦元年の流罪赦免になるまでの約5年間、各地で説法に努められた際、幾多の不思議な出来事が起こったと言われています。これが親鸞聖人の「越後の七不思議」と珍重され、いつしか聖人を慕う人々の心の現れとなって、聖人の遺徳を偲び訪れる人々が絶えなくなりました。中には学術的に貴重なものとして国の天然記念物に指定されたものもあります。

 

番号

名 前

いわれと所在地

国府の片葉の葦
こくぶのかたはのあし

聖人が越後で最初に配流になった国府では、国分寺境内の草庵に居 住していたが、ある日この地の居多神社に詣で「わが念願を守りて、その奇瑞をあらわし給え」と祈願をこめたところ、境内に生えていた葦が一夜のうちに片葉になったと伝えられている。
(新潟県上越市・居多が浜、五智国分寺、国府別院界隈)

田上の繋ぎ榧
たがみのつなぎがや

通称「田上の繋ぎ榧」と申しているのは、洋食器で有名な新潟県燕市近くの田上の護摩堂山の麓にあるご旧跡のことです。
ある日のこと親鸞聖人が、護摩堂城の城主宮崎但馬守に招かれて参上し、み仏の法話を説かれた折、城主は、お茶受けにと榧の実を献じられました。この榧の実は、農民が年貢米の代りに納めたり、飢饉や洪水でお米の穫れない時に食用にしたもので、糸を通して珠数のように繋いで保存していたそうです。
親鸞聖人ほ、その一粒を地に植えて仏縁を説かれたところ、芽を出して生え茂り、実を結んだそうです。しかも不思議なことに、青々とした葉が表と裏ひっくり返しになっているのが見受けられ、これをお手返しの榧とも呼んでおります。
  我が跡を慕うて来いよ繋ぎ榧
     み法のあとを通すひとすじ
と聖人は詠まれております。了玄寺の庭にある天然記念物の榧の老木(樹齢760年)は、500年ほど前、城跡から移植きれたものと伝えられています。
(新潟県南蒲原郡田上町田上・大谷派了玄寺)

鳥屋野の逆さ竹
とやののさかさだけ

親鸞聖人が国府から鳥屋野へ来られ、草庵をむすんでお念仏のみ教えを説かれていた頃、親鸞聖人は人々にみ教えをひろめようとされましたが、誰一人耳をかそうとしませんでした。親鸞聖人は「我が弘むるところの仏法、もし仏の意にかなうなら、この枯れた竹にかならず根も芽も生じるであろう」と持っていた竹の杖を大地に突き刺されました。その言葉通り、やがて竹の杖に根が張り芽が出ました。しかし、この竹は親鸞聖人が逆さに杖を刺されたのか、枝葉が下に向いて繁茂し、後に立派な竹藪になりました。大正11年国の天然記念物に指定されています。
(新潟市鳥屋野・大谷派西方寺)

山田の焼鮒
やまだのやきふな

信濃川を挟んで鳥屋野の対岸に山田という集落があります。聖人は鳥屋野の草庵から山田にもお念仏を伝えにお越しになっていました。
建暦元年十一月、流罪をゆるされた聖人は、鳥屋野の草庵を出立され、見送りの信徒と共に山田で別れの宴を催されました。その折、信徒の一人が焼いた鮒を聖人に献じました。聖人は、つけていた袈裟を傍らの楠にかけ、「わがが真宗のみ法、仏意にかない 念仏往生間違いなくんばこの鮒 かならず生きるべし」とおっしゃり、この焼いた鮒を近くの山王神社境内の池に放されたところ、不思議にも鮒は生き返って泳ぎ出したと伝えられております。それ以来、この付近の鮒には、焼いた跡のように色が黒く残っているとのことです。
また、寛政八年、山王神社境内の大楠の枝が大風のため折れてしまったので切ったところ、切り口に親鸞聖人のお姿と焼き鮒の形が現れました。人々は聖人の偉徳の現れとして山王神社の神官田代家に安置し聖人を偲ぶようになりました。
(新潟県西蒲原郡黒埼山田・田代家)

保田の三度栗
やすだのさんどぐり

親鸞聖人が保田の里にこられたとき、一人のはたを織るおばあさんがお念仏のみ教えにふれてたいそうよろこぴました。そのよろこびをあらわそうにも、おばあさんはどうしていいかわからず、たまたま持っていた栗の実を焼いて親鸞聖人にさしあげました。そして、お名号の交付を願いました。ところがその場に一枚の紙もありません。おばあさんは、たまたまそこにあった大切な織りかけの布をさいてさし出し、聖人はそこに「南無阿弥陀仏」と書いてお与えになりました。聖人はその後、おばあさんからいただいた焼栗を、帰る途中の「上野が原新山」というところで土に埋め、「わが勧むる弥陀の本願、末世に繁盛いたすならば、この栗ここに根芽を生じ、一年に三度花咲き実るであろう」とおおせになりました。その言葉の通り、栗の木は年に三度花と実をつけたと伝えられています。また、1枚の葉の先が2枚に別れて成長したといわれています。当時の木は枯れてしまいましたが、現在では若木が育ち、今でも1年に3度実をつけています。
(新潟県北蒲原郡安田町保田・大谷派孝順寺)

小島の八房の梅
こじまのやつふさのうめ

小島の里でのご教化の途中、親鸞聖人は一軒の家に宿をおとりになりました。そしてその家のあるじ夫婦に、「世路にまぎれて生きる者の、生死を出づべき道は、本願の念仏を聞き、他力廻向の信心のほかにありえない」とお話になり、それを聞いた夫婦は涙を流してお念仏のみ教えをよろこびました。夫婦がおぜんに出した塩づけの梅を、聖人は手にとって、「弥陀の本願を信じまいらせ浄土往生疑いなくば、この漬けたる梅より芽を生じ、花一輪に八つの実を結んで末代まで繁り栄え、凡夫往生の証拠となるべし」とおっしゃって庭前に埋められるや、やがて枝葉は四方にひろがり、花八重の紅の梅の花が咲き、一輪に八つの実を結ぶようになったと伝えられます。
(新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村小島・本願寺派梅護寺)

小島の数珠掛桜
こじまのじゅずかけさくら

親鸞聖人が、暫く逗留されていた小島の草庵を出立されるとき、その手に掛けられた百八の数珠を道の辺の桜の木にかけ、「わが弘むる他力本願のみ法にいつわりなくば、花房、数珠のごとく咲くであろう」 とおっしゃったところ、その通り、今に至るまで、うすくれないの花が、数珠のふさのように長くたれ下って咲くようになった言われています。この桜の木も、昭和2年、国の天然記念物に指定されています。
(新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村小島・本願寺派梅護寺)

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