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官制の沿革:

古代(氏姓制度・部民制)

(最終更新日:98.10.02

 − 目次 −




 

古代(大化改新以前)の氏と姓


倭王権樹立後、6世紀後半の飛鳥時代(聖徳太子らの時代)となっても、まだ特に役所というものは置かれていなかったようですが、職名に類するものはそれなりにいろいろできてきます。現代、これら職名に類するものを総称して『臣〔おみ〕・連〔むらじ〕・伴造〔とものみやつこ〕・国造〔くにのみやつこ〕』と言っています。これはそのまま、当時の支配身分を呼び表す呼称でもあります。

当時の支配身分は『氏〔うじ〕単位で王権に仕えています。
この「氏」というのは、現代の「苗字+氏〔し〕」という言葉から受ける印象「親類・血縁」とはやや異なり(この当時の日本には、同じ血族が代々名乗る名前「苗字(姓〔せい〕)」の概念はありません)、(父系・母系とに限らず)同じ祖先を持つとする人々の同族集団であると同時に、特殊技能・祭祀・軍事などの世襲的な職によってそれぞれ「氏」ごとに王権に仕える「政治組織」です。5世紀後半〜6世紀前半頃に形成されていくようです。
以下、私感ですが、任侠映画などで「ワシの身内にナニすんじゃい」みたいなセリフが使われることがありますよね。そのような(?)「同じ血が流れている」という「ミウチ」感覚を持つ集団が「氏」であると言っていいかなと思います。

この当時(律令制定前)はどうだったかわかりませんが、少なくとも律令制定後の「氏」は、「氏上〔うじのかみ〕」「氏人〔うじびと〕」、及び、「氏賎(氏奴)〔うじのせん/うじやっこ〕」などの「奴婢〔ぬひ〕」によって構成されています。

「氏上」とは、「氏」を代表する首長のことで、「氏長〔うじのおさ〕」「氏宗〔しそう〕」などと言い表すこともあり、平安以降は「氏長者〔うじのちょうじゃ〕」と呼ばれるようになります。

「氏人」とは、「氏上」と同じ「氏名〔うじな〕(=それぞれの「氏」の固有名)」や「姓〔かばね〕(後述)」を名乗り、同じ「氏神〔うじがみ〕(=「氏」の祖先神や守護神・縁故神)」をまつる人々です。
ただし、時代が下ると(いつ頃くらいかわかりませんが荘園制の発達した頃くらいかな)、祭祀に直接関わる構成員のみを指して「氏人」と呼ぶようになります。
さらに室町時代頃以降、「氏神」が地域の鎮守神と混同されて地域全体の守護神へと変質するにつれ、「氏人」も「氏神」をまつる地域民を指す「氏子〔うじこ〕」へと移行します。
「氏子」の概念は現代でも続いてますね。この現代の「氏子」に父系・母系とに限らない同祖意識と内部での階層意識を加えたような集団、それがこの当時の「氏〔うじ〕」です。

「氏賎(氏奴)」は、記録に残された実例としてはひとつしかないようですが、「氏人」の分割相続の対象とはならない奴婢、つまり「氏上」だけに代々一括相続される奴婢だったようです。(※奴婢などの賎身分については、「官制の沿革『大宝令・養老令(二官八省制)』」の令制における良賎制の項を参照ください。)

これらの「氏」の中には、「玉作〔たまつくり〕氏」のように、個々の具体的な職業を「氏名〔うじな〕」にしている場合があります。このような氏族を「負名氏〔なおいのうじ〕」と言います。(※平安時代の「負名〔ふみょう〕」(=田地耕作・税納入の現地責任者)と同じ字ですが概念は全く異なるものです。)
「氏名」の多くは地名や職業ですが、この他、「飛鳥衣縫〔あすかきぬぬい〕氏」のように「地名+職業」となっているもの、また「蘇我田口氏」のように「本宗氏(=本家)の氏名+地名」となっているものがあります。(この「+職業」または「+地名」の部分は学術用語で「複姓〔ふくせい〕」と呼びます。)

「氏〔うじ〕」の政治的/社会的地位を示す称号(大まかな職掌、または、出自・家柄を表す称号)が『姓〔かばね〕』です。ただし、あくまでも称号(記号)なので、汎用的であり、「姓〔かばね〕」によって個々の具体的な職業まで判断できるわけではありません。
(※「称号」というと、伯爵などの言葉を連想して、「尊称」号と思いがちですが、ここで言う「称号」は「レッテル」という感じで理解してください。「蔑称」号である場合もあります。)

現代の例に置き換えてみると、ある見知らぬ人が「先生」と呼ばれているとき、職業こそ医者/学者/芸術家/教育者/法律家、その他いろいろ考えられる(特定できない)けど、とにかく[エライ人]なわけね、と想像がつきますよね。この「先生」という言葉のように「立場」「属性」を具体的な称号にして表したのが「姓〔かばね〕」です。(「姓〔かばね〕」はエライ人だけに付けられたわけではありませんが。)

「姓〔かばね〕」は、「氏」が形成される以前は、その同族集団ないしは特定個人に対し用いられていた尊称でしたが、「氏」の成立後は、それらを秩序付ける称号として王権から与えられるようになり、王権によって変更されない限り、代々世襲されることになります。

近年の研究では、本来「姓〔かばね〕」は、王権内での政治的・社会的地位の継承に伴って特定個人に対し与えられた称号で、必ずしも子孫にまで継承すると決まったものでもなかったけれども、律令制の導入期に、中国から「姓〔せい〕」(家筋)の概念も取り入れられたことで、「姓〔かばね〕」は「氏名〔うじな〕」と結びつき、「氏〔うじ〕」集団の称号へと転化した、と考えられるようになっているようです。

のちの天智天皇の代、664年(天智3年)に、「氏」は、「大氏」「小氏」「伴造」に三分されます。
「氏名〔うじな〕」は「良民」の身分を表すものとなり、「氏名」と「姓〔かばね〕名」をあわせたもの(たとえば「蘇我臣〔そがのおみ〕」)が「姓〔せい〕」として戸籍に登録されることになります。「姓〔せい〕」の変更は、大王〔おおきみ〕(天皇)固有の権限となります。

以上のような、職の世襲を行う「氏」によって構成され、それを「姓〔かばね〕」によって秩序付ける政治システムを「氏姓制度」と言います。
ただし、同族集団が、必ずしも[倭王権に仕える政治組織]としての「氏」を形成したわけではないので、この時代のすべての同族集団が氏姓制度によって支配されたわけではありません。

当初の「姓〔かばね〕」は「臣」「連」の他、「別〔わけ〕」「君〔きみ〕」「造〔みやつこ〕」「首〔おびと〕」「史〔ふひと〕」「村主〔すぐり〕」「直・費・費直〔あたい/あたえ〕」などさまざまあります。
これらはのちの天武天皇の代、684年(天武13年)に、整理されて8種類の「八色の姓〔やくさのかばね〕(=「真人〔まひと〕・朝臣〔あそみ〕・宿禰〔すくね〕・忌寸〔いみき〕・道師〔みちのし〕・臣〔おみ〕・連〔むらじ〕・稲置〔いなき〕」)」にまとめられます。

なお、王族(皇族)は、「氏〔うじ〕」ではないので、それを秩序付けるために王権から与えられる「姓〔かばね〕」もなく、したがって「氏+姓〔かばね〕」である「姓〔せい〕」もありません。


 

姓のいろいろ

 

『君/公〔きみ〕


『君』や『公』の「姓」を持つのは、多くは第9代開化天皇以降の王室を祖先と称する氏族で、概ね、畿内の中小豪族、または、倭王権下にきっちりと取り込まれてはいない地方の独立的大豪族、その他、(天津神を祖と称する大王〔おおきみ〕(天皇)家や畿内豪族に対して)国津神を祖と称する国津神系の地方豪族です。
(「八色の姓」制定後、それまで「君/公」姓だった氏族のうちの有力な氏族は、第1位の「真人」や第2位の「朝臣」の姓を与えられます。)


 『犬上公〔いぬがみのきみ〕

畿内の中小豪族です。

 『上毛野君〔かみつけののきみ〕』『肥君〔ひのきみ〕

地方の独立的大豪族です。

 『大三輪君〔おおみわのきみ〕

国津神系の氏族です。

 『車持公〔くるまもちのきみ〕

車持を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。

 『酒部君〔さかべのきみ〕

醸酒を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。


 

『臣』


最も尊重された「姓〔かばね〕」だといいます。「臣」姓を持つ氏族は、都近くに住んで朝政を担当しており、倭王権との関わりが深いです。多くは居住地名を「氏名〔うじな〕」としており、第8代孝元天皇以降の王室を祖先と称しているようです。
(「八色の姓」制定後、それまで「臣」姓だった氏族のうちの有力氏族は、第2位の「朝臣〔あそみ〕」の姓を与えられ、「臣」は第6位の姓となります。)


 『蘇我臣〔そがのおみ〕

武内宿禰(この宿禰は人名)を祖とする7氏族のひとつです。大化改新後の七世紀末以降も、嫡流は石川朝臣として継がれていきます。
武内宿禰を祖とする7氏族は他に、「許勢臣〔こせのおみ〕」「平群臣〔へぐりのおみ〕」「葛城臣〔かつらぎのおみ〕」「紀臣〔きのおみ〕」「波多臣〔はたのおみ〕」「江野間臣〔えのまのおみ〕」があります。

 『膳臣〔かしわでのおみ〕

調理を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)

 『土師臣〔はじのおみ〕

凶儀を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)


 

『連〔むらじ〕


「臣」と並んで最も尊重された「姓〔かばね〕」だといいます。「連」姓を持つ氏族は、都近くに住み「伴造〔とものみやつこ〕」として「職業部」を率いて倭王権に仕えており、「臣」姓を持つ氏族と同様、倭王権との関わりが深いです。「負名氏〔なおいのうじ〕」(=職業を「氏名〔うじな〕」とする氏族)の「姓」には、「連」が多いようです。
「伴造〔とものみやつこ〕」である氏族は、この「連」または「造〔みやつこ〕または「首〔おびと〕の「姓」を与えられていますが、このうち、「連」の「姓」を与えられているのは上位の氏族で、多くは天津神を祖と称しています。
(「八色の姓」制定後、それまで「連」姓だった氏族のうちの有力氏族は、第3位の「宿禰〔すくね〕」の姓を与えられ、「連」は第5位の姓となります。)


 『物部連〔もののべのむらじ〕

宮城の護衛、及び、法律を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。武官職で、3種の「武夫〔もののふ〕」(=「来目部〔くめべ〕」「靱負部〔ゆげいべ〕」「大刀佩部〔たちはきべ〕」)を率います。

 『大伴連〔おおとものむらじ〕

宮城の護衛を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。武官職で、3種の「武夫〔もののふ〕」(=「来目部〔くめべ〕」「靱負部〔ゆげいべ〕」「大刀佩部〔たちはきべ〕」)を率います。
(「大伴」氏の名は、後に、淳和天皇(9世紀前半在位)の諱〔いみな〕(=(生前の)本名)「大伴〔おおとも〕」を避けて、「伴〔とも〕」に改められます。)

 『中臣連〔なかとみのむらじ〕

祭祀を職とする「氏〔うじ〕」です。(間違っているかもしれませんが、こういう官職系のものは「負名氏〔なおいのうじ〕」とは言わないようです。)

 『斎部連〔いんべのむらじ〕

祭祀を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。

 『多米連〔ためのむらじ〕

(たぶん)卜筮に関わることを職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)
「多米」とは「兆」とも書いて、亀卜に生じる割れ目のことを言います。調べてませんけど、【米】とか【兆】とかの字はその様子を表しているかもしれませんね。(....余談ですが、このとき、亀甲の真ん中にできる縦筋の、上の方を「ほ」、下の方を「と」と言います。失礼)

 『玉作連〔たまつくりのむらじ〕

造玉を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)

 『爪工連〔つまたくみのむらじ〕

造蓋〔ぞうがい〕を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)
【造蓋】って、よくわからないんですが、【爪】が骨系のものだとすると、象牙とか鹿角なんかを加工したのかな。貝なんかは象嵌〔ぞうがん〕って言うけど、それも含まれるのかしら。

 『掃守連〔かにもりのむらじ〕

掃除を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)



 

『造〔みやつこ〕


「造」姓を持つ氏族は、概ね「伴造」で、都近くに住んでいることが多いようです。
(「八色の姓」制定後、それまで「造」姓だった氏族は、第5位の「姓」である「連」の姓を与えられます。)


 『水取造〔もいとりのみやつこ〕

水漿を職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)

 『服部造〔はとりべのみやつこ〕

(たぶん)衣服に関わることを職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)

 『鏡作造〔かがみつくりのみやつこ〕

鏡作りを職とする「負名氏〔なおいのうじ〕」です。(「八色の姓」制定後の「臣」かもしれません。)


 

『首〔おびと〕


「首」姓を持つ氏族は、概ね、地方の「伴造」、もと「県主」であった氏族、村落の首長、或いは渡来系といわれている氏族です。
この姓は一時期、聖武天皇の諱〔いみな〕(=(生前の)本名)「首〔おびと〕」を避け「[田比]登〔ひと〕」に改められますが、間もなく元に戻されます。


 『商長首〔あきひとのおさのおびと〕』『海部首〔あまのおびと〕

伴造です。

 『志紀首〔しきのおびと〕

もと「県主」です。

 『大戸首』

村落の首長です。

 『西文首〔かわちのふみのおびと〕

渡来系といわれている氏族です。


 

『史〔ふひと〕


「史」姓を持つ氏族は、概ね文筆に従事する、渡来系といわれている氏族です。
この姓も一時期、藤原不比等〔ふひと〕の名を避け「[田比]登〔ひと〕」に改められますが、間もなく元に戻されます。


 『船史〔ふねのふひと〕』『白猪史〔しらいのふひと〕

どんな氏族だったか知りません(^^;


 

『村主〔すぐり〕


「村主」姓を持つ氏族は、概ね、下級氏族や、渡来系といわれている氏族の首長です。【すぐり】は朝鮮語を語源とし、尊称の「勝〔すぐれ〕」を意味したとされます。


 『高向村主〔たかむくのすぐり〕

坂上氏系の氏族です。


 

『直・費・費直〔あたい/あたえ〕


「直」や「費」「費直」の「姓」を持つ氏族は、概ね「国造」や、その後裔である「郡司」です。


 『開中費直〔かうちのあたい〕

どんな氏族だったか知りません(^^;


 

『部〔べ〕


この「姓〔かばね〕」は、「賎称」号ではないですが、「卑称」号の類と思います。
ただ、これについては、官司制の原初形態と評価される面もあり、また、倭政権 → 王権 → 朝廷という政治支配の発展の過程にも関わる(※「律令官制の沿革」の氏姓制度・部民制を参照)ということで、説明が長くなりますので、別に独立して「部民」という項を設けました。


 

その他の称号


以下に挙げるものは「姓〔かばね〕」ではありませんが、当時用いられた称号です。


● 『別(/和気/和希/穫居)〔わけ〕

5世紀以前の大王〔おおきみ〕(天皇)や、その子(皇子)、その他、在地の首長に付けられた称号です。

● 『大臣〔おおおみ〕

「臣」姓を持つ氏族から選ばれこれを総轄する、倭王権の最高執政官の称号で、「大連」と並ぶものです。5世紀後半頃から始まったようです。この時期、まだ律令などの規定はないので特に定員はありません。
具体的には、武内宿禰〔たけしうちのすくね〕(この宿禰は姓ではなく人名)を祖と称する7氏族のうち、蘇我〔そが〕・許勢〔こせ〕・平群〔へぐり〕・葛城〔かつらぎ〕の4氏がこの称号を与えられていますが、6世紀後半、蘇我馬子が、勢力を争う大連の物部守屋を滅ぼしてから後は、蘇我氏の独占するところとなります。
「大臣〔おおおみ〕」の称号は大化改新で廃止され、以降は「左右大臣〔だいじん〕」という職名がこの立場を表すことになります。

● 『大連〔おおむらじ〕

「連」姓を持つ「伴造」の氏族から選ばれこれを総轄する、倭王権の最高執政官の称号で、「大臣」と並ぶものです。5世紀後半頃から始まったようです。この時期、まだ律令などの規定はないので特に定員はありません。
具体的には、大伴〔おおとも〕・物部〔もののべ〕の2氏がこの称号を与えられていますが、540年に大伴金村が失脚して以降、物部氏の独占するところとなり、蘇我氏と勢力を争います。6世紀後半、蘇我馬子によって物部守屋が滅ぼされて以降、「大連」の称号は消滅します。


 

『部民〔べのたみ/べみん/ぶみん〕


「部〔べ〕」の「姓〔かばね〕」を与えられ、倭王権/王室/諸豪族に属した官有民・私有民を「部民」と言います。賎民ではなく良民ですが、公民よりも下位に位置づけられます。(※「良民」「賎民」などについては、「官制の沿革『大宝令・養老令(二官八省制)』」の令制における良賎制の項を参照ください。)

この「部民」の生産力を経済的基盤とする政治的社会体制を「部民制〔べみんせい〕と呼び、大化改新で「俸禄制」が導入されるまで実施されます。
ただし「俸禄制」導入後も、「部」姓は、「〜部」という形で戸籍に登録される「姓〔せい〕」となったので、そのまま残ります。

「部民」内部の統率者を「伴緒(伴男)〔とものお〕」(=専門職に従事する同族をたばねる者、の意)と言い、「部民」の上にあってこれら各種の「部民」を管理支配する豪族を「伴造(友造)〔とものみやつこ/ばんぞう〕」と言います。【みやつこ】=御奴、の意、すなわち、奴の上に立つ(エライ)人というニュアンスの言葉で、「伴造」には、「伴緒」の首長、という意味があるようです。

具体的には、「連」「造」「首」の姓〔かばね〕を与えられている氏族が「伴造」ですが、通常、「伴造」と言った場合には、このうちの「造」「首」姓を与えられた人を指して言います。「連」は上位の「伴造」であって、「御奴〔みやつこ〕」の概念を超えているので、特に「負名氏〔なおいのうじ〕」と言い分けます。
これら「伴造」は、令制では、「伴部〔とものみやつこ/ともべ〕」という下級役人に任じられます。(※読みは同じですが、用字が異なるので注意してください。)

「部民」はものすごく多様です。その従事・所属するところにしたがって、総称的に、いくつかの類型分類をすることはできますが、あまりに多様であるため、それぞれの性格付けや類型分類に諸説あってまとまりません。一応は、職業分担を示す中央の「〜部」(官司制の原初形態と評価されます)と、各地方の民を組織化する「〜部」とに大別することができ、一般的には、前者を「職業部〔しょくぎょうべ〕(品部〔しなべ〕)」、後者を「(御)子代〔(み)こしろ〕・(御)名代〔(み)なしろ〕」「部曲〔かきべ/うじのやっこ〕」と「屯倉〔みやけ〕・田荘〔たどころ〕の民」とに分類します。

それぞれの分類内部はいずれも「伴〔とも〕」と「部〔べ〕」の2種類で構成されています。
※ここで言う分類としての「部」は姓〔かばね〕の「部」とは違う概念なので、混同しないよう注意してください。「伴」も「部」も同じく「部」の姓〔かばね〕を与えられています。

「伴」は、所有者(倭王権・大王〔おおきみ〕(天皇)や王族・中央豪族)の宮城や居館に出仕して、「舎人〔とねり〕」(近侍・護衛の職務)「靫負〔ゆげい〕」(門衛・警備の職務)など、その名に示された何らかの分担職務(役割)に従事しています。

「伴」の出仕に関わる諸費用を在地で負担し、かつ、所有者の必要とする生産品などを貢納する集団が「部」です。

ということで、以下、「部民」の類型分類について説明します。


● 『職業部〔しょくぎょうべ〕』(『品部〔しなべ〕』)

「職業部」を説明する前に、まず「品部」について説明しておきます。
この当時の「品部」というのが具体的にどういう部民を指したものかはまだ研究途上にあります。有力なのは、「品部」とは以下に説明するような「職業部」のことを言った、とする説のようですが、他に、「部」一般を指して「品部」と言った、とする説もあって、まだ決着は付いてないようです。
令制導入後の「品部」は、特定の役所に置かれた「鷹戸」「船戸」「紙戸」など「戸〔べ〕」の集団を言い、技能を代々相伝する「常〔じょう〕品部」と臨時従業の「借〔しゃく〕品部」の2種に分けられます。 王権維持に必要な特殊技術・技能を有するとして、旧来の「職業部」を再編したものです。

「職業部」とは、倭王権に属する官有民で、王権維持に必要な(特殊)技能・技術をもって社会的分業に従事しています。ただし、通常は一般の民衆として生活しており、定期的に労働したり特産物を貢納したりしたもの、と考えられています。
以下、「職業部」と思われるものをずらっと挙げてみると、

「武夫〔もののふ〕」と総称される武官職である「門部〔かどべ〕」「来目部〔くめべ〕」「靱負部〔ゆげいべ〕」「大刀佩部〔たちはきべ〕」、
祭祀担当の「祝部〔はふりべ〕」「巫部〔かんなぎべ〕」、
亀卜担当の「卜部〔うらべ〕」、
文書に関わる「史部〔ふひとべ〕」「倭文部〔しどりべ〕」、
訴訟担当の「解部〔ときべ〕」、
倉庫担当の「蔵部〔くらべ〕」(「大蔵〔おおくら〕」「内蔵〔くら〕」)、
食に関わる「大炊部〔おおいべ〕」「舂米部〔つきしねべ〕」、
衣服織物等に関わる「神麻績部〔かんおみべ〕」「衣縫部〔きぬぬいべ〕」「錦部〔にしきべ〕」「染部〔そめべ〕」、
器物調度に関わる「陶部〔すえべ〕」「鍛部〔かぬちべ〕」「画部〔えかきべ〕」、
武具に関わる「弓削部〔ゆげべ〕」「矢作部〔やはぎべ〕」「楯縫部〔たてぬいべ〕」「鞍部〔くらべ〕」、
石棺作りを担当する「石作部〔いしきつくりべ〕」、
産業等に関わる「山部〔やまべ〕」「山守部〔やまもりべ〕」「海部〔あまべ〕」「宍人部〔ししひとべ〕」「養鵜部〔うかいべ〕」(「鵜」の字は本当は偏が廬で旁が鳥です。「廬鳥」)「鳥養部〔とりかいべ〕」「犬養部〔いぬかいべ〕」「猪甘部〔いかいべ〕」「馬飼部〔うまかいべ〕」、
その他「語部〔かたりべ〕」、
などがあります。

のちの令制(に於ける官司制)では、これら「職業部」の多くは廃止され、「雑色人〔ぞうしきにん〕」として再編されます。一部、「〜部」のまま特定の役所の配下に残されるものもありますが、奈良時代中期以降、次第にそれらも廃止されていきます。(※「雑色人」については、「官制の沿革『大宝令・養老令(二官八省制)』」の令制における良賎制の項を参照ください。)


● 『(御)子代〔(み)こしろ〕』『子代部〔こしろのべ〕

これについても説が分かれており、大王(天皇)やその他の王族(皇族)など王室に属する私有民だったとする説、倭王権に属する官有民だったとする説があります。【御】の字が付いているのと付いていないのとでも、有力なのは、同一のものであるとする説ですが、議論があるらしく、ややこしいです。
いずれにしても、国造に属していた地方の民を割取して、その労働・生産力を王族(皇族)の諸(費)用に充てたものと見なされており(ただし、ここでも「太子制」との関わりを指摘して、王子の、と限定する説があるようですが)、のちには『壬生部〔みぶべ〕 (乳部〔にゅうべ〕)』の名で統一されます。

なお、古く(?)「官職要解」には、子のない大王(天皇)の諱〔いみな〕を後世に残すために置かれた部民、という内容で解説されています。これも参考になるかもしれないので残しておきます。
例:「白髪部〔しらかべ/しらがみべ〕」=皇子のない清寧天皇の諱「白髪〔しらか/しらが〕」を伝える「部」。
(※ただし、この「白髪部」は、後に、光仁天皇(8世紀後半在位)の諱「白壁〔しらかべ〕」を避けて、「真髪部〔まかべ〕」に改められます。)

● 『(御)名代〔(み)なしろ〕』『名代部〔なしろのべ〕

これも王室に属する私有民で、大王その他王族の諱や宮号に「部」を付けた姓〔せい〕を与えられています。実態は「子代」と同様であるとして、諸説に於ける争点は「子代」と同じです。のちに『壬生部(乳部)』の名で統一されます。

なお、古く(?)「官職要解」には、王族(=皇族)の功業を後世に伝えるために置かれた部民、という内容で解説されています。これも参考になるかもしれないので残しておきます。
例:「健部〔たけるべ〕」=日本武尊〔やまとたける〕の功業を伝える「部」。

● 『部曲〔かきべ〕

諸豪族に属する私有民(『豪族所有部』)で、『うじのやっこ』とも言い、所有者である豪族の氏名〔うじな〕の下に「〜部」を付けた「蘇我部〔そがべ〕」「大伴部〔おおともべ〕」などの姓〔せい〕を与えられています。

「部曲」に関しては、646年の大化改新で、俸禄制が導入されたときに廃止されたとする説が有力ですが、それを前提とした上で、天智3年(664年)の「甲子の宣〔かっしのせん〕」で制定されたという『民部〔かきべ〕』『家部〔やかべ〕』と、天武4年(675年)に廃止されたという「部曲」との関わりを巡る議論もあります。

大化改新以前の「部曲」(要するにここで説明しているもの)が復活したのが「民部〔かきべ〕」であると見て、675年に廃止された「部曲」は「民部」とする説が有力ですが、675年に廃止された「部曲」は「民部」及び「家部」(=「家」に属する私有民)の両方を意味しているとする説もあります。

また最近では、「民部」「家部」は、王権が支給した「封戸〔ふこ〕」(その税を被支給者の諸費用に充てられる戸口)のようなものと見る見解もあるようです。(同じことじゃんと思ってしまいますが、どこが違うのかというと、まー、所有されているのか、税を納めるのかという違いかな〜(^^:? 「民部」「家部」については、まだよくわかりません。)
● 『屯倉〔みやけ〕・田荘〔たどころ〕の民』

「屯倉・田荘」に関わることは、ほとんど知らないのですが、わかる範囲で。

「部民」や「奴婢」に耕営耕作させる方式の農業経営拠点(農地でもあり収納施設でもあり)を、「屯倉〔みやけ〕」「田荘〔たどころ〕」と言い、前者は倭王権の所有、後者は「臣・連・伴造・国造・村主」等の所有、という違いがあります。
(※どちらも大化改新で廃止され、その後の農業経営拠点は「田庄〔たどころ〕」とか「〜庄」「〜荘」と言います。)

「屯倉」支配のために、倭王権が派遣した管理者を「田令〔たつかい/たつかさ〕」と言い、「屯倉」の耕作に従事した「部民」を「田部〔たべ〕」と言います。
「田部」は、ここでは別類にしましたが「職業部」の農民として分類されることもあり、また、多くは国造に属していた地方の民を割取したもの(ちなみに、6世紀前後の地方の屯倉は、倭王権に破れた地方豪族が献上した例が多い)なので、子代と同じものだとする説もあります。


 

『国宰(国司)〔くにのみこともち〕


「国司」と書くこともあったようですが、大宝令以降の地方行政官「国司」とは職掌が異なり、勧農や収穫管理などに従事します。
【みこともち】=「御言〔みこと〕持ち」の意で、つまり、大王〔おおきみ〕(天皇)の言葉を各地に伝えるため中央から派遣された、という名で、任国に滞在します。


 

地方の首長


この項は、「予備知識『諸国』」の、「地方行政単位の変遷」も併せて参照ください。


● 『国造〔くにのみやつこ〕

大化改新以前の「国」を治める世襲の首長です。旧来の在地首長「国主〔くにぬし〕」が、倭王権に服属して任じられた職で、軍事・裁判権などを保持しています。
「直・費・費直〔あたい〕」姓が多く、その他、「臣」や「君」などの姓を与えられていたようです。

大化改新後、令制では、諸国には中央から「国司」が派遣されることになり、かねてからその土地にいた「国造」は行政と関わりのない世襲の祭祀職となり、定員も設けられて一国に1名ずつとなります。それまで国造だった人で、その定員から漏れた人員の多くは「国」の下位組織である「評〔こおり〕」の役人に任じられ、その後「郡司〔ぐんじ〕」へと移行します。

● 『稲置〔いなき〕

大化以前の地方行政単位である「県〔こおり〕」(同じ字でも、倭王権の直轄地的性格の強い「県〔あがた〕」とは区別します)を治める首長です。
「八色の姓」の第8位の「姓」である「稲置」とは別のものですから注意してください。

「県〔こおり〕」は、「『隋書』倭国伝」などの記述から、「国」の下位組織であり、7世紀前半までに設置された、と考えられています。

● 『県主〔あがたぬし〕

大化改新以前の地方行政単位「県〔あがた〕」(同じ字でも「県〔こおり〕」とは区別します)を治める首長です。倭王権への従属度が高く、司祭者としての性格が濃いようです。

「県〔あがた〕」は、「国」の下位組織として設けられたとする説と、まず「国」に先行して西日本に置かれていたものが、のちに、「国」に再編されたとする説があります。
倭(のちの大和)地方にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「倭(大和)六県〔やまとのむつのあがた〕(=曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県)」の他、河内県・吉備県・筑紫県など、西日本に多く見られ、倭王権の直轄的性格が強いようです。


 

(官)職の構成


というわけで、令制が導入される以前の職の構成は、漠然と以下のようになっています。


  倭王権−−−−−−−王室−−−−−−−−氏−−−−−−−−−−−−−−−−−
    |       |      大臣   大連    |     |  |
    |       |      |    |     国造    |  |
    |       |      |    |    |  |   国宰 |
    伴造      伴造     伴造   伴造   県主 稲置     |
    |       |      |    |              |
    |       |      伴緒   伴緒             田令
    |       |      |    |              |
    部民      部民     部民   部民             部民
  (職業部(品部))(子代・名代)(部曲) (部曲)           (田部)
    |       |      |    |              |
    奴婢      奴婢     奴婢   奴婢             奴婢



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