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− 目次 −
摂政・関白はこの時期(9世紀半ば)以降から臣下の役として定着します。
幼帝・女帝の代行として政務・儀式を統括する役で、幼帝が成人したのち通常は「関白」となる習いです。【摂】=「総・兼・代」の意があります。
(幼年の応神天皇を母の神功皇后が摂政したのが始まりだ、などということもありますけれども)古くは593年に聖徳太子が摂政となっています。もとは天皇の母や皇太子が務めたもので、特に官職というわけではなかったのですが、幼帝清和天皇の代となった 858年に外祖父の太政大臣藤原良房が臣下として初の摂政に就任して以降、自然と公けの役名となり、藤原氏一門の役となりました。
ただ、良房の時期はまだ「摂政」という役名が臣下にはっきり与えられたとはいえず、関白との区別も曖昧です。しかし先の文徳天皇の代では太政大臣職にあって実質的に関白のような仕事をしていましたし、その後の清和天皇の代でも同様でしたが、清和天皇が元服して2年後の866年に「政を摂行せよ」との勅命をうけています。
なお、摂政から関白になるときには、まず摂政を辞すことになりますが、それを「復辟〔ふくへき〕」(=政を天皇に返す)と言います。【辟】=天子・諸侯、の意です。
成人後の天皇が病気その他の事情で政治を完遂できない場合に、「摂政」が引き続き勤める役で、「関白」よりもやや権限が強く、天皇の補佐・代行として政務・儀式を統括します。
(「摂政」からいったん「関白」となった後、改めて「准摂政」になった例もあります。)
幼帝の元服に伴い「摂政」が「関白」となる習いで(※良房はずっと摂政でしたが)、天皇を補佐して政務・儀式を統括する役です。
陽成・光孝・宇多天皇が引き続いて太政大臣藤原基経に関白を務めさせたのが始まりで、藤原氏一門の役です。
(基経は清和〜宇多の四代の天皇に仕えています。このうち清和天皇の代では良房同様、ずっと摂政でした)。
「関白」という呼称は、宇多天皇が藤原基経に下した詔書に「まず基経に『関わり白〔もう〕し』たのちに天皇へ云々」と書いたことからそののち自然と役名となったようです。
摂政・関白は、必ず『藤氏長者〔とうしちょうじゃ〕』(=藤原氏の族長)を兼ねており(つまり、藤原氏以外の人は摂政・関白になれないということです)、また、大臣職を辞してから務めた例外もありますが、通常は大臣が兼ねる役です。
時代が下ると、摂政・関白どちらも道長の子孫だけが受け継ぐようになり、鎌倉以降はその子孫が、近衛・鷹司〔たかつかさ〕・一条・二条・九条の五家に分かれて、交替して務めるようになります。よって、この五家は『五摂家〔ごせっけ〕』と呼ばれるようになります。
※ 平清盛が「平〔へい〕関白」と呼ばれることがありますが、藤原氏でない清盛は関白を務めてはいません。このように実際に関白でない者でも、権力があるために「○○関白」と呼ばれていることも多いです。当然、その場合の「関白」は役名ではありません。「亭主関白」てのもこの類ですね(^^)
醍醐天皇の頃以降ですが、通常、人々は摂政・関白を[てんが]と呼んでいたようです。
(※征夷大将軍も『殿下〔てんが〕』と呼ばれます。)
時代が下ると[でんか]と言うようになりますが、鎌倉時代まではまだ[てんが]と言っているようです。
(従って「頼朝殿下」は[よりともでんか]ではなく[よりともてんが]です。どうでもいいことですけど(^^; 「関白秀吉」の時代はもう[でんか]かなぁ。不明です。)
[しょうろく]は[せつろく]が音便化したもので、【摂】=「総・兼・代」の意があり、【録】=統べる、の意、つまり「摂録」は「天皇に代わって政治を統括する」という意味になります。
政柄を執る、の意。
「摂政・関白の始め」とある漢の霍光〔かっこう〕を「博陸候」と言ったところから来ます。
摂政・関白は職の順位とは関係なく「一座」(=第一等の座席)に着け、という宣旨を受けることから来る呼称です。仮に職は内大臣であっても摂政・関白の役を務めているなら、太政大臣よりも上座に着くことになります。
では『蔵人頭』と『摂政・関白』ではどちらが上座に着くか?
いまのところ不明なのですが、殿上では『蔵人頭』の方が上座に着くだろうと思います。しかし儀式の際などは『摂政・関白』が「一座」に着くのではないでしょうか。
※ 「一の人」については、天皇を指す「一人〔いちにん〕」、左大臣を指す「一の上〔いちのかみ〕」と紛らわしいので、混同しないよう注意が必要です。
前の摂政・関白に対する呼称です。
※ 大臣を指す「おほいどの」と紛らわしいので、混同しないよう注意が必要です。
「太閤」は『太閤下〔たいこうか〕』の略で「子に関白の職を譲った前の関白」という称号です。(※在職中に「太閤」と称した例もあります。)
「禅定太閤」=出家した太閤で、略して「禅閤」となります。
摂政・関白の妻には北の政所の宣旨が下されます。【政所〔まんどころ〕】=内政を執る、の意です。
摂政・関白の母には大北の政所の宣旨が下されます。略して『大政所〔おおまんどころ〕』とも言います。
【令外〔りょうげ〕】=令に定められてない、の意で、概ね、大宝令制定後に置かれた官職を指してこう言います。
(※ 概ね、と云ったのは、内大臣のように、一応、令制定以前から置かれていたけれども、たまたま令制定の時期には廃止されており、令に定められることはなかったが、その後また復活した、というものもあるからです。)
ただ、長く継続したもの(「中納言」「参議」や「内匠寮」「左右近衛府」「蔵人所」「検非違使」など)はほんの僅かで、ほとんどは時代が下るとともに、吸収・廃止されます。
(※恵美押勝〔えみのおしかつ〕・弓削道鏡〔ゆげのどうきょう〕が行った紫微中台・法王宮職の設置や官名の変更は、極端な事情や機能があるので別物として、ここでは省略します。)
宮殿造営のための臨時の役所です。平城宮では「省」、長岡宮では「使」、平安宮では「職」として置かれています。
「帯刀(舎人)寮」のことかな?
天皇親衛の『舎人』(『帯刀〔たちはき〕』)を管理した役所です。
※ 『授刀舎人寮』『中衛府』『外衛府』については『左右近衛府』参照。
諸国の「常平倉〔じょうへいそう〕」を担当します。
皇族が任じられました。准太政大臣くらいの地位だったり准大臣くらいの地位だったり、時期によって違います。
左右大臣の下に置き、のちに『内大臣』としました。
途中一度、廃止されますが、のちに地方官の『観察使』が改称されて『参議』となります。
(※当初の『参議』との職掌の違い等は不明です。)
「本系帳」を勘査します。
「口分田」班給を担当します。
道ごとに1人ずつ六道に置かれます。のちに改称があって『参議』となります。
(※前に一度置かれたことのある『参議』との職掌の違い等は不明です。)
諸道に「使」と「判官」と「主典」を置いていました。
諸道の二、三ヶ国に1人ずつ置いてあって、管内国司の政蹟を調査し民情を視察します。
諸道に置いてあり、兵士・官船を検定します。
諸道にあって、凶徒を逮捕し、国司・郡司の治績を監査します。
畿内に置いてあり、管内国司の政蹟を調査し民情を視察します。
畿内に置いてあって、凶徒を逮捕し、国司・郡司の治績を監査します。
清和天皇の代に九国二島の「兵士」を廃止して置きます。(※「健児」との違いは不明。)
「兵士」を廃止したのち諸国に置いた、弓馬に秀でた選抜兵です。聖武天皇の代に一時廃止されますが、桓武天皇が復活します。当初2000余名でしたが、延喜式の頃には3650名以上いたらしいです。
※ 以下はすべて、征夷大将軍の折々の名称です。