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[律令官制の沿革] [古代(氏姓制度・部民制)] [大化改新直後(官制の導入:大臣・八省百官・国司・郡司)] [律令制定以後(六官制)] [大宝令・養老令(二官八省制)] [延喜式に至るまで(廃置分合の期間:摂政・関白・その他令外の官職)] [官職廃置分合年表(作成中)]


官制の沿革:

律令官制の沿革

(最終更新日:99.04.20

 − 目次 −




 

律令〔りつりょう〕官制の沿革


「律令制」とは、律令法(「律令格式」)によって国家の諸事を規定する政治制度です。
日本では唐の律令を模して、7世紀半〜10世紀頃まで(大化改新頃〜平安前期)の約350年間行われます。
その後は実質的に衰退して、摂関制 → 院政 → 武家制と移行していきますが、律令法も形骸化しつつ国家の基本法として明治維新まで存続し、明治政府には太政官制採用などの影響を与えます。

以下、律令導入以前の日本の諸制度から、順に述べていきます。
※「律」や「令」や「格」や「式」というのがどういうものかご存知ない方は、本文を読まれる前にあらかじめ、当ページ末の大雑把な用語解説「律・令・格・式」をご覧いただいておく方がわかりやすいかなと思います。


 

○ 族制の時代(4〜6世紀) − 氏姓制度・部民制


4〜5世紀までに、のちに畿内と呼ばれる地域の豪族連合によって、現代の日本の国土半分ほどを占める大規模政権(倭〔やまと〕政権)が誕生します。
(ちなみに邪馬台国は2世紀後半〜3世紀にかけての大国のひとつです。)

政権樹立後、この豪族連合は「王(大王)〔おおきみ〕」と呼ぶ君主を擁立していきます(倭王権に成長)。
この王権は、少なくとも5世紀半の雄略(第21代天皇)の頃には成立していたらしいことが確認でき、やがて「王」は7世紀後半の天武(第40代天皇)の頃くらいから「天皇」と称すようになります(※正式に「天皇」号が定められるのは持統3年(689年))。

5世紀後半〜6世紀前半頃より、王権に仕える政治組織として「氏〔うじ〕が形成され、諸豪族が世職世業の「氏姓〔しせい〕制度」のもとに秩序付けられるとともに、管理下の「部民〔べのたみ〕の生産力を経済的基盤とする体制(「部民制〔べみんせい〕が出来上がります。(倭朝廷の成立)
部民制は7世紀半ばの大化改新以前まで続きます。この時期はまだ、これといって体系的な官制・官職は定められていませんが、その原初形態として、部民制を位置づけることができます。

大雑把に、政権/王権/朝廷、の違いについて(個人的見解です)。
(国内にいくつかの勢力がある中で、)一定の政治権力を掌握したと認められる勢力を政権と呼びます(よね?)。
その政権内部で、特定人物に権力が集中し、みながその人物に「仕える」状態になったならば、その政権は王権へ進んだ、ということになります。もちろん、王権へと進んでも、そのまま政権であることには変わりありません。
これを逆に言えば、政権といっているうちはまだ、内部構成員がみな特定権力者一人に「仕えている」とは限らない、ということになります。複数勢力の連合政権などがその例です。
王が出現した後、たとえば、何をするにも全て王の「直接の」判断を仰がねばならない、という段階は、まだ王の統治機関(=朝廷)が成立していません。王を中心としつつ王の直接的な判断・命令に依存しない「組織体系」が整ったならば、その時点をもって、朝廷が成立した、ということになります。
倭の、政権/王権/朝廷の区分は、研究者によって、どの時期を境とするか、また境を設けないか、見解が異なると思いますが、わたし(研究者ではありません(^^;)は以上のように区分しています。

さらに6世紀には世襲的王制が成立したと見られ、少なくとも6世紀半の欽明天皇(第29代)以降は、王統(皇統=天皇家の血筋)が確立されています。ただし、この世襲的王制は氏姓制度・部民制の上に立っていますから、天皇の「専制」支配が「律令制を基盤」に行われる「古代天皇制」の段階にはまだ至っていません。

「専制」とは、君主(王・天皇)が国家の全権力を掌握しており、国家機関を自分の意志の執行機関としている支配体制を言い、日本では7世紀後半の天武天皇以降成立したと考えられるので、そこからが「古代天皇制」ということになります。
(ちなみにそれ以後の天皇制は、13世紀以降の南北朝の内乱を経て、天皇が実質的権力を失った室町時代以降の「中世的天皇制」、律令法に依らず憲法を基盤とする明治維新以降の「近代天皇制」、戦後(現代)の「象徴天皇制」、と移行します。)

この頃の倭朝廷の勢力範囲は、東は関東の群馬・栃木辺りまで、西は出雲地方を除き九州まで、とされます。

ただし、九州地方に関しては、6世紀前半の第26代継体天皇のときに起こった「磐井〔いわい〕の『乱』」で、筑紫君〔ちくしのきみ〕磐井が集めた軍勢は、福岡・佐賀・大分など北部九州全域を占めた------つまり、「乱」ではなく、二大勢力の「戦争」であった可能性があること、また、継体天皇の頃はまだ王統が確立されていなかった可能性があること、等に注意が必要です。

この後、6世紀から7世紀にかけて、王族をはじめ畿内諸豪族が、儒教・仏教など先進の文化・思想を取り入れ、他の勢力・文化を圧倒していくことで、倭朝廷は次第に統一国家としての力を充実させていきます。
一方その頃、中国大陸では、後漢滅亡後、約360年間続いた魏晋南北朝時代が幕を閉じ、巨大な統一国家、隋(6世紀末〜7世紀初頭)・唐(7世紀初頭〜10世紀初頭)が出現して、倭朝廷が政治的関わりを持ち続けてきた朝鮮諸国にも影響を及ぼしてきます。

隋・唐は、別の王朝でありながら、しばしばペアで扱われますね。隋は40年弱しか続かなかった短命の王朝でしたが、次の唐制の土台となる諸制度を作り、唐は隋の宮都を引き継ぎ、後を受ける形で成立した王朝でした。

 

○ 律令制黎明期(7世紀) − 位階・官制の導入/藤原遷都


7世紀初めの推古8年(600年)、倭朝廷は初の遣隋使を送り、大陸との直接の国交を実現します。これから後、倭朝廷は部分的に、律令の制度を取り入れるようになります。

まず、推古11年(603年)、聖徳太子の摂政10年目に日本初の位階制度、冠位十二階を規定し、また翌年(或いは2年後)には「憲法十七条」を作ります。
憲法十七条は、法律ではなく役人を訓戒する「教え」で、その思想は、法家思想・儒教・仏教に依っています。これによって、本格的な律令制導入に先立ち、そこで要求されることとなる儒教的な前提が倭国内に成立することとなります。

儒教とはどういうものか、大雑把にまとめると、春秋時代(紀元前8〜紀元前5世紀初頭)の孔子が説いたもので、男子一生の目的として「修身斉家治国平天下〔しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか〕」、つまり、国を治め天下を平らげるに至るよう、まずは我が身を正し修めることから課題として、立派な家庭を作りましょう、そのためには仁(親に親しむという自然の親愛の情を万人に及ぼす心のあり方)や、仁を具体化する制度としての礼を重んじましょう、このとき理想像としては堯・舜のような徳の高い天子を念頭に置きましょう、というような教えです。

律令は、こういう思想の上に作られたものですから、「教え」がある程度普及してないと成り立ちません。
たとえば、官僚制をやろうとした場合、そこでは官吏の成績考課ということが発生しますね。このとき、考課される側にあらかじめ「謙虚は美徳だ」などの儒教的感覚があってこそ、「功績があってもそれをいばらない謙虚な官吏はよい官吏だからプラス30点」とかの儒教的尺度で量る考課が、適切な評価として成り立ちます。
また、たとえば「名高い孝行息子がいるならば彼を表彰してやること」という制度を定めても、その任にあたる役人に孝行を美徳とする感覚がなかったら、業務遂行に支障を来すおそれがあります。
さらに!....と、しつこくなるので、もう例を挙げるのはよしますが、刑罰に関わる事柄となればなおさらです。

その約40年後、7世紀半ばの大化改新以降、倭朝廷は唐制を模して律令制を全面的に導入しはじめます。
「官僚制」を取り入れ、(現代の「機会平等」感覚とは異なりますが、一応は)出身ではなく人材による官吏任用などを定めて、諸役所や、大臣その他の官職(百官)を体系的に置くのはこの時からです。また、「良賎」の身分を定め、屯倉・部民を廃止して「公地公民」とします。
いろいろと試行錯誤があったようで役所の廃置分合・位階制の変更が繰り返されます。この頃の官制は「六官制」と呼んでいます。後の大宝令で定められる役所・官職とは構成や名称が若干違っており、いつ改称や廃置分合があったか、曖昧な部分が少なくありません。

ところで、少なくともわたしがずっとそうだったのですが、「大化改新」というのは蘇我入鹿が殺された皇極4年(645年)のクーデター(政変)を指すもの、と憶えておられる方は少なくないと思います。
けれども、あの政変は具体的には「乙巳〔いつし〕の変」と言います(乙巳というのはあの年の干支〔えと〕です)。そして「大化改新」とは、「日本書紀に書かれている、乙巳の変より始まった大化5年間の一連の政治改革」を指して言います。

さて、ではここになぜ「日本書紀に書かれている」との但し書きが付くのでしょう。これが「大化改新論争」とか「大化改新問題」などと呼ばれているもので、あらましは以下の通り。メンドくさい方はとばしちゃってください。
大化の改新政策は、法典を作るのではなく、次々と詔〔みことのり〕を出すことで施行されているのですが、日本書紀に載せられているその「改新の詔」(特に「大化2年正月の詔」)の信憑性について、70年ほど前から批判が行われています。また、その批判を受ける形でさらに、日本書紀に載せられた詔は後世の修正を受けているが、そのもととなった詔(「原詔」と呼んでいます)は実際にあった/なかった等々、論点・見解がいろいろと提出され、未だ決着が付かない状態なのです。
というわけで、記録の確かさに疑問が提出されているために、そこに書かれた内容については、「〜に書かれている」との但し書きが付けられることになります。

天智10年(671年)には、初めて太政大臣を置き、同時に初の令『近江令〔おうみりょう〕』二十二巻を施行し(た可能性があり)ます。
ただし、このときはまだ「律」は作られていません(「近江律」の存在を示す記録や形跡がありません)。

「近江令」は日本最古の令といわれますが、本文が現存せず、またその存在も後世の記録(「日本書紀」「(藤氏)家伝」「弘仁格式序」など)に依っています。次の「浄御原(律)令」とともに、両者の関係・その存在・成立時期・内容等について、諸説あります。

次の天武天皇の代からは、「古代天皇制」も成立し、いよいよ本格的な律令時代に入ります。
天武4年(675年)、朝廷は、諸氏に属する「部曲〔かきべ〕を完全に廃止して公民制を徹底し、天武10年(681年)頃からは、藤原京への遷都準備(開始時期不明)と並行して『浄御原令〔きよみはらりょう〕』撰定を開始します。
また、「禁色〔きんじき〕九十二条」などの単行法令(詔勅等の形で個別に出す法律)によって、親王〜庶民の服制(服装・服色、髪型など)を定め、諸氏の氏姓を改めて「八色の姓〔やくさのかばね〕」を規定し、冠位を爵位六十階(親王・諸王十二階、諸臣四十八階)へと改めます。

天武天皇の代に行われた服制や冠位の改正は、持統4年に施行される「浄御原令」とほとんど同じ規定であることから、編纂中の「浄御原令」の規定が編纂完了以前に単行法令の形で施行されたもの、とするのが通説となっているようです。
また、上で「浄御原令の撰定開始」と書いた部分については、「近江令の改訂開始」である可能性もあります。同じようなことみたいですが、この表現ひとつに、日本初の令は「いつ」作られたのかという問題、「浄御原令」が初の令だったかそうでないかという「浄御原令」自身の歴史的な意義の問題、それから、先行する「近江令」があったとするならば「浄御原令」は「近江令」のアレンジなのか別の新作なのかという問題、が関わってきます。

そうして7世紀末の持統4年(690年)、朝廷は『浄御原令〔きよみはらりょう〕』二十二巻を施行し、「六官制」の役所・百官等を、あらためて規定・任命します。

「浄御原令」の実在については諸説においても確かなものと認められていますが、「浄御原律」については、存在したか・施行されたかに諸説があり、はっきりとした決着は付いていないようです。
「律」は「令」よりも導入が遅れ、この頃ようやく唐律の全面的・体系的な継受期に入った、とする説が有力なようですが、ともかく、唐から輸入したままの形であるにしろ、国内で新たに編纂した「浄御原律」であるにしろ、この当時、「律」も存在しており実際に適用されていたことは確かなようです。

「浄御原令」施行から4年目の持統8年(694年)、朝廷は都を藤原京へ移し、律令制の最盛期を迎えます。


  推古11年(603)   冠位十二階の規定
  大化 1年(645)〜  唐制の導入
  大化 3年(647)   冠七色十三階の規定
  大化 5年(649)   冠十九階の規定
  天智 3年(664)   冠二十六階の規定
  天智10年(671)  『近江令』二十二巻施行
  天武 4年(675)   諸氏の「部曲〔かきべ〕」廃止
  天武10年(681)  『浄御原令〔きよみはらりょう〕』撰定開始
  天武13年(684)   諸氏の氏姓を改め「八色の姓」を規定
  天武14年(685)   冠位を改め、爵位六十階(親王・諸王十二階、諸臣四十八階)の規定
  持統 3年(689)  『(飛鳥)浄御原令〔きよみはらりょう〕』二十二巻頒布
  持統 4年(690)  『(飛鳥)浄御原令』施行
  持統 8年(694)   藤原京遷都

 

○ 律令制最盛期(8〜9世紀)

 

・ 8世紀初頭 − 大宝令・国号制定/平城遷都


藤原京遷都から3年目の大宝1年(701年)、文武天皇の朝廷は、冠位を廃止して親王四階、諸王十四階、諸臣三十階の位階を規定した後、刑部〔おさかべ〕親王(天武天皇の庶子・文武天皇の腹違いの兄弟)・藤原不比等〔ふひと〕(鎌足の子息で藤原氏繁栄の基礎を築いた人)撰修の『大宝律令〔たいほうりつりょう〕』律六巻・令十一巻を制定し(「日本」と用字する国号も、このとき正式に定めます)、翌年、諸国へ頒布・施行します。ここで日本における律令制が完成し、二官八省制が成立します。

日本の律令官制(二官八省制)は唐の官制と異なり、天皇の代理機関といえるものを置いている点が特徴と言えます。
すなわち、唐の官制では、詔勅を作成・記録・伝達する中書省と、それを審査する門下省、それを施行し百官を統括する尚書省、の「三省」を中心としますが、日本の二官八省制では、それらの機能を一括して有する太政官を中心としているのです。

「大宝律令」の原文は完全に散逸しており詳細は不明です。ある程度の内容は「令集解〔りょうのしゅうげ〕」等に引用される「古記〔こき〕(天平10年(738年)頃に成立した大宝令全篇の私撰注釈書)」の逸文等から伺えるので、いろいろと復原も試みられているようですが、研究者間でそれぞれ相違があって、まだ決定版と言えるようなものは出ていません。
「大宝律令」編纂・施行の経過等は「続日本紀〔しょくにほんぎ〕」に載せられた記事などから知ることができます。
ちょっと詳しくなってしまいますが、概ね以下の通りです。参考までに。
(※どの段階を編纂開始/終了とし公布・頒布・施行とするかは、説によって若干違いますが、流れとしてはこんな感じで大丈夫と思います。)

  1. 持統11年(697年)     文武天皇立太子(2月)、または即位(8月)のときに、令の編纂開始
  2. 文武 4年(700年) 3月  令の編纂を終了、律の撰定開始
  3. 大宝 1年(701年) 3月  位階・服制、及び、左大臣以下125人の位号の改正、大納言以上の任命(令の部分的施行)
  4. 大宝 1年(701年) 6月  中央での、令の全面的な施行開始
  5. 大宝 1年(701年) 8月  律の編纂を終了(大宝律令の完成)
  6. 大宝 2年(702年)10月  律令の諸国頒布
  7. 大宝 2年(702年)11月  造籍(大宝戸籍)----律令の全国的施行開始

続く元明天皇の代、和銅3年(710年)、平城京への遷都を行い、その翌年、親王以下の俸給を位階に依ることを定めます。

ちなみに、「倭〔やまと〕の国名(国号ではなく朝廷発祥の地とされる地方国名です)を2字に定めたのも元明天皇の和銅6年(713年)で、「倭」に大を付けて「大倭〔やまと〕とし、このときから、他の諸国名も、一部の例外を除きほとんどが、後世と同じ用字になります。
この後、聖武天皇の天平9年(737年)、「大倭」を「大養徳〔やまと〕と改めますが、10年で「大倭」に戻します。
「大倭」を、「倭〔わ〕」に通じる「和」に改めて「大和〔やまと〕と書くことにするのは、「養老律令」が施行される天平勝宝年間(孝謙天皇の749〜757年)頃のことです(改字の記録が残されていないのではっきりした年は特定できません)。

神話「古事記」もこの頃完成させており、8年後には初めての正史「日本書紀」を完成させます。

  持統11年(697)  「大宝令」の撰定開始
  文武 4年(700)  「大宝令」の撰定終了「大宝律」の撰定開始
  大宝 1年(701)  『大宝律令』律六巻・令十一巻制定
  大宝 2年(702)  「大宝律令」施行
  和銅 3年(710)   平城京遷都
  和銅 4年(711)   品位による禄法の規定
  和銅 5年(712)  「古事記」三巻完成
 

・ 8世紀前半 − 養老律令撰定/廃置分合


養老2年(718年)、次の元正天皇の朝廷は、「大宝律令」撰定に関わった藤原不比等に再び『養老律令〔ようろうりつりょう〕』を撰定させます。完成はその年内(養老2年)とされていますが、他に、養老4年の不比等の没後、たとえば養老5年末〜6年のはじめ等とする説もいくつかあります。
いずれにしても「養老律令」は早い時期に完成していながら、以後、約40年にわたる長期間、放置されることとなります。

「養老律令」は「大宝律令」に若干の内容修正・字句等の修正を施したに過ぎない、と言われています。「大宝律令」がきちんと復原されない限り、両者の比較についてはっきりした結論は出ませんが、いまのところ、「養老律令」における重要な変更点は全体(軽く1000条を超える)の1〜2%程度(約20ヶ所)に止まる、と了解していていいようです。

「養老律」十巻は、原文のほとんどが散逸してしまっていますが、諸書に引用された逸文から復原が進んでいるようです。
「養老令」十巻は、大部分が「令義解(養老令の公定注釈書)」や「令集解(養老令の私的注釈書の私的集成書)」の本文や注として残されており、「令義解」「令集解」から散逸している倉庫令・医疾令も、諸書に引用された逸文からほとんど復原されています。

この頃から、施行細則撰定の流れも生じます。
養老3年(719年)頃には、令文の不備を補い解釈を明確にするために『八十一例』を撰定、また、庶務の必要に応じて、各役所ごとに細則を作るようになります。
さらに聖武天皇の神亀年間(724年〜729年)頃には、『弾例』や『諸司例(式部省例・治部省例・民部省例・刑部省例・囚獄司例)』などを作っており、これら「例」は、役所ごとの施行細則編纂という点で「式」と同様であることから、後の「格式」編纂の前身となるものと見られています。

一方でこの頃は、養老7年(元正天皇の723年)の「三世一身法〔さんぜいっしんのほう〕」や、天平15年(聖武天皇の743年)の「墾田永年私財法〔こんでんえいねんしざいほう〕」など、律令法を特徴づける「土地公有」が、早くも(?)崩れていく時期でもあります。

「三世一身法」とは、新しく開墾した土地は一代限りで自分のものとしていいよ、そのとき灌漑施設も新しく作ったのなら、その土地は三代目(=三世)まで持っていていいよ、という法律です。
「墾田永年私財法」とは、ちょっと条件はあるけど、原則として新しく開墾した土地は無期限で自分のものとしていいよ、という法律です。

この辺りから、役所や官職は、廃置分合(廃止/新設/分割/合併・吸収)の時代に入ります。「大宝令」以降そのようにして追加した官職を「令外〔りょうげ〕の官職と言います。(【令外〔りょうげ〕】=令には定められていない、の意。)

聖武天皇の天平年間は、宮都を転々としますが、結局、平城京に戻って落ち着きます。


  養老 2年(718)  「養老律令」の撰定開始(・完成)
  養老 3年(719)頃 「八十一例」の撰定
  養老 4年(720)  「日本書紀」三十巻・系図一巻完成
  養老 7年(723)  「三世一身法」施行
  神亀年間(724〜729) 諸司例・弾例の編纂
  天平10年(738)頃 「古記」完成
  天平12年(740)   恭仁京遷都
  天平14年(742)   紫香楽宮造営
  天平15年(743)  「墾田永年私財法」施行
  天平16年(744)   難波京遷都
  天平17年(745)   平城京再遷都

 

・ 8世紀中盤 − 官制混乱・養老律令制定


天平勝宝9年(757年)5月、孝謙天皇の朝廷がようやく『養老律令』律令各十巻を施行しますが、この前後の約20年間、官制は、「紫微中台〔しびちゅうだい〕制」の設置や官名の変更・復旧、法王の設置などで混乱します。

まず、「養老律令」施行に先立つこと8年の天平勝宝1年(749年)、孝謙天皇の即位直後、太政官に並ぶものとして、皇后宮職〔こうごうぐうしき〕を改めた紫微中台を置き(「紫微中台制」)、藤原仲麻呂(のちの恵美押勝〔えみのおしかつ〕)を紫微内相〔しびないしょう〕に就けて、軍をも掌握させます。
この体制はこの後「養老律令」施行を経てなお、天平宝字4年(760年)に光明皇太后が亡くなるまで(または仲麻呂(押勝)の失脚まで、または光仁天皇の代に替わるまで(?))、11〜20年間続くことになります。

紫微中台の名は、唐の紫微省(=中書省)と中台(=尚書省)を組み合わせたもので、太政官と同様の天皇の代理機関です。この紫微中台には孝謙天皇の母、光明皇太后がおり、仲麻呂はその甥に当たります。紫微中台制は、後の上皇による院政の前身的なものとも言えますが、まもなく仲麻呂が太政官に移ってからは機能も低下し、廃止時期は未詳です。

また、「養老律令」施行の翌年、天平宝字2年(758年)の淳仁天皇の即位直後には、官名を中国風に、たとえば、太政官 → 乾政官〔けんせいかん〕、紫微中台 → 坤宮官〔こんぐうかん〕などと改定します。
この官名変更も、天平宝字8年(764年)の仲麻呂(押勝)の失脚(淳仁廃帝)直後、旧に復すことになります。

続いて、称徳天皇の神護景雲1年(767年)、法王宮職〔ほうおうぐうしき〕を設置します。これは、弓削道鏡〔ゆげのどうきょう〕のため前年に設置した法王(僧侶の王というような意味で、法皇(出家した上皇)とは別のものです)に関わる役所で、皇后宮職・東宮職などと同じ性質のものです。

このようなことがあって、神護景雲4年(770年)、称徳天皇の死に伴う道鏡の失脚直後、光仁天皇の朝廷は、これまでに置かれた令外の官については、重要なものを除き、全て廃止します。そうして「養老律令」の運用がようやく軌道に乗ることになります。

年代が若干前後しますが、「養老律令」施行2年目、淳仁天皇の天平宝字3年(759年)、石川年足〔いしかわのとしたり〕の発案で、はじめて「別式」二十巻が撰定されます。ただこれは有用との評価を得ただけで、施行されることなく終わります。(この理由については、年足は仲麻呂のブレーン的存在だったという事情が関係しているかもしれない、との指摘があります。)
また、称徳天皇の神護景雲三年(769年)、吉備真備〔きびのまきび〕・大和宿禰長岡〔やまとのすくねながおか〕が、律令二十四条を刪定します(「刪定律令」)が、翌年、称徳天皇の崩御にあって、その後約20年の間、放置されることとなります。


  天平勝宝 1年(749)   紫微中台の設置
  天平勝宝 9年(757)  『養老律令』律令各十巻施行(こののち天平宝字と改元)
  天平宝字 2年(758)   官名の改定
  天平宝字 3年(759)  「別式」二十巻撰定
  天平宝字 8年(764)   官名の復旧
  天平神護 1年(765)   太政大臣禅師の設置
  天平神護 2年(766)   法王の設置
  神護景雲 1年(767)   法王宮職の設置
  神護景雲 3年(769)  「律令二十四条」を刪定(=「刪定律令」)
  神護景雲 4年(770)   不要な令外の官の廃止(このあと宝亀と改元)

 

・ 8世紀末〜9世紀 − 長岡・平安遷都/格式施行


桓武天皇の延暦3年(784年)、長岡京に遷都し、延暦10年(791年)、放置していた『刪定律令』二十四条を施行します。
延暦13年(794年)には平安京に遷都し、延暦16年(797年)、神王・橘入居の奏上した『刪定令格』四十五条を施行します。
ただ、これら「刪定〜」の施行はかえって混乱の元となったらしく、「刪定律令」は約20年後の弘仁3年(嵯峨天皇の812年)に廃止、それからまもなく「刪定令格」も廃止したようです。
「刪定〜」は「養老律令」を刪定(若干の矛盾修正・字句修正)したもので、日本における「律令」編纂はこれが最後となります。

一方、この平安遷都の辺りから国史編纂を本格的に行うようになり、延暦16年(797年)に正史「続日本紀」四十巻を完成、律令制は「格式」編纂が主流となります。
延暦期(782年〜806年)には、「民部省例」を再編纂し、藤原内麻呂・菅野真道らに「格式」編纂を命じ、また、延暦22年(803年)、菅野真道らによる『撰定交替式』(『延暦交替式』)一巻の撰定、同じく22年または延暦23年(804年)、『官曹事類』三十巻の奏上などが盛んに行われます。
この時期から「養老令」の私撰注釈書編纂も盛んになり、「令釈」「跡記」「穴記」などが完成しています。

「延暦交代式」は、国司交替時の事務引継に関する法令集です。
「官曹事類」は、原文は散逸してしまっているようですが、「続日本紀」の編纂素材で、記事として採用しなかった事柄のうち、中央諸司の庶務施行に関する事項を抜き出してまとめたものです。

「令釈」は、延暦6〜10年(787〜791年)に完成した「養老令」の私撰注釈書です。原文は散逸しており編者も不詳ですが、「養老令」のまとまった条文解釈書としては最古のもの、また当時最も権威があったもの、として知られています。
「跡記」「穴記」も、それぞれ阿刀(安都)姓、穴太〔あなほ〕姓の明法家の手に成る「養老令」の私撰注釈書で、延暦年間に完成しています。

延暦期の「格式」編纂は、桓武天皇の崩御にあって一時中断しますが、次の平城天皇を経て、嵯峨天皇の代(809年〜823年)、藤原冬嗣・秋篠安人らによって再開され、弘仁11年(820年)4月に、『弘仁格式』格十巻・式四十巻(大宝〜弘仁の「格式」を諸司ごとに集大成したもの)として奏進され、諸司で検討の後、10年後の淳和天皇の天長7年(830年)、全面的に施行します。

平城・嵯峨天皇の頃には、官職に大幅な廃置分合を行います。
このうち特に、嵯峨天皇の大同5年(810年)に追加した「蔵人所〔くろうどどころ〕」、弘仁7年(816年)に追加した「検非違使〔けびいし〕」といった令外の官が、この後次第に勢力を伸ばしていきます。
またこの9世紀前半頃から「班田収受法」の実施を大きく崩し、10世紀には完全に行わなくなります。

「班田収受法」とは、土地公有の考えに基づいて、良賎の民に対し、生活・納税の基盤として、身分や家族数に応じた田を班給・収還する、という日本の律令における基本田制です。

淳和天皇の天長10年(833年)、諸説があった「養老令」の条文解釈を統一するため、清原夏野・小野篁・菅原清公らに勅命して、官撰注釈書『令義解〔りょうのぎげ〕』十巻を撰進させます。これは、令文とともに注釈部分も一定の法的強制力を持つとし、翌年、仁明天皇の承和1年(834年)施行します。
この少し後、承和7年(840年)には正史「日本後紀」四十巻を完成させています。

次の文徳天皇を経て、清和天皇の貞観年中(859年〜877年)には、新規に格式を作るというのではなく、「弘仁格式」の改訂・増補を行いつつ併用する目的で『貞観格式』を撰定し、貞観11年(869年)に「貞観格」を、貞観13年(871年)に「貞観式」二十巻を施行します。
この頃、「養老令」の私撰注釈書「令集解〔りょうのしゅうげ〕」も完成しており、正史については、貞観11年に「続日本後紀」二十巻、元慶3年(879年)に「日本文徳天皇実録」十巻を完成させています。

「令集解」は、惟宗直本〔これむねなおもと〕が、「令義解」の勅撰によって、「令釈」「跡記」「穴記」等、養老令に関する明法家の私記(それぞれの解釈を記したもの)が写されなくなったことを惜しんで、それらを集大成したもの、とされており、「弘仁格式」の引用があって「貞観格式」の引用がないことから、貞観年中の成立と考えられています。

  延暦 3年(784)   長岡京遷都
  延暦10年(791)  「律令二十四条」(『刪定律令』)施行
  延暦13年(794)   平安京遷都
  延暦16年(797)  「令格四十五条」(『刪定令格』)頒布・「続日本紀」四十巻完成
  延暦22年(803)  『撰定交替式』(=『延暦交替式』)一巻の撰定・頒布
  延暦23年(804)  『官曹事類』三十巻の奏上
  弘仁 3年(812)  「刪定律令」廃止
  弘仁11年(820)  『弘仁格式』格十巻・式四十巻撰進、『弘仁格』施行か(?)
  天長 7年(830)  『弘仁格式』施行
  天長10年(833)  『令義解』撰進
  承和 1年(834)  『令義解』施行
  承和 7年(840)  「日本後紀」四十巻完成
  貞観10年(868)  『貞観交替式』施行
  貞観11年(869)  『貞観格』施行・「続日本後紀」二十巻完成
  貞観13年(871)  『貞観式』二十巻施行
  貞観17年(875)  『左右検非違使式』撰進
  元慶 3年(879)  「日本文徳天皇実録」十巻完成
  寛平 2年(890)  『蔵人式』撰進

 

○ 律令制衰退期(10世紀) − 延喜式/摂関時代への移行


醍醐天皇の延喜1年(901年)または5年(905年)、律令制の再完備を図り、藤原時平らが『延喜(格)式〔えんぎしき〕』を撰進しますが、完成しないまま延喜9年に時平が亡くなります。「延喜格」は、延喜7年(907年)に完成、翌年施行されており、その後、「延喜式」撰定は藤原忠平らへ移りますが、醍醐天皇の度重なる撰修促進命令によってもなかなか捗らず(編纂当事者が相次いで亡くなったためか)、結局、再撰進までに20〜25年余りの年月を費やし、康保4年(967年)の頒布(施行)までにはさらに40年の歳月を要します。

「延喜格」は、はっきりとした編纂開始の記事がありませんが、「式」と同時に開始されたと見てよいようです。
「延喜式」は、併用の不便があった「弘仁式」「貞観式」を併合して1本にまとめることを主目的としており、すでに行われなくなっている制度に関する規定が残されていたり、設置後100年を経て、この後ますます勢力を誇ることになる「蔵人所」「検非違使」などが、その組織図に載せられていなかったりします(「左右検非違使式」「蔵人式」は「貞観式」の施行後、単独に撰進されています)。そのため「延喜式」は、律・令・格・式を完備するという形態面では、律令整備の(最後の)努力を示すもの、と考えられ、内容面の充実は問題とされなかったことから、律令制形骸化の例証、とも考えられます。

延喜1年には、最後の正史となる「日本三代実録」五十巻を完成させています。この後も国史編纂は一応続けるものの、正史として完成させることなく消えていきます。

この頃、中国大陸では、西暦907年、約300年間続いた唐が滅亡します。


  延喜 1年(901)  「日本三代実録」五十巻完成
  延喜 5年(905)  『延喜式』十巻選進(或いは延喜1年だったか)
  延喜 7年(907)  『延喜格』選進 / 唐滅亡
  延喜 8年(908)  『延喜格』施行
  延喜21年(921)  『延喜交替式』撰定
  延長 5年(927)  『延喜式』あらためて選進
  康保 4年(967)  『延喜式』頒布

正確な意味での「律令時代」はここで終焉を迎え、この後は、臣下の摂政・関白が権勢を誇る、いわゆる「摂関時代」となります。(平安女流文学が盛んになるのもその頃からです。)
役所や官職の廃置分合はほとんどなくなる一方、蔵人・検非違使などの勢いがますます盛んになるにつれ、これらに実質的な職権を奪われて、有名無実となる役所・官職が出て来ることになります。

「公家法」が発達してからは、「律令法」の個々の規定も、基本法として存続はするものの、ほとんど行われなくなります。
そうして、「摂家〔せっけ〕・清華〔せいが〕・諸大夫〔しょだいぶ〕」といった家筋による昇進規定が立てられていくにつれ、朝廷に世職世業のおもむきも戻ってきます。


 『公家法』

「律令法」のもとで形成された慣習法です。
いわゆる摂関時代以降、律令法は体制と適合しなくなりますが、朝廷は、新たな法典を編纂することなく新法を創出し、また、蓄積された先例を参考にし、或いは、律令の解釈を変更したりすることでそれに対応します。
このような平安後期〜鎌倉時代を通じて運用された公家権力の法体系を「公家法」と言い、具体的には以下のような形で行われました。

「公家法」は「武家法」にも影響を与えますが、室町時代にはほぼ効力を失います。


 『武家法』

「公家法」のもとで成長した武士社会の慣習を規範化したものです。
13世紀初頭に成立した鎌倉幕府は、「公家法」には依らず、武士社会の慣習法に基づいて裁判を行います。
そうして貞永1年(1232年)、武家の道理に基づいた法慣習を成文化した最初の武家法典である『御成敗式目』を制定、幕府支配圏に公布します。それ以降、幕府支配圏では、「御成敗式目」を基本として、それを補足・修正する追加法が、随時発せられることとなります。このやり方はそのまま室町幕府にも受け継がれます。
このようにして鎌倉時代以降、中世の武家社会内部で成立し、発展していった法を「武家法」と言います。


 

用語解説

 

律・令・格・式



 『律令格式〔りつりょうきゃくしき〕

「律令」と「格式」の総称で、「律令法」のことです。

律令法は、中国の秦・漢代(紀元前3世紀半ば〜紀元3世紀初頭頃)以降、しだいに発達して、隋・唐代(6世紀末〜10世紀初頭頃)に大成した基本法(典)で、その内容は儒教的な勧戒を示しています。優秀な中央集権技術と見なされたらしく、周辺の東アジア古代中央集権国家に広く普及しました。

日本以外の律令制国家は、たとえば、7世紀の新羅(統一王朝)、8世紀の渤海(ツングース系)、10世紀の遼(契丹族:蒙古系)や高麗、12世紀の金(女真族:ツングース系)などがあります。

律令法は、(少なくともある程度発達した5世紀辺りからは)以下の3点を特徴とします。
 ・「官僚制」的な統治システム
 ・「良賎制」に基づく身分法
 ・「土地公有」を本質とする土地法

 『律令〔りつりょう〕

「律」と「令」の総称。また、「律令格式」を略して「律令」と言うこともあります。

 『格式〔きゃくしき〕

「律令」の補助法(「格」と「式」)の総称。つまり「律令」を補足・修正・増補するもののことです。
※ 〔かくしき〕と読むと、慣習儀礼なども含む現代語の、身分・儀式などについての決まり、の意になります。

 『律』

刑法(刑罰によって強制する法律)を定めた成文法典。

 『令〔りょう〕

行政法などに相当する成文法典。官制もここに定められています。
※ 〔れい〕と読むと、口頭での命令・不文法まで含む現代語の、掟や決まり、の意になります。

 『格〔きゃく〕

「律令」の部分的改正として臨時に発した詔勅・官符(役所指示)の類、また、それらを編纂した書のことです。
※ 漢音ではなく、律令時代の古い時期に用いられた呉音によって〔きゃく〕と読みます。
律令の条文は、他の漢籍と異なり呉音で読む伝統があったようで、これは鎌倉幕府の「御成敗式目」にも一部継承され、室町幕府まで続いたようです。

 『式』

「律令」を施行する際の細則を定めるものです。現代語では「方式」という言葉で表現してるような事柄を定めています。

たとえば、「令」に「各役所は、年に2度、職員へボーナスを支給すること」という規定があるとき、「式」では、実際にそれを行うにあたって必要な規則「(1).ボーナスは毎年6月20日と12月20日に支給する」「(2).ボーナスの額は各自の年収の半額とする」といった具体的な規定が示されます。

本来、「律令」とともに備わっているべきものですが、日本では、8世紀以降になって、このような細則が「〜例」という名で編纂されるようになり(八十一例・式部省例・民部省例・弾例など)、9世紀以降になってようやく、「式」の名称を用いた成文法(弘仁式・貞観式・延喜式など)が編纂されるようになります。

 『例〔れい〕

日本における「格式」の前身であるらしく、「令」文の不備を補ったり解釈を明確にしたり、また役所ごとの施行細則を定めるものだったりします。


 

制定・撰定・撰進・撰修など(おまけ)



 『制定』

公の立法機関で一定の手続きに従って法律を定める、という言葉です(単に「掟・規則として決める」という場合にも使います)。
法律を決めた、という段階で、実施はこの次の段階となります。
なお、慣習法や判例法といった不文法は通常「制定」されずに実施されているものです。

 『施行』

法律の実施。法令の効力を現実に発生させることを言います。

 『公布』

広く知らしめること、世間に発表することをいいます。

 『頒布』

広く知らしめるために配布することをいいます。

律令時代当時、新しい法律を実施するには、法律完成後、まずその法律文書を諸国に行き渡るようたくさん複製し、その後、諸国の役所に配布して、こういう新しい規定になったよと知らせることが必要で、それが全面的改定の場合には、併せて法律の内容を解説してあげる人(博士)も派遣しなくてはなりませんでした。
なわけで(?)、ふつうは、制定 → 頒布 → 公布 → 施行、の順になるところですが、当時のやり方を見てると、公布や施行のあとで頒布してることもあるようです。

 『撰定』

書物などを作り定めること、また、多くの文章・詩歌からよいと思うものを選び出すことを言います。
【撰】=文章・詩歌の述作・著述・編集、の意で、「選定(=選んで定める)」とは少し意味が違っています。
※ 「撰定」の段階では、まだ「こうしようと決めた」だけのことで、法として定めるには至っていません。

 『撰進』

文章・詩歌を作ったり集めたりして天皇に奉ることを言います。
※ 天皇に見せた(提案した)、というだけのことで、そのあとどうなるかは別の問題です。

 『撰修』

文章・詩歌を選んで著述・編集することを言います。
※ 著述・編集を行うだけのことで、そのあとどうするかは(この言葉には)関係ありません。

 『編集(編輯・編緝)』

一定の企画・体系のもと、資料・原稿等を集めて整理し、新聞・雑誌・書籍等の内容をまとめ(作り)あげることです。

 『編纂・纂修・纂輯』

作業としては「編集」と同じことですが、書物を作りあげるというニュアンスが強い気がします。新聞・雑誌の場合には言わないと思います。

 『編修』

これも作業としては「編集」と同じことですが、特に国史編纂の場合などに言います。

 『刪定・刪修・刪正』

「編集」作業のうち特に、文章や字句の悪いところ・不要なところを削ったり訂正したりして、よいものに変えることを言います。





当ページ作成にあたって参考にさせていただいた主な書籍(敬称略):

「日本思想体系3 律令」井上光貞・他校注 岩波書店
「新訂増補国史大系 令義解」黒板勝美・国史大系編修会 吉川弘文館
「日本書紀」各社
「続日本紀」各社
「日本史年表」日本歴史大辞典編集委員会編 河出書房新社
「新訂官職要解」和田英松著・所功校訂 講談社学術文庫
「日本古代官職辞典」阿部猛著 高階書店
「日本の国号」岩橋小弥太著 吉川弘文館
「延喜式」虎尾俊哉著 吉川弘文館
「日本古代史研究事典」阿部猛・義江明子・他編
「日本史辞典(第二版/新版)」高柳光寿・竹内理三編/朝尾直弘・宇野俊一・田中琢編 角川書店
「国語大辞典」尚学図書・言語研究書編 小学館
「広辞苑第三版」新村出編 岩波書店




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