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予備知識:

諸国

(最終更新日:98.10.02

 − 目次 −




 

地方行政単位の変遷


● やまと朝廷成立以前から、日本列島は、支配行政単位として、まず「国」に分けられました。(「国」ではなく、「県〔あがた〕」と言ったとする説もあります。)
これらの「国」は「国主〔くにぬし〕」と呼ばれる立場の人物が治めていたようです。

● やまと朝廷成立後、大化以前までは、地方は、「国造〔くにのみやつこ〕(朝廷に服属した国主〔くにぬし〕)の管轄する「国」、及び、その下位組織で、「県主〔あがたぬし〕の管轄する「県〔あがた〕」と「稲置〔いなき〕の管轄する「県〔こおり〕」によって構成されます。(※これを「国県制」と呼びます。)

「県〔あがた〕」と「県〔こおり〕」とは、用字は同じですが、区別して考えられています。

「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。
「国」の下位組織として設けられた、とする説と、「国」に先行して西日本に置かれていたものが、のちに、「国」に再編された、とする説があります。

「県〔こおり〕」は、「『隋書』倭国伝」などの記述から、「国」の下位組織であり、7世紀前半までに設置された、と考えられています。

● 大化以降、令制導入以前までは、地方の「国」は廃止され、代わって「評〔こおり〕」が設置されます。
「国造」は行政と関わりのない世襲の祭祀職となり、一国(というか一評)に定員1名ずつ置かれることになりますが、それまで「国造」でその定員から漏れた人員の多くは、この「評」の役人である「評造〔ひょうぞう〕」「評督」「助督」などになります。(「評造」は「評」の役人の総称かもしれません。)

● 令制導入で、改めて地方に「国」が設置され、中央からこれを治める「国司」が派遣されることとなります。
「評〔こおり〕」は「国」の下位組織となり、その下に「里長〔りちょう〕」が管轄する「里〔り〕」が設置されます。「里」は、50「戸〔こ〕」をひとまとめとする単位です。(※これを「国評里制(国評制)」と呼びます。)

● 大宝令で、「評〔こおり〕」は「郡〔こおり/ぐん〕」に改められ、これを管轄する「郡司〔ぐんじ〕」が置かれることになります。(※これを「国郡里制(国郡制)」と呼びます。)
もと「国造」であった「評造」「評督」「助督」などの地方豪族が、多く、この「郡司」に任じられます。

● 715年ないし717年(養老1年)〜740年頃の時期に、それまでの「里〔り〕」は「郷〔ごう〕」の名に改められ、この下の区分として改めて2〜3の「里〔り〕」を置くこととされます。(※これを「郷里制」と呼びます。)
この際、「戸」は、「郷」を構成する50戸である「郷戸〔ごうこ〕」、さらにその内部で2〜3の「房戸〔ぼうこ〕」に分けられます。ただ、この「郷戸」「房戸」の成立経緯や実態などの詳細については、諸説あって、まだ決着が付いていません。

● 729年〜749年(天平年間)の時期には、政治の簡素化が図られ、これに伴って「里〔り〕」の切り捨てがあり、「郷〔ごう〕」だけが残されることになります。

● その後、10世紀後半に「郷」の区分は改編されたようですが、「国郡」の区分は近代まで続きます。


 

平安以降の諸国区分


平安以降の「国」には下の表のように大・上・中・下の四等級区分があって、職員構成や職員の官位相当に違いがあります(※職員に関しては「国司」参照)。
この区分は概ね国庫収入の量(住民数や開墾の進度)を基準としたようですが、現時点ではまだはっきりと解明されていないようです。

上野(現在の群馬)と、常陸(現在の茨城)・上総(現在の千葉)は、親王の任国とされています。

歴代皇居の置かれた大和・河内・山城・摂津・和泉の5ヶ国を総称して『五畿内』と言います。
(河内から和泉を分置する前は『四畿内』と言いました。)
『畿内〔きない〕』と言うのは中国の制に依ったもので、都周辺の地を言います。

また、その他の国は所在地によって「七道」に分けられており、畿内から西に、北部は「山陰道」、中央は「山陽道」、南部は「南海道」、その先に「西海道」があり、畿内から東に、北部は「北陸道」、中央は「東山道〔とうさんどう〕」、南部は「東海道」となります。
その先は「蝦夷〔えみし/えぞ〕」で領土外(夷狄〔いてき〕の地)です。

[えみし]と[えぞ]を一緒くたにして「蝦夷〔えみし/えぞ〕」と書いてますが、実は[えみし]と[えぞ]は区分が違います。

「蝦夷〔えみし〕」は、一部アイヌ民族も混じっていた可能性はある(というか、それは、この中にアイヌ民族の直接の祖先となった人々がいた、とする説で、ネオ・アイヌ説と呼ばれています)のですが、概ね、現代の東北地方のことで、住んでいたのは、アイヌ民族ではなく、やまと国家の人々と生活様式を異にする日本民族です。
時代が下ると、やまと国家の支配下に入り、「俘囚〔ふしゅう〕」という、夷狄ではないけれども公民でもないという身分に転化します。
俘囚の身分が結局どういう性格のものであったかについてはまだ諸説ある段階ですが、ともかくこの「俘囚の長」が奥州藤原氏です。(ちなみに、奥州藤原氏については、勢力圏が奥州のみにとどまらないため、近年、学界では、「平泉藤原氏」という呼称の方が一般化してきてるみたいです。)

「蝦夷〔えぞ〕」は、アイヌ民族の領土であるところ、概ね、現代の北海道です。

「蝦夷〔えみし/えぞ〕」と並び、夷狄といわれる(ことがある)「隼人」の地は、国郡制の中に編成されており、領土外にはなっていません。


日本七道地図 GIF 3K


 
− 諸国区分表 −  (※ 太字は畿内、及び、親王任国)
西海道山陰道山陽道南海道畿内北陸道東山道東海道
〔たいこく〕
大国
13ヶ国
肥後播磨大和
河内
越前近江
上野〔こうずけ〕
陸奥
伊勢
武蔵
上総〔かずさ〕
下総〔しもふさ〕
常陸
〔じょうこく〕
上国
35ヶ国
豊前
豊後
筑前
筑後
肥前
丹波
但馬
因幡
伯耆〔ほうき〕
出雲
美作〔みまさか〕
備前
備中
備後
安芸
周防
紀伊
讃岐
阿波
伊予
山城
摂津
加賀
越中
越後
美濃
信濃
下野〔しもつけ〕
出羽
尾張
三河
遠江
駿河
甲斐
相模
〔ちゅうこく〕
中国
11ヶ国
日向
大隅
薩摩
丹後
石見
長門土佐若狭
能登
佐渡
安房
〔げこく〕
下国
9ヶ国
壱岐
対馬
隠岐淡路和泉飛騨伊賀
志摩
伊豆



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