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予備知識:

京・宮・みやこ(付:唐の長安城)

(最終更新日:98.10.02

 − 目次 −




 

「みやこ」の「宮」と「京」


「みやこ」の【みや】は[御屋]=「天皇の住まい」、【こ】は「ところ」の意、つまり、天皇の住む「宮」の所在する地域が「みやこ」となります。

7世紀末の藤原宮以前までは、「歴代遷宮」といって、天皇(当時は大王〔おおきみ〕と言っていました)の代が替わると同時に、必ず、宮の移し替えがありました。
(※宮の移動は代替わりのときばかりに限らず、一代で宮をいくつも移し替えた天皇(大王)もあります。)
もっとも、移し替えでは、常に新築したわけではありません。それまでの天皇(大王)が使った宮は、代が替わっても特に取り壊されるわけではなく(焼失したりすれば別ですが)、また、皇親(=皇族)が住んでいたりもしましたので、宮号(宮の名前)は新しくなったけれども実は先々代以前からの古い宮を改築しただけ、と思われるものもありますし、古い宮を古い宮号のまま使う場合もありました。

いずれにしても、宮の移動は、多くの場合、狭い地域内でのことだったので、「みやこ」の移動はさほどなかったようです。この点で「遷宮」と「遷都」という言葉は意味が異なります。
「みやこ」まで移動しなければならないような遷宮が遷都ですが、たとえば、孝徳天皇の「難波長柄豊崎(豊碕)宮〔なにわながらのとよさきのみや〕」や、天智天皇の「近江大津宮(志賀大津宮)〔おうみのおおつのみや(しがのおおつのみや)〕」といった遷都は、何らかの理由で(諸説あります)、諸氏族から歓迎されませんでした。

6世紀以前の宮の構造は史料が残されていません。
7世紀前半の宮は、天皇の住まい=「大殿〔おおとの〕」、及び、役所=「庁」によって構成されています。

以下に示すのは、「小墾田宮〔おはりだのみや〕の概要図です。
この宮は、603年以降、推古天皇が使ったもので、史料に残されたわずかな記述から漠然と、それぞれの位置関係が推測されるだけです。

小墾田宮図 GIF 11K

「大殿」は、天皇の私的空間(日常生活の場)として、また、儀式その他の公事を行う公的空間としての機能を果たします。
(後代では、前者には「内裏」、後者には「大極殿」「豊楽殿」といった建物が充てられることとなり、両空間は分離されます。)

また、役所は、「庁」=おそらくは政策決定などを行うための建物、が置かれてあるだけで、後代に見られるような、日常政務を執り行う官舎の集中はありません。
この時期はまだ律令制は導入されておらず、氏姓制度によっていました。したがって、日々の政務は、諸氏族の館で処理されていたと考えられています。

さらに、「みやこ」には「宮」を置くのみで、その「宮」を内に含んで諸氏族が集住する特別行政区域=「京」は、自然発生的に出来上がっていたことこそあれ(「倭京」などと呼ばれるものがありました)、計画的に造都されてはいませんでした。

政治経済の中心として機能するよう、都市計画に基づいて「京」を造営することは、7世紀末の藤原京から始まり、ここで歴代遷宮も終わりを告げます。

「宮」や「京」の構成は官制の移り変わりとともに変化し、「宮」や「京」の構成が変化することによって、また新たな政務運営方式が加わり、官制も移り変わっていくことになります。(あ、まとめちゃった(^_^;)


 

大化以降の歴代「宮」概覧


日本史上に名前が存在する「宮」は、離宮などを除き、現代の皇居まで含めて、主なもので60ヶ所強あります。下の表に示すのは、7世紀以降、東京を首都と定める1869年以前までの「宮」のうち、主なものの名称・所在地です。

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  年代            宮都名                                
  そこを宮とした天皇名    所在地
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  603年〜           小墾田宮〔おはりだのみや〕
  推古(・皇極)       奈良県高市郡

  630年〜 636年        飛鳥岡本宮〔あすかのおかもとのみや〕
  舒明            奈良県高市郡

  643年〜           飛鳥板葺宮〔あすかのいたぶきのみや〕
  皇極・斉明(=皇極)    奈良県高市郡

  645年〜           難波長柄豊崎(豊碕)宮〔なにわながらのとよさきのみや〕
  孝徳            大阪府大阪市

  656年〜           後飛鳥岡本宮〔のちのあすかのおかもとのみや〕
  斉明            奈良県高市郡

  667年〜           近江大津宮(志賀大津宮)〔おうみのおおつのみや(しがのおおつのみや)〕
  天智・弘文         滋賀県大津市

  672年〜           飛鳥浄御原宮〔あすかのきよみはらのみや〕
  天武・持統         奈良県高市郡

  694年〜           藤原宮(新益京=藤原京)〔ふじわらのみや(あらましきょう=ふじわらきょう)〕
  持統・文武・元明      奈良県橿原市

  710年〜           平城宮(平城京)〔ならのみや(へいじょうきょう)〕
  元明〜聖武〜桓武      奈良県奈良市

  741年〜           恭仁宮(恭仁京=大養徳恭仁大宮)〔くにのみや(くにきょう=やまとのくにのおおみや)〕
  聖武            京都府相楽郡

  744年〜           難波宮(難波京)〔なにわのみや(なにわきょう)〕
  聖武            大阪府大阪市

  784年〜           長岡宮(長岡京)〔ながおかのみや(ながおかきょう)〕
  桓武            京都府乙訓郡

  794年〜1869年        平安宮(平安京)〔へいあんぐう(へいあんきょう)〕
  桓武以降          京都府京都市

 1180年〜1184年        福原宮(福原京)〔ふくはらのみや(ふくはらきょう)〕
  安徳            兵庫県神戸市
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余談(かもしれない)ですが、上記の「宮」のうち、「飛鳥岡本宮」と「飛鳥板葺宮」と「飛鳥浄御原宮」とは、考古学的に同じ場所にあった可能性が指摘されています。

ちなみに、この3宮について年表を見ると、636年、「飛鳥岡本宮」に火災があります。その後、舒明天皇は、奈良県橿原市の「田中宮〔たなかのみや〕」「廐坂宮〔うまやさかのみや〕」、奈良県北葛城郡の「百済宮〔くだらのみや〕」を転々とします。642年、1月に即位した皇極天皇は12月に「小墾田宮」に移り、翌年4月に「飛鳥板葺宮」へ入っています。斉明天皇とは皇極天皇が重祚したもので同一人物ですが、655年のこの斉明天皇の即位も「飛鳥板葺宮」でした。この冬にも「飛鳥板葺宮」の火災があり、656年に「飛鳥岡本宮」の再建が完了します。これを「後飛鳥岡本宮」と言います。672年の7月、近江で弘文天皇が亡くなって(壬申の乱)、9月に大海人皇子(=天武天皇)が「倭京」に入り、この冬、「「岡本宮」の南に宮室を作」ります。これが「飛鳥浄御原宮」です。「飛鳥板葺宮」跡と見られる場所の発掘では、中央の区画の他、東南部にも区画が検出されており、これがその「飛鳥浄御原宮」で作られた宮室だろうと考えられています。

 

唐の長安城〔ちょうあんじょう〕


参考までに唐の長安城も置いておきます。日本の宮城や「中国(隋・唐)主要官職概覧」などと併せてご参考ください。

この「城」というのが、日本の「京」に当たるもので、周囲を城墻(城壁)に囲まれています。平城京以降、日本で新たに造られる「京」はこの長安城に倣うようになります。(藤原京のモデルとなった都城は、同時期に実在した中国の都城の中には発見されないようです。)

長安城図 GIF 16K

長安城は、東西約9.72km、南北約8.65kmあります。
内城である「皇城」(=官庁街。平安京の大内裏に相当)・「宮城」(=皇帝の御座所。「大極宮」とも「西内〔せいだい〕」とも言い、平安京の内裏に相当)は、東西はともに約2.82km、皇城の南正門である朱雀門から宮城の南正門である承天門へ続く街路は承天門街といい、路幅約150mで、長さ約1.84km、宮城の南北は約1.5kmです。
「宮城」の東にある「東宮」が皇太子の「春宮」で、「宮城」の西にある「掖庭宮〔えきていきゅう〕」が後宮です。

城内(皇城の外)は朱雀大路によって、東を万年県、西を長安県という行政区分に分けています。一般民衆は主に長安県に住み、大官は主に万年県に住んでいます。

城内を南北に走る街路は11本あり(このうち西端・東端の2本は外城の城壁なので、街路とはしていませんが)、中央の朱雀大路の路幅は約150m、端に行くほど狭くなって、西端は約25m、東端は約20mとなります。東西に走る街路は14本あり(このうち北端・南端の2本は外城の城壁なので、街路とはしていませんが)、朱雀門前を走る街路の路幅は約120m、他は約40〜75mとなっています。

これら街路によって区切られた区画を「坊」ないしは「里」と言います。それぞれ「〜坊」という坊名が付けられています。大きさはまちまちですが、東西約560m〜1.12km、南北約500〜590mあり、これら「坊」も坊墻(坊壁)で囲まれています。
坊内には十字に走る街路があり、外へ通じる「坊門」が4つあります。

長安城の門は全て(坊門を含め)、日暮れ〜夜明けまでは閉じておかねばならないことになっており、違反すると罰せられます(笞刑(=ムチ打ち)20回)。

朱雀門から皇城へはいると、東に「尚書都省」や「六部」があります。そこから少し北へ進むと東西に長安城警備の「衛」が建ち並び、さらに北へ進むと東に「門下外省」、西に「中書外省」があります。
承天門から宮城に入ると、「横街〔おうがい〕」という大広場があります。「横街」を挟んで正面に大極殿があり、また、東には「門下省」、西に「中書省」があります。

ただ、この宮城は湿度が高かったため、健康に良くないと言うことで、のち皇帝は新しく建てた「大明宮」(「東内〔とうだい〕」)へ住むようになり、宮城は大きな儀式の際だけ使用されることになります。

大明宮の正門である丹鳳門を入ると、正殿である含元殿があります。その北に皇帝の政堂である宣政殿があり、東南に門下省、西南に中書省を置いています。

「興慶宮」(南内〔なんだい〕)は、玄宗が建てたもので、「勤政務本楼」を政堂とし、西南の「花萼楼〔かがくろう〕」を遊宴の場としました。
大明宮から興慶宮までは、民衆と関わりなく通行できるよう、外城に沿って「夾城〔きょうじょう〕」という皇帝専用の高架道が作ってあります。




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