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藤原京は、正式には「新益京〔あらましきょう〕」と言い、これは[新たに追加・拡張した「みやこ」]という意味を持つ名前です。
669年〜702年の約30年間は、唐への遣使が派遣されていないため(702年再開して、第7回遣唐使の粟田真人・山上憶良・僧道慈ら派遣、704年に帰国)、長安城に倣って京が造られるのは平城京以降で、藤原京は、この長安城を参考とせずに建てられたと考えられています。
(しかしながら、別に鎖国していたわけではなく、新羅や高麗、耽羅などとの遣使は互いに頻繁に往来していますし、690年以降でも、唐の学問僧や唐使が来日しているようですから、どうなんでしょう。)
藤原京は、中央に宮城を置いて10条×10坊となっていたと考えられています。
少し前までは北に宮城を置いて12条×8坊というのがほぼ定説となっていましたが、最近は10条×10坊という説の方が有力(?)なようです。はっきりと決着が付いたかどうかはわかりません。