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文武天皇の代に大宝令が施行され、うち、『官員令〔かんいんりょう〕』に官制が定められましたが、現存しません。
その17年後、元正天皇の代に養老令撰定が開始されます。孝謙天皇の代でようやく施行されるまでに40年の月日を要していますが、内容は大宝令とさほど違わないだろうといわれています。(※「官制の沿革」参照) 養老令では、官制は『職員令〔しきいんりょう〕』に定められています。
親王四階、諸王十四階、諸臣三十階の位階が確定されました。(※「位階・位号の推移」参照)
文武に関わらず、勲功のある者に与える勲位十二等が定められました。
官職と位階の相互の釣り合いが定められました。
すべての官吏は、任官法により四等級に分けられました。(※「任官時の職等級」参照)
役所内での有位の官吏は、職責により四等級に分けられました。(※「四部官(四等官・四分官)」参照)
令制では中国の良賎制に倣って、人民を「良」と「賎」とに分けています。「良」は礼の秩序の対象となりますが「賎」は対象から外されます。
「良」は「良民・良人〔りょうにん〕」と言い、いわゆる貴族を含む有位・無位の役人、公民、雑色人〔ぞうしきにん〕(品部〔しなべ〕・雑戸〔ざっこ〕など)を言い、賎身分に対するものです。
このうち、雑色人は、良民の中で下位に位置し、雑色人の中でも雑戸は下位に位置しています。
「賎」には5種類の「賎」身分があり、これを総称して「五色の賎〔ごしきのせん〕」と言います。
国家の統治対象となる人民を言い、良民全般を指しても用いられます。戸籍に付けられ、口分田を班給され、納税・課役を負担します。
この他、特に、上級貴族の俸禄として支給される「封戸〔ふこ〕」ではなく、納税が一般財政に用いられる「戸〔こ〕」(家庭)、つまり「公戸の民」の意で用いられることもあるようです。
史生〔ししょう〕・大舎人〔おおとねり〕・伴造〔とものみやつこ〕・使部〔しぶ〕・兵衛〔ひょうえ〕などの「雑任〔ぞうにん〕」(=毎日勤務する「長上官」ではなく、交代で勤務する「番上官」)を含む下級役人や、諸役所に置かれた「〜戸〔べ〕」の集団を「雑色〔ぞうしき〕」と言い、特に、特定の役所に置かれた「品部〔しなべ〕」「雑戸〔ざっこ〕」を指して「雑色人」と言います。
雑色人は、良民の中で下位に位置し、雑色人の中でも雑戸は下位に位置しています。
政権維持に必要な特殊技術・技能を有するとして旧来の「職業部」を再編し、特定の役所に置いたもので、「鷹戸」「船戸」「紙戸」などの「戸〔べ〕」の集団です。代々、技能を相伝する「常品部〔じょうしなべ〕」と臨時従業の「借品部〔しゃくしなべ〕」の2種があります。
同じ「雑色人」でも、「品部」より下位の層として「雑戸籍」に入れられます。特定の役所に所属する手工業者集団で、役所の工房に上番(当番で出仕)する人と、直接、手工業品を納める人とがあり、いずれも課役の全額ないし一部が免除されます。
5種類の賎身分を指して言う「五色の賎」は、その中でも上下に二分され、戸をなす(家族を持ち一家を構える)ことを許された上位の「賎」として「陵戸〔りょうこ〕」「官戸〔かんこ〕」「家人〔けにん〕」の3種があり、戸をなすことを許されない下位の「賎」として、物や家畜に似る財産として賎視・駆使・売買される「公奴婢〔くぬひ〕(官奴婢〔かんぬひ〕)」「私奴婢〔しぬひ〕」の2種があります。
このうち、「陵戸」は他より遅く養老令以降始まったもので、賎身分に編成された官属の賎民、「官戸」「公奴婢(官奴婢)」は官有の奴隷賎民、「家人」「私奴婢」は私有の奴隷賎民です。
いずれも無姓で、同身分間での婚姻しか認められず、解放されない限り身分は世襲です。
ちなみに、奴婢人口は全人口の5%と推定されているようです。つまり、その時代、20人に1人は奴婢とされたということです。
奴婢には他に、「神奴婢」「寺奴婢」がありますが、これは「公奴婢」乃至は「私奴婢」の一種なのか、特に「五色の賎」のうちには入れないようです。
これらの「賎」が解放され良民とされることを「放賎従良〔ほうせんじゅうりょう〕」と言います。
官戸・公奴婢(官奴婢)については、戸令に、76歳で解放する旨の規定があります。家人・私奴婢については規定がなく、所有主の意に任されます。
五色の賎は、令制の崩壊とともに解放されますが、平安以降高まる触穢思想や種姓観念のために、代わって「非人〔ひにん〕」などの中世賎民身分が形成されます。
「墓守〔はかもり〕」とも言い、天皇・皇族の陵墓を守る職に従事しています。もとは「陵守(墓守)〔はかもり〕」といって賎身分ではなかったのですが、養老令以降、唐制に倣って「陵戸」として賎身分に編成されます。
良民と同じだけの口分田を班給されていますが、諸陵司の管轄下にあって世襲を強制されており、他の賎や良民との婚姻は禁じられています。
官奴司の管轄下にあって、諸役所の雑役に従事しています。もとは「公奴婢」でしたが、令制以降、公奴婢を「官戸」「公奴婢(官奴婢)」に二分して、その上位とした方のものです。
官戸に編入されるのは、没官〔もっかん〕(謀反・大逆などの罪による人身・財産の没収)となった人、癈疾〔はいしつ〕となった人、66歳を越えた公奴婢(官奴婢)です。
良民と同じだけの口分田を班給され、戸を構えることを許されています。76歳になれば「放賎従良〔ほうせんじゅうりょう〕」となります。
8世紀中半、官戸を解放された良民として、公奴婢(官奴婢)とともに「今良〔ごんりょう/ごんら/いまろう〕」として再編成され、京内や大和諸国に編入されますが、その後も諸役所に隷属し、従来通りの雑役に従事する、準官賎身分でした。
ちなみに、「癈疾〔はいしつ〕」とは、障害の度合いのことです。令制では、障害者を、その障害の度合いが重くなるに従って「残疾〔ざんしつ〕」「癈疾」「篤疾〔とくしつ〕」とに分けます。
「残疾」に相当するのは、片目・両耳が不自由な人、手の2指・足の3指・手足の親指のない人で、正丁の場合は調の半分と庸・雑徭の免除、老丁・中男の場合は調全額の免除などの優遇措置が施されます。
「癈疾」に相当するのは、痴人と称された人、唖者と称された人、侏儒(短人)と称された人、腰背折と称された人(腰背部の骨折や脊髄損傷等による不自由がある)、一肢のない人(或いは一肢の機能障害)で、田租以外の課役免除、刑罰軽減などの優遇措置が施されます。
「篤疾」に相当するのは、ハンセン氏病・てんかん・精神病を患っている人、二肢のない人(或いは二肢の機能障害)、全盲の人などで、田租以外の課役免除、刑罰の軽減/免除、及び、侍人〔じにん〕(付添世話人)を支給されるなどの養護措置が施されます。
朝廷と大王〔おおきみ〕家が所有する(つまり、官有の)奴隷賎民で、官奴司の管轄下にあって、諸役所の雑役に従事しています。もとは「官戸」も「公奴婢」でしたが、令制以降、公奴婢を「官戸」「公奴婢(官奴婢)」に二分して、その下位とした方のものです。
黒衣の着用を強制され、戸を構えることは許されていません。
66歳を越えた公奴婢(官奴婢)は官戸に編入され、76歳になれば「放賎従良〔ほうせんじゅうりょう〕」となります。
8世紀中半、公奴婢(官奴婢)を解放された良民として、官戸とともに「今良〔ごんりょう/ごんら/いまろう〕」として再編成され、京内や大和諸国に編入されますが、その後も諸役所に隷属し、従来通りの雑役に従事する、準官賎身分でした。
平安以降、貴族の従者を「家人」と言い、また時代が下ると武家の棟梁に使える武士のことも「家人」と言うようになりますが、ここでいう「家人」は、それとは別のものです。
良民の1/3の口分田を班給され、私業を営み、戸を構えることを許された不課口(納税義務を持たない人)ですが、地域の族長層以上の私有奴隷賎民で、相続の対象とされます。奴婢よりも上位に置かれていますが、家人という語は奴婢という語と混用されたようです。唐の部曲〔ぶきょく〕に相当する身分です。
地域の族長層以上が私有し、相続の対象とされた不課口の奴隷賎民で、戸を構えることは許されず、その所有主に、良民の1/3の口分田が班給されます。
すべての官吏は、以下のように区分されることになりました。
○ 『京官〔きょうかん〕/外官〔げかん〕』
○ 『武官/文官』
○ 『長上官〔ちょうじょうかん〕/番上官〔ばんじょうかん〕』
○ 『職事官〔しきじかん〕/散官〔さんかん〕』
『職員令〔しきいんりょう〕』に定めてある官制を大まかに説明すると以下の通りです。
(※延喜式でも続いている官職の詳細は「平安中〜末期」の方へリンクしています。)
朝政の命令系統とは別の意味で、第一の要職です。
朝政の命令系統に於いて最も上に置かれている職です。八省を支配し、その下に職・寮・司があります。
太政官 → 八省 → 職〔しき〕・寮〔りょう〕・司〔し〕
1職・6寮・3司を管轄します。
2寮を管轄します。
2寮を管轄します。
2寮・2司を管轄します。
のちに改称され『諸陵寮』となります。
5司を管轄します。
2司を管轄します。
5司を管轄します。
1職・4寮・13司を管轄します。
都の軍隊です。(※ 兵制(『軍防令』)の「五衛府」を参照)
のちに『兵部省』配下へ移されます。
東宮付きの職員です。
※ 他に、後宮職員・親王付き職員なども同様に定められていました。
3監・6署を管轄します。
時代が下ると有名無実となるか廃止されるかで実際の任官はなくなるようです。
時代が下ると有名無実となるか廃止されるかで実際の任官はなくなるようです。
時代が下ると有名無実となるか廃止されるかで実際の任官はなくなるようです。
桓武天皇の頃に一度『主馬〔しゅめ/しゅま〕寮』として合併しますが、のちにまた、左右の『馬寮』へと戻されます。
のちの中務省の『大監物』です。
「防人司〔さきもりのつかさ〕」*
「防人〔さきもり〕」*
「大毅〔たいき〕」
「少毅〔しょうき〕」
「主帳〔しゅちょう〕」
「校尉〔こうい〕」
「旅帥〔りょすい〕」
「隊正〔たいせい〕」
『軍防令〔ぐんぽうりょう〕』に定めてある兵制を大まかに説明すると以下の通りです。
『五衛府〔ごえふ〕』・『大宰府〔だざいふ〕』・『軍団〔ぐんだん〕』の、三種の兵があります。
閤門〔こうもん〕(=大門の掖の門だとか)を守り、行幸のときの供奉〔ぐぶ〕を担当します。
※ 国司・郡司の子弟で弓馬に堪能な人や、六位〜八位の嫡子で武芸に長じている人を選抜して編入します。
諸門の禁衛出入、礼儀などを担当し、『隼人司〔はやとし〕』を管轄します(「隼人司」はのちに『兵部省』配下へ移されます。)。
※ 衛門府、衛士府に所属する「衛士〔えじ〕」は、諸国で徴兵した兵士の中から選抜して上京させ、3年の任期を勤めさせます。
諸国に置かれます。5、6郡毎に1軍団を置いたらしく、ひとつの国に2、3団以上あったようです。全国に131軍団、兵士は12万9100名だったという計算結果もあるようです。
平時は、1軍団の兵士は1000名以下です。
兵士5名単位を「伍〔ご〕」とし、兵士50名を「隊」として、「隊正〔たいせい〕」1名、「弩手〔どしゅ〕」2名を置き、兵士100名に「旅帥〔りょすい〕」を1名、200名に「少毅〔しょうき〕」1名、600名以上に「大毅〔たいき〕」1名、1000人に「大毅」1名「少毅」2名を置きました。
大毅 1名 → 主帳 1名 → 校尉 5名 → 旅帥10名 → 隊正20名 少毅 2名 弩手
大毅の職掌は、兵士を検校し、戎具を充備し、弓馬を調教し、陳列を簡閲することです。
征討の役があるときにはさらに軍隊を編成し、
大将軍 → 将軍 → 副将軍 → 軍監〔ぐんげん〕 → 軍曹 → 録事〔ろくじ〕
を置きます。「大将軍」1名は、3軍を総督しました。
20歳〜60歳の男子を「正丁〔せいてい〕」とし、1国の正丁の数を通算して、その1/3を徴発し、近辺の軍団に編入します。(※ ただし、正丁でも、皇族・有位者の子息・有勲者・官吏・医師などは徴兵免除されます。)
また、その中から選抜された兵士が上京し、衛門府、衛士府に所属する「衛士〔えじ〕」となります。