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「神祇」とは、天神(=天つ神)と地祇(=国つ神)、つまり「神々」の意です。
役人を総称しても「神祇官」と言いますが、『神祇官』の【官】は【省】や【庁】などと同様、役所の号です。
「じんぎかん」
「かみつかさ」「かみづかさ」「かんつかさ」「かんづかさ」など
「大常寺」「祠部」
神祇官は、宮城内、郁芳門〔いくほうもん〕の南掖にあります。
朝廷における神祇の儀式・祭典、及び、大嘗・鎮魂・卜兆などを統括担当し、全国の官社や祝部〔はふりべ〕を支配します。
神祇官が執り行う祭祀は天皇が国家を統治するための政治的な行事で、古来一般の間で行われてきた祭祀とは異なります。
長官である「神祇伯」に大納言や中納言との兼任が多いことから、近侍的性格の強い官司であるとも考えられています。
神祇官という名前の役所が置かれたのは遅くとも7世紀末、律令制導入時に唐の「祇令」を参考に日本の神祇信仰を整理したときからと考えられています。
前身となったと思われる役所は、卜占を担当したらしい『神官〔かみづかさ〕』や祭祀を担当したらしい『祭官』など。
「日本書紀」では天武2(673)年に「神司」の名前が現れています。
「神官」の長官としては「古語拾遺」に『神官頭〔かみづかさのかみ〕』という名称が見受けられます。(ただし、「古語拾遺」は当時から100年以上を経た大同2(807)年に献上された斎部〔いんべ〕氏の自己アピール的な氏族紀ですし、「神官頭」と書いているのは「祠官頭」の誤りとする説もあって、どの程度正確に伝えているかはわかりません。)
それから少し経った「日本書紀」持統8(694)年には『神祇官頭』という名称が見られます。もしこれが飛鳥浄御原令施行の反映であるとすれば、神祇官という役所は飛鳥浄御原令で設置され、当初の長官名は「頭」であったということになります。
(※飛鳥浄御原令については「律令官制の沿革」を参照してください。)
大宝1(701)年に完成した大宝令以降、神祇官の長官名は「伯」となります。「伯」というのは唐制にはなく、おそらくは周制(=唐よりも古い周の制度)での祭官の長官である『宗伯』に依っているものと考えられています。宗伯の職掌は「国の礼を担当し、神職者を治め、上下を和らげること」でした。
神祇官はいわゆる武家時代になると衰退し、16世紀以降は吉田神社を「神祇官代」に指定して実質を委ねることとなります。
神祇官は、"規定の上では" 独立した役所で、直接の支配関係にある官司はありません。
令制の二官八省という組織図の上では、神祇官は命令系統とは別の意味で官制の最上位に置かれ、「太政官」に優先して1番最初に規定されているために、たいてい太政官と並べて表記(紹介)されていますが、実際のところは、太政官が神祇官職員の考選任官の決定権を持っていたことや、神祇官と太政官との間で交わされた書類の形式などから、神祇官は太政官の直接の支配を受ける役所であったことが知られ、さらに国司との間で交わされた書類の形式から、神祇官は国司と同等の地位にある役所だったことが確認されています。
(※時代によって異なりますので、だいたいの目安に考えてください。)
伯 → 大副 → 大佑 → 大史 → 史生 → 官掌 → 使部 → 直丁 権大副 少佑 少史 神部(神伴緒) 少副 宮主 → 卜部 権少副 御巫 戸坐 年預 公文 神琴師 −−−−−−−−−−−−−→ 神琴生 権神琴師 (神笛師?)−−−−−−−−−−−−−→ 神笛生
(※《 》で括っているのは令に規定がある官職、〈 〉で括っているのは令に規定されてない官職です。)
職掌は、神祇の祭祀、祝部〔はふりべ〕・神戸〔じんご〕の名籍〔みょうじゃく〕(=名帳・戸籍)、大嘗・鎮魂、御巫〔みかんなぎ〕・卜兆〔ぼくちょう〕(=亀卜。※筮竹による卜筮〔ぼくぜい〕とは異なります)で、他の役所との対外的なものも含め神祇官の事務を惣判(=決裁)します。
官位相当は従四位下、定員1名です。
大宝令以前は「頭〔かみ〕」だったようですが、大宝令以降、「伯」という長官名になります。(これについては上の神祇官の沿革と推移も参照ください。)
他に「伯」という職はないので、役所名を付けず単に『伯〔はく〕』と呼ばれていることもあります。
ずっと諸氏から選ばれていましたが、万寿2(1025)年に花山天皇(在位:984/08/27〜986/06/23)の孫である源延信〔のぶざね〕(=延信王。源姓を賜って臣下に下った)が任じられて以降は、その子孫の世職となります。
◇ これがのちの白川家で「伯家〔はくけ〕」とも呼ばれます。また、特に姓〔せい〕がなく「○○王」と名乗っているのを「王氏〔おうし〕」と言いますが、伯に任じられた人は臣下でありながら姓を棄てて王氏を称する習いが生じ、このことから白川家は「王家」とも呼ばれます。
「じんぎはく」
「かんつかさのかみ」など
「大常伯」「大常卿」「大卜令」「祠部尚書」「祠部郎中」
職掌は伯と同じ、官位相当は大副が従五位下、少副は正六位上、定員は各1名です。
時代が下って14世紀頃には、大副には四位・五位の人を任じることが多くなり、少副はほぼ五位の人を任じるようになって、どちらも大中臣〔おおなかとみ〕・斎部〔いんべ〕・卜部〔うらべ〕の三氏の世職となります。
「じんぎのだいふく・しょうふく」「じんぎたいふ・しょうふ」「じんぎだいふ・しょう」
「かんづかさのおおいすけ・すないすけ」など
「大常少卿」「祠部員外郎」
職掌は、神祇官内での日常的な怠慢やうっかりミスといった非違(=違法・法律違反)を糺判〔きゅうはん〕(=糾弾・判定)すること、サカン(神祇官では大史・少史)が作成する文案〔もんあん〕(=公文書の草案)を審査して署名すること、サカンによって検出された稽失〔けいしつ〕(=公務の遅滞や公文書の過失)の当否について判断し、宿直〔しくじき/とのい〕の割り当てを行うことです。
官位相当は大佑が従六位上、少佑は従六位下、定員は各1名。
時代が下って14世紀頃には、大佑に五位の人を任じたり、少佑に正六位上の人を任じるようになって、どちらも大中臣〔おおなかとみ〕・斎部〔いんべ〕・卜部〔うらべ〕の三氏や中臣〔なかとみ〕氏などの世職となります。
「じんぎのだいゆう・しょうゆう」「じんぎたいじょう・しょうじょう」
「かんつかさのおおいまつりことひと・すないまつりことひと」「かんづかさのおおいまつりごとひと・すないまつりごとひと」など
「大常丞」「大卜丞」
職掌は、ジョウ(神祇官では大佑・少佑)以上の処分を経て授受した命令を記録し、文案〔もんあん〕(=公文書の草案)を考慮・作成して署名し、神祇官内の稽失〔けいしつ〕(=公務の遅滞や公文書の過失)を検出し、公文〔くうもん/くもん〕(=公文書)を読みあげることです。
「稽失の検出」についてですが、大史・少史は稽失を検出するだけで、当否の判断は大佑・少佑が行います。
大宝令では「稽失の挙問」と書かれていたらしく、つまり現代でいうところの上司の立場であるジョウ以上のミスも指摘(=【挙】)することができたようですけれども、養老令からは、上司のミスは指摘できないものとし、また自分と同等以下の職員のミスに対しても、サカンごとき(^^; が「どうなっているのか」と推【問】するような出しゃばった真似をしてはいけない、ということにしたため、検出という言葉に置き換えたようです。
公文を「読みあげる」というのは令文では「読み申す」という表現になっています。よくわかりませんが、おそらく「あの書類どうなってたっけ」などと尋ねられたのを受けて、調べてみて「こうなってますよ」などと答えるようなことをいうのだろうと思います。
「じんぎだいし・しょうし」
「かみのつかさのおおいそうかん・すないそうかん」など
「大常録事」「大常主簿」「大卜令史」「祠部主事」「祠部令史」
「卜部〔うらべ〕」と並ぶ、神祇官の伴部〔ともべ/とものみやっこ〕である下級神官で、番上官です。定員30名。
「禰宜〔ねぎ〕」や「祝部〔はふりべ〕」などというのは、この神部のうちに含まれます。
「神部」は、古来「名負氏〔なおいのうじ〕」の世職で、中臣〔なかとみ〕・斎部〔いんべ〕・猿女〔さるめ〕・鏡作〔かがみつくり〕・玉作〔たまつくり〕・盾作〔たてつくり〕・神服〔かむはとり〕・倭文〔しどり〕・麻績〔おみ〕といった諸氏が務めていたようですが、平安初期(9世紀頃)には、ほぼ中臣・忌部〔いみべ〕の二氏に限られた世職となるようです。
日本には遅くとも6〜7世紀くらいから諸地方に、社〔やしろ〕を設けて神を祀る『はふり』という人々がいました。これに中国の下級神官である「祝」の字をあてたのが『祝〔はふり〕』です。【はふり】の語義は不詳ですが、概ね、よくないものを「放る」とか「葬る」といった意味であったろうと考えられています。
その祝の姓〔かばね〕を持つ人が、祭祀権を握っていたであろう地方の首長に少なくないことは、神祇伯の職掌に祝部の名帳管理があったことと併せて留意すべきでしょう。
朝廷は令制導入の課程でこれら祝を機構の下部に取り込んでいきます。そうして中央にいた祝を『神主』と呼ぶようになり、地方の祝を「祝部」として組織したと考えられています。神主(あるいは「神宮司」=宮司〔ぐうじ〕さん)の下で祝部を統率するのが『禰宜〔ねぎ〕』です。
祝部は把笏〔はしゃく〕を許されていますが、特に官位相当の定めはなく、有位者もいないわけではありませんが、外官と同じ扱いです。
職掌は、諸社の祭事、社殿の保全・修理といったことの他、神祇官が執り行う2月の祈年祭、及び、天皇が自ら執り行う6・12月の月次祭と11月の新嘗祭など、朝廷が催す豊穣祈願の祭祀に祭物を持ち寄って参列し(別の表現をするならば「呼び出されて」)供物を賜ることです。(持ち寄った祭物は祭のあとで本社に奉納することになっていたようです。)
祈年祭の意味や起源はまだまだ明らかにされてはいないようですが、地方首長とその神々を天皇と天照大神の下に従属させる服属儀礼であったことだけは確かと考えられています。
祝部は「神戸〔じんご/かんべ〕」の中から任用しますが、神戸のいない地方では、少なくとも8世紀前半頃は、国司が撰定したり神祇官が使を派遣して卜定したりして、白丁〔はくてい/はくちょう〕(=下級官人の子や庶人)から任用していたようです。
9世紀半ば頃から地方の祝部は少なくとも中央の行う祭祀をサボるようになります。そのことと関連があるのか、貞観7(865)年の格で、白丁の任用をやめて八位以上・60歳以上を任用することとし、貞観10(868)年には諸国の雑色人〔ぞうしきにん〕も任用することとします。
宮内に置かれて宮中の神事を担当する神官で、「卜部」の中から優秀な人を選抜して任じます。
職掌はまだよく解明されていないようですが、天皇や東宮に向けられた神の祟りを占い、もし祟りがあるときは祓いを行うこと、また大嘗祭のときに神饌供進のことを担当したと考えられています。
宮主には各種あります。天皇の神事を担当する「内宮主〔うちのみやじ〕」、東宮の神事を担当する「東宮宮主(春宮宮主)」、その他同様に、「中宮宮主」「皇后宮宮主」「皇太后宮宮主」「太皇太后宮宮主」、そしておそらくはこれらを総称して「神祇宮主」といっており、斎宮寮には「斎宮寮宮主」、弘仁9(818)年には、斎院司にも「斎院司宮主」を置いています。
定員も現代では全く不明となっているようですが、卜部の定員が20名であることから考えると各1名だったでしょうか(推測です)。
養老3(719)年以降は宮主の把笏〔はしゃく〕を許しており、それに先立つ慶雲1(704)年には『大宮主』を長上官としています。
大宮主がどういうものかよくわかりませんが、おそらくは宮主の中の最上位者かと思います。
「神部(神伴緒)〔かんべ/かんとものお/かむとものお/かむとも〕」と並ぶ、神祇官の伴部〔ともべ/とものみやっこ〕である下級神官で、番上官です。卜占(=亀卜占い)、及び、大祓えのときに祓えの物の解除を担当します。(ちなみに、筮竹による占いは道教の系統で陰陽寮の方の担当です。)
養老令での卜部の定員は20名です(大宝令ではもっと多かったようです)。
◇ 出典はわからないのですが、「官職要解」に「対馬から10名・壱岐から5名・伊豆から5名」という選任の内訳が説明されています。
◇ 大宝令の頃のは「別記」に「対馬の上県から8名・下県から9名(計17名)・壱岐から7名・伊豆から2名、総計26名」というようなことが書いてあります(が、実際にはもっと複雑なことが書いてあるので、ちゃんと読みこなせているか自信がありません(^^;)。(※「別記」というのは大宝官員令の付属法令で、施行細目の性質を持つものです。)
古い時期には壱岐・対馬や伊豆から卜術に優れた者を選抜して任じたようですが、時代が下ると卜部氏の世職となります。
(余談ですが、兼好法師こと吉田兼好さんというと、われわれにとって仏教の印象が強いですが、吉田というのは16世紀以降「神祇官代」に指定される吉田神社に由来する呼称で、本名は卜部兼好さんと言います。)
この卜部から優秀な人を選抜して「宮主」に任じますが、それとは別に2名を選んで『卜長上〔うらのちょうじょう〕』とします。
卜長上がどういうものかよくわかりませんが、おそらく卜部を率いるリーダーとして任じられたものでしょう。
10世紀頃に施行された延喜式の制では、卜部(宮主や卜長上を含む)は、時服を給与される対象に挙げられています。
この他に、諸国の神社に属している卜部もありますが、これらについてはよく知りません。
宮城の神祇官の西院内に祀っている23座の神々に奉仕する童女の職です。庶人の女子から "鬼神の道を知る" 優秀な子(というか、適性のある子)を選抜して任じます。
大宝令では、倭国巫(=これを単に御巫ともいいます)2名・左京の生嶋(=生嶋巫)1名・右京の座摩〔いかすり/いがしり〕(=座摩巫)1名・御門(=御門巫)1名、の計5名を任じることとされており、各御巫が奉仕する神々は以下のようになっています。
これら御巫には戸の調役を免除し、「廬守〔ろしゅ〕」(家の番人のような人でしょうか)を1名支給したようです。
【かんなぎ】とは「神を和らげ神に願う」意で、その行為を指して、またそれを行う人を指していいます。
「御巫」というのはれっきとした職名ですが、単に「巫(覡)〔かんなぎ/かむなき/かみなぎ/こうなぎ〕」と言えば、神に仕えて神をなだめ、神おろしなどをする人の一般的呼称です。「巫」は女性で〔めかんなぎ〕とも言い、これに対し「覡」は男性で〔おかんなぎ〕とも言います。男女を併せて「巫覡〔ふげき〕」といいます。
天皇・皇后・皇太后・太皇太后、及び、斎宮(これは斎宮寮に置かれている戸坐の場合)の祭祀に参列し、外出時には随行する職です。7歳以上で未婚・未成年の男子を卜定〔ぼくてい〕して任じます。
時代によって異なりますが、ざっと以下のようなものが置かれています。
他に、「史生〔ししょう〕」・「官掌〔かじょう〕」・「使部〔しぶ〕」・「直丁〔じきちょう〕」などもありますが、これらは「下級職員」で説明し、ここでは省略します。
これは職名ではなく、官社に世襲的に所属し、納めた調庸や田租を神宮造営や神へ供える調度の費用に充てることが定められている良人の戸(=世帯)のことです。租庸調・雑徭などの負担内容は一般良人と同じですが、納めたあとの使われ方が特定されているわけです。
9世紀初頭の例では、172の官社に対して、神戸4876戸でした。1社平均28戸くらいですね。
ちなみに神戸の租庸調は一般良人と同じく国司に納めます。そうして国司から太政官に報告、太政官の大史→民部省→神祇官という手続きが取られます。神戸の納めた税は「神税」と呼び、義倉(=窮民用の備蓄)に準じた扱いで国司が管理します。出挙〔すいこ〕(=利子付の貸し出し)することはできません。
神祇官を世職とした白川・中臣〔なかとみ〕・斎部〔いんべ〕・卜部〔うらべ〕の四氏を総称して言います。
現存する最古の平安京地図である「九条家本延喜式付図」では、神祇官所在地の北西、郁芳門〔いくほうもん〕の北掖の2町、地点標示でいえば「左京 二条 二坊 二・七町」に、神祇町というのがあります。遅くとも10世紀以降には置かれていたようです。
この神祇町に住む人は、その土地を勝手に売買することを禁じられ、神祇官で「守護役」を勤めることとされています。
(ただし、12世紀以降にはこの決まりを破る人が増えていきます。)