ボロブドゥール ブッダ伝レリーフ 西南の部(31~60)Southwest part
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ボロブドゥールのブッダ伝(釈尊伝)レリーフはボロブドゥールの第1から第4の回廊の内、第1回廊、内側、上段に刻まれている。総数120面。このレリーフは東側階段より出発し、右回りで常に右に中央の大塔を見ながら経行する順序になっている。レリーフは縦、70~80㎝、横240㎝。このレリーフの出拠は「大方広荘厳経(Lalitavistara)」である。120面のレリーフの内容は、ブッダ生誕前の在兜率天から、初転法輪までである。(参考文献:「ボロブドゥル」井尻進 大正13年 大乗社)

東南の部 1~30
 Southeast part

西南の部 31~60
Southwest part 

西北の部 61~90
Northwest part 

東北の部 91~120
 Northeast part

ボロブドゥールを真上から観た図です。ブッダ伝レリーフは一番外側第1回廊、内側、上段に刻まれています。西南の部 31~60はこの図だと左上の30面です。

西南の部 31~60

31 仙人の占相

雪山の麓に阿私陀(アシタ)と称する耆徳がいた。浄飯王は常に彼を崇敬し給うた。彼は一日天に昇り菩薩の降誕の慶事を聞いて来って王に謁して釈尊の占相をせんことを請うた。そして菩薩を抱き上げて「大王よ、太子の形貌殊好、三十二大人の相、極めて明瞭なり。また八十隨形相あり、よって家に在って転輪聖王と作るに合わず、出家して仏陀となり給うべし」と曰し、また「これ人中の最尊無上の皇子なり、わが齢すでに老い死期近し、仏陀の聖教を聞く能わず」と長嘆悲泣した。なお、仙人は都城を出でて、妹の家に至り、甥那羅迦に対して、「三十五年の後浄飯王の皇子正覚を成じ給うを待って、直ちに仏弟子となるべし」と言うた。

阿私陀(アシタ)は合掌して太子を看ている。

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32 大自在天の太子讃頌

浄飯王は阿私陀(アシタ)仙の占相予言を聞いて、太子に恭礼し「諸天聖仙に讃嘆せらるる爾は世の医王なり」と宣うた。この時に当って天界に於ては大白在天は諸々の天衆を召集して「菩薩なる大王天界を去り給い、生死の国土に降誕し給う。今や天界哀頽の色あり、われわれ諸天も彼の地に参り太子を頌し奉らざるべからず」と称した。大衆は降天、菩薩に長跪合掌右繞数百帀して「大王よ、太子は大覚世尊となり、人天の師となり給うべし」と頌えた。

 宝座上おばに抱かれ給う太子を合掌するは大自在天である。

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33 寺院行啓を議す

釈種の長老は正に太子の寺院参詣を議奏した。王は勅を下して道路を平坦にし、緑門幡幢をもって飾り、途上諸々の汚穢を去り、老病貪窶の民を排除し、至るところに音楽を響かしむるように命じ綺うた。なお王は釈種貴族の随従を命じて婦女は車駕、男子は騎歩、年少紅顔の男女は綺羅星のごとく鹵簿(ロボ)に随従せしめられた。羅婆門僧は読経のために応召して市中に鐘鼓を鳴り響かせ、香水を盛った瓶器は到るところに備え付けられた。この時王は太子の室に入っておばの大愛道に太子の御服を更えるように告げ給うた。

 太子はおばの膝に坐し綺い、諸廷臣は太子の衣服等を捧持している。 

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34 寺院行啓

太子は更衣の後、笑止に堪え兼ねておばに向うて「母后よ、われを何処に伴い給うや」と尋ね給うた。大愛道は「寺詣でに」と答えられた。太子は笑みて「わが生れし時には三千大千世界は震動し、人天七部衆は稽首恭礼したるに、今われをして参拝せしめ給うはいかなる威神にや。われは天中の大即ち第一義天に住して諸天に秀で独尊なり。われは寧ろ衆生のために慈悲を垂れに出づべし、われを見る者はすべて喜びを得るをもって」と宣うた。王は諸大臣に囲繞せられ太子を珠玉七宝の御輦に座せしめ絵うた。数万の天衆はこれに供奉した。

 鶴駕は天衆朝臣に侍衛せられ、駟馬粛々、鹵簿堂々として、太子は宝輦の中央に坐し給う。 

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35 太子寺前に御着

寺院に到って一同下乗、太子が地に歩を下し給うや、涇婆、那羅延、倶吠羅、月天、蘇利耶、天帝釈、大梵天、並びに守護神に至るまで、諸神像は悉く台座から離れ出でて太子の足下に恭順した。この時天地は忽ち光明炳焉として輝いたために随従の一同は袖衣をもってその顔を覆うた。同時にカピラ域は六種に震動し、天華は雨降り、満空の音楽は和鳴した。寺内の絵画の諸神像は生像となって太子を合唱讃美した。

 背光を有する太子は父王の前に起立し、諸神像は殿堂より抜け出でて恭礼合掌している。

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36 宝冠の奉呈

 一日釈種王家の高僧優陀延は五百の婆羅門を伴い来って、王に謁して太子のために多くの装飾品を作ることの許可を乞うた。宝貨玉石を嵌めた耳環、腕環、首環、及び絶美の宝冠の製作なるに及び、請いを容れて毘摩羅園に於ておばはこれを太子に着け給うた。しかし、金具宝冠の赫耀たる光彩も太子の燄明の前には忽ち消えて聚墨のごとくになった。

 浄飯王は宮殿宝座に坐し、太子は園内の牀上に居給う。多くの釈種等は宝冠金具を捧持して太子に呈している。

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37 太子の入学

太子七歳に達した時、父王は国中に令して学問諸芸に精通する婆羅門を請じてその師とし給い、また他の五百の釈種児童とともに通学せしめられた。天人は道に天華を散じて先導し、父王もまたこれに同伴し給うた。学堂に入り師匠選友に対し給うや彼は忽ち地に跪坐して太子の身より発する光燄を避けた。天人は選友の手を把って引き起し、自らは空中に昇って天華を菩薩に雨降らし、讃頌を唱えて消え失せた。

 天蓋背光を着け給う太子は起立し、学者選友は跪いて合掌礼拝している。 

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38 学童時代の太子

王はまた太子のために学堂を起し、七堂をもって荘厳し、牀榻学具等を極めて精麗ならしめ、多くの釈種の児童とともに修業せしめられた。太子は穎悟聡明およそ諸の技芸、典籍の議論、天文地理、算数射御等みな悉く自然にこれを知って居られた。

 図は太子が五百の釈種の学童とともに阿伊優唖嗚(アイウエオ)を習い給う(この阿伊優唖嗚は梵語の字母である)。太子の学友等は貝多羅葉を手にして列坐している。

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39 耕祭行啓

太子書論を経て読方を学び給うに当って、童子等が阿と発音する時は太子の金口よりは「諸行無常」と響き、彼らが伊と唱える時は「自他利益」と聞えた。斯くして太子の一言一句は学童等のためには他日大法の真実義を解得する準備となった。また一日浄飯王耕祭を営み、国王は金鍬を執り、諸臣は銀鍬を把って耕作の式を行い給うた。農園中の閻浮樹下の涼蔭に太子の座牀を置いた。太子の侍女はその盛典を見んとして繞らされた幕外に出で去った。周りに人なきを見て太子は直ちに結跏趺坐して静観を為られた。侍女等が帰り見るに、爾余の諸樹の蔭は消えいるに独りこの美わしい閻浮樹の蔭のみが残っていた。ことに幕内には太子が静観し給うを見てさらに不思議の念に堪えずして直ちにこれを王に奏した。玉は馳せて太子の側に至って太子に礼して「愛子よ、これにて

われが汝を礼すること再度なり」と宣うた。太子は農夫労役して租税を負担し、耕牛は涎を垂れて喘ぎ、諸鳥が来って虫族を食うのを見て慈悲心を起し、世間苦を哀嗟して、諸の欲悪有覚有観を離れて、即ち離苦の法を深く思惟し給うたのである。

 太子宝輦に座し鹵簿堂々式典に臨み給う。 

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40 閻浮樹下の太子

太子この鮮栄愛すべき樹下に於て初禅に入り給うた時、五通の仙人は虚に乗って、南から北に往った。この閻浮樹上に至った時、彼らは遽神通力を失い、飛行することができなくなった。「須弥山の最高峰も乾閥婆の国土までも飛遊せるわれらが通力を失えるは何事なるか」と驚いた。この時に於て森林の神は現われて、「御身等の超自然力もここに於ては無効なり、彼の閻浮樹蔭に釈迦太子あり」と告げた。仙人等は光明荘厳なる太子を望んで、頌歌を讃唱しつつ下降して、恭礼右繞三帀して再び空中に飛翔し去った。

 天人は空中に頌讃合掌し、五仙は長跪合掌礼拝している。

 

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41 太子納妃を議す

太子漸く長じて徳貌日に新たであった。釈種の長老大臣は王の宮殿に集まり議し、王に太子出生当時の占人の千百を想起せしめて「太子出家せば必ずや無上正覚を成し、入天三界の師表とならむ。またもし長じて国政に当らんか。聖明の大王となりて普く世界の主となるべく、幾多の皇子を持たるべし。皇子等は悉く勇敢にして英雄となり他を征し、太子は遂に干戈誅略に訴えずして四海を平定し給うべし。また太子は数百の婇女宮嬪に囲繞せられて地上の快楽に耽り、捨城沙門となり給うことなく王家の血統万世一系ならん」と曰した。王は「宣なる哉、然らば太子に容るべぎ妃を誰とかなす」と問い給うた。五百の諸釈種族はおのおの唱えて、「わが女太子のために妃と作すに堪えん」と奏した。王は「種々の雑宝を作り、太子をしてこれを諸釈女に施さしめ、果して太子の真意が誰の辺にあるかを密かに観察し、即ちめして妃となさん」と思惟せられた。そしてカピラ城に於て鐸を振り「今より七日の後に、わが太子、一切の釈種の諸女を見んと欲す、期日に於て悉くわが宮門に来集すべし」と、唱え給うた。

 釈種は浄飯王の殿堂に詣でて太子妃の選択を評議し、有髯の婆羅門は王と対話している。

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42 耶輸陀羅姫(ヤショーダラ)の引見

第七日に至り太子まず出でて宮門前に在って、筌蹄に拠り坐を占め釈種の少女等の来るを見て、種々の宝器を持って諸女に施与せられた。四方より来って太子を見る者は、太子の威徳が太なるために太子を正しく看ることができずして、ただ宝器のみを取ってみな低頭して速やかに過ぎ去った。最後に、その宝器が尽きた時に当って、一婆私吒族の釈種大臣摩訶那摩、(一つに提婆陀訶城主善覚Suprabuddha)の女、耶輸陀羅(ヤショーダラ)が衆多の侍従婢女に傅かれ来り、太子に近づいて恰も旧知のようで、少しも愧じる色はなかった。この時太子は乙女に告げて「汝の来るや遅し、皆悉く施し終れり」と宣い、指辺につけておられた価千金の一印環を脱して与え給うた。

 太子は牀上に坐して印環を把って渡し給うて、耶輸陀羅(ヤショ-ダラ)は跪いてこれを受けて居られる。その背後には多くの婢媵侍衛は坐し、また屋上には瑞島は舞い遊んでいる。

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43 浄飯王と太子の問答

王の遣わされた密使は趨せ帰って、「大王、当に知るべし、釈種大臣摩訶那摩の女、最後に来って、太子とともに数番の問答あり、太子彼女倶に悦び、彼この答対に四目相当る」と白した。ここに於て王は国師婆羅門を招き、摩訶那摩の家に赴いて、耶輸陀羅(ヤショーダラ)を娉せしめ給うた。摩訶那摩は僧を遣わして「わが家相承の古法として、もし戦術技能一切に勝る者あらば、女を嫁せん、諸芸に秀ずる能わざる羸弱の青年に対してはこれを与うるを得ず」と答えた。王はその侮辱に対して深き悲痛の思いに沈み給うた。太子は王を慰めて、「父王、国内に於てわれに並ぶべき釈種あらば召さるべし、われは学問武芸すべての競技に於て正に御前に優勝すべし」と謂われた。これを聞いて王は悦んで諸の競技の催しを命じ給うた。

 王と太子は宝座上に対話し給い、諸臣は外に侍衛している。 

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44 擲象の競技

これより第七日に至って、浄飯王は釈種の諸童子を集めて、衆技を競わしめ給うた。その種目は速筆、暗算、弓術、剣術、馬術、相撲、擲象の七種であった。王は大白象を擬して太子の乗用のために城内より出でしめられた。この時ちょうど城外より入り来った提婆達多童子は、この白象を見て、人に問うて「この象は誰の許に、何処に往かんと欲するや」と言うた。「悉達多太子、将に城内に入らんとす、故にその乗用として太子を迎えんとす」と答えた。我慢、嫉妬深い提婆は、彼の象の前に至って、左手をもって象鼻を執り、右手をもって額を撃った。白象は一たびは地に倒れ、宛転三帀して遂に絶命した。

 提婆達多は足を挙げ、手を振り翳して白象を撃たんとしている。

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45 太子城濠外に象を擲(な)ぐ

 提婆達多過ぎて後に難陀が相続いて来って、城内に入らんとした。白象の大身が城門を塞いで衆人の往来の妨げをなしているのを見て、「誰かこのことをなす」と問うた。諸人は「提婆この大白象を殺生す」と答えた。難陀は右手をもって彼の象の尾を執り、門を離るること七歩の地に牽いた。この後に大子が入り来られて、この様を見て行人にその次第を借問し「この象、身甚だ大にして、後に壊爛し、この城を臭薫す」とて左手をもって象を挙げ、右手をもって承けて擲(な)げ給うに、七重の垣を越え、七重の掘を度って、城を離るること一拘廬舎であった。この象の墜落のところに大きな穴を生じた、今なおこの地を象の穴と呼んでいる。

 壁面には数多の従者の行列と宝車の車輪を看得るのみである。西洋諸学者の唱うるごとく、これが果して擲象の図面なるや否や疑問である。

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46 算数の競技

第二の競技は計算であった。大数学者閼刺樹那(Arjuna・アルジュナ)は審判役を拝命した。太子の提出せられた問題に対して大衆は脳漿を搾ったが、語釈種等の難問はすべて太子の易々として解き給うところとなった。審判アルジュナは太子の頭脳を驚き讃して、「大智海」と称した。浄飯王は太子を数聖アルジュナと競技せしめ給うた。遂に須弥山の部分や恒河の砂の数の計算法等の問題も太子は瞬時に答解せられた。

 中央牀上に坐し給うは太子であって、隣れる台上に居並ぶは釈種童子等であろう。別の牀上に宮女等に傅かれて楽坐し給うは浄飯王と見るべきである。この図面も幾分疑問に属している。

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47 アルジュナの讃偈

菩薩この数を解きたる時、アルジュナ及び諸々の釋種みな大いに歓喜し、希有の心を生じて踊躍すること無量なり。悉く上妙の衣服、衆寶、瓔珞を解きて菩薩に奉上し、偈をもって讃じた。拘胝、室哆、阿由多、尼由多、更割羅、毘婆羅、数の名前(位)きわまって阿芻婆に至り、無量数に至る。このこと太子は皆能く知る。三千大千の衆、草木を折って籌(チュウ:数を計算するのに用いる細長い竹の棒)となし、智人をしても校量を為すに足らずと。

中央傘下に草木を折った籌をもつ太子。籌を受けるはアルジュナか。父王は右方台上にこれを観覧して居られる。

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48 力捔(くら)べ相撲つ

次に、五百の童子が力捔(くら)べをした。難陀が先についてその剛勇をはせたるも、菩薩手を挙げわずかにその身に触るるに、威力の加わるところ、時に応じて倒る。提婆達多は常に我慢を懐き、菩薩を凌侮す。己の力は菩薩と等と謂う。挺然として衆より出で、疾走して菩薩を挫かんと欲す。その時菩薩急ならず緩ならず。また瞋忿もなく、安詳としてこれを待つ。右手に徐にひかえ、飄然として擎(ささ)げ挙ぐ。その我慢を摧かんと、三たび空中に擲ぐれども、慈悲をもって故に傷損することなからしむ。諸釋種に告げて「汝よろしく悉く来たり、我と相撲つべし」と。倶に瞋忿を生じ、鋭意斉しく奔る。菩薩これを指さすに悉くみな顛仆す。この時虚空の諸天、衆の天華を雨し、偈をもって「たとい須弥鉄囲の山も、大士手にて摩したまへば悉く末(こな)となる」と讃じた。

 中央傘下に太子。左方に難陀、提婆達多等力捔(くら)べの五百の童子が立つ。父王は右方台上にこれを観覧して居られる。

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49 弓術の競技

弓術の競技に於ては、阿難陀は二拘廬舎の距離より射て二鉄鼓を通し、提婆達多は四拘廬舎より四鉄鼓を射透し、孫陀羅難陀は六拘廬舎より六鉄鼓を射貫き、執杖大臣は八拘廬舎より入鉄鼓を通した。そしてこれを限度に誰も皆これを越えることができなかった。時に太子が出て弓を引かんとせられたが弓及び弦は一時に倶に断たれた。太子が顧みてさらに良弓を求め給うのを見て、王は非常に歓喜して「先王弓あり、天廟に蔵し、常に香華をもって供養す。その弓勁強にして、人能く張ることなし」と言われた。太子は「試に人を遺し将来し給え」と、宣うた。弓はまず諸釈種童児等に授けられたが誰一人これを能く張る者はなかった。太子はこれを執って弦を控えて射給うに、十拘廬舎の距離より鉄鼓及び七鋳猪並びに七鉄多羅樹を悉く貫達し箭は地に没した。

 図中左方に七鉄多羅樹を看得る。諸童子はあるいは弓を張りあるいは箭を放っている。中央傘下に太子は弓箭を把って立ち給い、父王は右方台上にこれを観覧して居られる。

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50 太子の結婚

大臣摩訶那摩は太子が諸少年と競技し給うて、一切の技芸に於て勝妙であり、智能が最も上首であるのを見て、「願わくはわが女を納れて妃となし給え」と願うた。ここに於て、良善の日、吉宿の時を占して、大王の勢を持ち、大王の威をもって迎え納れられた。ヤショーダラ姫は諸の瓔珞をもってその身を荘厳し、太子は五百の采女を随えて自ら往って姫を迎えて宮に入り給い、ともに相娯楽して、五欲の楽を受けられた。

 太子は宝牀に坐し、ヤショーダラ姫はこれを合掌恭礼して居られる。

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51 太子の結婚生活

姫は夙に賢明婉淑、当代一人の声高く、春花の姿、秋月の粧い、三千の宮女をして顔色なからしめた。よって太子の鍾愛斜ならず、連理開枝の情交、世に浅からず見えた。また太子は釈迦族の古習に随い、幾百千の釆妓に囲繞せられて満春の行楽を享け給うた。

 太子は宝牀に坐し、妃は婢に拠って起って居られる。 

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52 諸天は太子の後宮を訪う

楼上閣下不断の妙楽は奏でられた。天人八部衆は太子を訪れ、恭礼して偈を頌し、美紀宮嬪に交って清歌妙舞し、もって太子に娯楽を献じた。斯くのごとく太子は現世の栄耀、人間一切の快楽を悉く一身にあつめ給うも内心常に宇宙の大法を静慮し給い、左右に侍する螓首蛾眉を顕みて悲哀の人生観を解き給うた。十方の諸菩薩は太子の所に至って、その利生の前生を讃美頌歌した。仙人等あまた来ってこれに和同合唱した。

 清浄の一宮の裏に声色左右に侍し、太子正に地上に於て得らるべき最上の逸楽を享け給うところの華やかなる図面である。

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53 天帝釈の勧請

太子青春客闕裡に口体声色の美を享けながら、快々として心楽しまず、ひそかに人生の真義を思い、夜半寂として静なる頃、幾度か三昧静観して古仏を想念し、抜苦与楽の法を願求し給うた。遂に群萌を苦悩より救済する唯一の道は捨家して沙門となり大法を宣布するの外なしとの深き信念を得られた。太子蹶然発心し給うや、暁天に天帝釈は三十二の天衆を率いて降下し、強き頌歌を合唱して、太子の太菩提発心を直ちに決行し給うように勧請した。

 太子は宝座に、姫媵は座下に、衛兵は殿外にある。三十三の諸天等は空中より合掌して発菩提し給える太子を恭礼讃頌している。

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54 三時殿

諸天が、太子に出家の決心を鞏固ならしめるために勧請している時に当って、浄飯王は太子が夜半ひそかに多くの天衆に囲繞せられて捨宮出城し、茶褐の僧衣を身に纏い給える托鉢姿を夢に見られた。目覚めて後も憂慮に堪えられず、自ら太子の宮殿に到って種々と諭された。その上さらに現世の栄耀を楽しましめんとして、地を風色絶佳のところにトし、夏季殿、冬季殿、雨季殿の三時殿を建立し、湿涼四時に適せしめ、侍らしむるに多くの宮嬪をもってし、百態の媚を呈せしめ、あらゆる地上の快楽をもって太子の深き冥想に耽るをさまたげしめられた。なお宮殿の階段上には五百の衛兵を奉仕せしめて大子の出離に備え給うた。

 太子宮に於ては美姫太子に媚を呈し、宮女殿に於ては采女等粉黛を装うている。

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55 太子の警護を厳にす

王は占者の言を容れて城門を改築し、門扉一枚を開くに五百の兵隊を要せしめ、東西南北の四門にはおのおの五百の釈種勇者と五百の兵車を備えて警護を厳にせられた。また宮苑には蘇油香燈蝋燭を限りなく点じて環視し、学才優れた優陀夷は常に太子の左右に侍して種々の手段をもって諷し、努めて太子の心を奪わんとして婇女等をして百態の媚を競わしめた。

 太子は傍らに美妃耶輸陀羅(ヤショ-ダラ)を擁し、種々の姿態を凝せる釆妓に囲繞せられ多給う。衛兵は殿外に侍衛している。

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56 老人を見給う(四門出遊の一)

太子憂欝沈思し給うこといよいよ甚だしくて、遂に「月は罅諺し、四時は代謝す。斯くのごとき青春の妙楽それ独り人生にある乎。否々然らず、老病死の三苦の中に累世流転してその窮極するところを知らずして徒らにこの中に嘻戯す。人は果してこのごとくにして可なるべき」と思惟し給い、まず宮闕を出でて世相の万状を見、人生の真諦に接触せんとせられた。父王は、これを聴許せられて、予め途上汎百の汚穢を去り、老病貪窶、いやしくも多感の太子の哀情を動かすの恐れあるものを一切排除し、珠玉七宝の御車を調えてます東門より出でしめられた。この時、浄居天は「今悉達太子発悟の時到れり。われら化現を示さん」とて一老人と化しか。太子これを見て驚き怪しんで「彼の白頭にして蹌踉として歩行は何人となす」と問われた。「これ昔は紅顔の美少年、青春の頃嘻々として五慾を恣にせしも今や老衰死に瀕し悲愁のみ多く歓楽少し」と御者は答えた。「世法この難あり、一切衆生皆な斯くの患あり、人命流るがごとく、宿夜逝きて再び還らず、老もまた然り、何ぞ世上の歓楽に愛着のいとまあらんや」と太子は慄然とて震うて、早晩到るべきこの老衰の憂苦を長嘆し急濾宮に還られた。

 太子の駟馬粛々、鹵簿堂々と行く中路に、童子の曳く杖を支えて羸歩する腰の曲った一老人を見る。

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57 病者を見給う(四門出遊の二)

太子を慰むべき遊行が却って憂愁の種となったことを聞いて、父王はいよいよ沿道鹵簿を荘厳盛大にして、再び園林に赴かしめられた。このたびもまた遠近の邑城平生太子の盛名を慕うている者はこの盛儀を拝観すべく長路をさし挟んで群集した。時に太子は図らずも樹下に休息せる一病者を見られた。その身痩せ腹大に、喘息呻吟し、肉落ち骨秀で、顔色憔悴、自ら立つ能わざるを見て「是を何人となす、何ぞ常人と斯くのごとく異れる」と聞かれた。「これ病者にして大苦聚し、世人皆然らざる無けれど平生飲楽してこれがための覚悟なし」と御者は答えた。「世間の愚痴無識なる哉、病患の至るや予めその期を定めず、今日の香閨の人明朝いずくんぞ枯骨たらざるを保すべき、何んぞ漫然世栄を追ういとまある」と直ちに車を廻らして蒼惶環城し給うた。

 御者は太子を恭礼して太子の問いに答えている。病者は一樹の下に痛々しき身を起し、手を順にして太子を拝している。

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58 死者を見給う(四門出遊の三)

さきの東西二門の出遊に於て太子の憂情を益々加えたるを聞いて、父王は深く軫念し、いよいよ供奉を正し街衢を装飾せしめられた。然るに径しむべし。忽然として一つの死者を四人で担うた一輿が太子の車駕の前に現われた。その屍上に香華を散じ幾多の家人が慟哭してその後に従うているのを見て、太子は優陀夷を顧みて問われた。優陀夷は「この人は世に在って五慾に貪着し銭財を愛惜し、辛苦経営、ただ積聚を知って無常を識らず。今や諸根壊れて生命絶し、父母親戚眷属の愛念するところとなる。然れども命終の後は草木のごとくにて、恩情好悪は相関せず。誠に死者は哀むべし」と答えた。これを聞いて太子は深く感動して、低声に謂うて「世間この苦あり、世人は何んぞこの中に在って放逸を行い、無心なること石木のごとくにて怖畏せざるにや」と震摺せられた。ここに於て太子は断然出家して深く学理を究め、老病死のごとき痛苦を抜かんと念願し、疾駆して還城し給うた。

 宝車上の太子は喟然として死者を見給い、死人の親近は死屍に取り縋って憂え哭している。

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59 清僧を見給う(四門出遊の四)

父王は太子の憂愁を翻すべき道を群臣に諮い給うた。しかしいずれもやはり五慾をもってその心を留むるを唯一の方法と答えた。よってこのたびもまた北門より宝車を馳って臣佐を従えて園林遊観に出でしめられた。途中一沙門に会うて、その諸根寂定、戚議法に適い、衣服整斉、手に法器を執っているのを見て、また問われた。御者は「これを比丘となす」と答えて出家の利益を説いた。これを聞いて太子は喜んで園林に入られた。ここにては王の旨を受けて数百の宮女来り迎え、種々の姿態を尽し、競うて太子に媚を献じた。優陀夷は「昔大仙人の成覚も、孫陀利姫の愛慾に堕し、毘尸婆梵仙の一万年の修道も、天妃のために一日にして破砕せられたるに非ずや、太子学識高く常に幽玄の沈思に耽ると雖もいかで御身等のごとき女性傾国の一笑に敵し得べき」と称して、秘術を尽し太子の道念を動かしめんと努めしめた。しかし太子の心は大磐石のごとく寂定として深淵の静を保ち、豊麗無比の玉殿も空塚のごとく、天の楽園にも似たる園林も墓域のごとく観じて、却って「人生朝露の身をもって何故に三大苦に対して怠れる!」と太子は説き給うた。

 太子宝車に坐して、比丘の立って右手を挙げ左手を垂れた、その清斉たる姿を見て居られる。

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60 耶輸陀羅(ヤショ-ダラ)姫の悪夢

浄飯王は四門出遊以来、太子の無常観いよいよ深く厭世出家の日の遠からざるを知られた。よって斯くてはカピラ城の一大災厄なりと、百方出城を防遏し、衛兵監視を厳にせられた。また一切の歓楽を尽して思念の遑なからしめ、先の出遊のことを忘れしむるように努められた。一夜耶輸陀羅(ヤショ-ダラ)は大千世界は震い、諸山は動揺、樹木は倒潰、日月星晨は地に堕ち、姫の宝冠は脱落、毛髪は混乱して頭に巻き、手足は切断、寝台は柱折れ、身は裸体となって地に投ぜられ、王の幡蓋は裂け、太子の装飾は散乱し、大洋は狂乱、須弥山さえもその麓から震動する夢を見られた。姫は驚き目覚めて太子にこれを告げられた。太子は静かに姫を慰藉して、「その夢は吉祥の前兆なり。積徳の光明を身に負う者のみ斯くのごとき瑞夢を見得るなり」と謂われた。 

 太子は諸の宮女に物語り給う。太子妃がいずれであるか図中不分明である。

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