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軍団の大毅は1000人を統率すること。少毅は副官としてそれを統率すること。校尉は200人。旅帥は100人。隊正は50人。
兵士はおのおの隊伍を作ること(5人で伍、50人で隊)。弓馬が得意な人は騎兵隊とすること。それ以外を歩兵隊とすること。主帥以上(校尉・旅帥・隊正)は、種別(騎兵/歩兵)ごとに統率すること。両者を混成してはならない。
兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。配属して軍に入れるには、同戸のうち3丁(正丁3人)ごとに1丁を取ること。
国司は、毎年孟冬(冬のはじめ=10月)に、戎具(武器・武装)を簡閲すること。
兵士は10人を1火〔か〕とする。火別に6の駄馬(荷馬)を充て、飼養して肥え元気にさせること。差発の日には、これをもって荷馬に充てることを許可すること。もし死失があれば、すぐに替わりの馬を立てること。
兵士各人ごとに糒〔ほしいい〕6斗、塩2升を備え、併せて、火の行軍(軍に動員した兵士)のための戎具等は、いずれも種別の倉庫に貯蔵すること。もし貯蔵してから長期間を経て腐敗し実用に堪えない場合はすぐに回転させ良質のものを(兵士自身が)納入すること。11月1日より開始して12月30日以前に納入し終えること。番ごとに上番の人から2人を取って守掌させること。雑仕は(守掌(?))してはならない。行軍の日には火(に必要なぶん(?))を計算して給出すること。
兵士は、火ごとに、紺の布の幕(天幕)1口〔く〕、裏を着けて。銅の盆・小さな釜、どちらか(ごはんや水を入れるのに用いる)入手可能なものを2口。鍬1具、【坐+リ《りっとう》】【石隹】〔くさきり〕(=草切)1具、斧1具、手斧1具、鑿〔のみ〕1具、鎌2張、鉗〔かなはし〕(かなばさみ・やっとこ)1具。50人ごとに、火鑽〔ひうち/ひきり〕(火打ち金)1具、熟艾〔やいぐさ〕(点火用の乾燥よもぎ)1斤、手鋸〔のこぎり〕1具。各人に、弓1張、弓弦袋1口、副弦〔そえつる〕2条、征箭〔そや〕(弓矢)50隻、胡箙〔やなぐい〕(弓筒)1具、大刀1口、刀子1枚、砥石1枚、藺帽〔いがさ〕1枚、飯袋〔いいぶくろ〕1口、水甬〔みずおけ〕1口、塩甬1口、脛巾〔はばき〕(脛用脚絆)1具、鞋〔からわらぐつ〕1両。みな自身で備えさせること。欠けたり少なかったりしてはならない。行軍の日には、自分で全て携帯して行くこと。もし上番(衛士・防人として赴任)の年ならば、各人の戎具だけを持って行き、それ以外は持って行ってはならない。
兵士の上番するについては、京に向かう場合(向京兵士=衛士)は1年、防に向かう場合(向防兵士=防人)は3年。現地までの日程は年限のうちに計算しない。
弩手について、教習に赴く場合、及び、征討を行う場合には、(07条に定めたような)弓箭の具備を課してはならない。
軍団は、1隊ごとに、強壮な人2人を選抜して弩手に充てること。均分して番に入れること。
衛士は半分に分けて、1日は勤務し1日は非番とする(=毎日交互に上番勤務する)こと。{特別な事情のない日を言う。}下日(非番の日)ごとに、当府(衛士府)で弓馬を教習させ、刀を用い、槍〔ほこ〕を弄〔と〕り、また弩〔おおゆみ〕を発射し、投石機を操作させること。午の時(昼12時)になったならおのおの解放して帰らせること。こうして本府は試練して、その技術の向上を確かめること。別勅でない場合は雑仕は(教習)してはならない。
兵士の京に向かうのを衛士と名付ける。{火別に白丁5人を取って火頭〔かず〕(炊事係)に充てること。}辺境を守るのを防人〔ぼうにん/さきもり〕と名付ける。
軍団の大毅少毅は、おしなべて部内の散位、勲位、及び、庶人の武芸を称えられる人を取って充てること。校尉以下(校尉・旅帥・隊正)には、庶人の弓馬が得意な人を取ること。主帳(軍団の書記)には、書算が巧みな人を取ること。
兵士以上については、みな歴名簿を2通作ること。いずれも征防遠使(征伐・防人・化外や異国への出陣)の処所を明記すること。そうして貧富の上中下3等を注記すること。1通は国に留めること。1通は毎年、朝集使に持たせて兵部省に送ること。もし出陣させることがある場合、及び、上番するときには、国司は歴名簿に依り、(富強の)順に派遣すること。衛士・防人が故郷に還る日には、いずれも国内の上番を、衛士は1年、防人は3年、免除すること。
兵衛が使(派遣)から還った場合には、3番(約半月の上番勤務を3回)以上経過したなら1番を免除すること。もし勤務を願ったなら許可すること。
兵士を差発して衛士・防人に充てたならば、父子兄弟を併せて派遣してはならない。もし祖父母・父母が老疾でそれに侍す場合に、家に兼丁(=本人以外の正丁・中男)がなければ、衛士・防人に充てる限りではない。
兵を20人以上差発したならば、契勅を待ってはじめて差発すること。
大将(衛府の長官ではなく、征討軍の総将)の出征には、みな節刀(刑罰の権を委ねる印としての刀)を授けること。(大将の)辞を訖ったなら(辞令が下りたなら)帰宅して家で寝ることはならない。(大将の)家が京にあるならば、毎月1度、内舎人を派遣し、安否を問うこと。もし(家人に)疾病があったなら医薬を給付すること。凱旋の日には、天皇に奏して使を派遣して郊労すること。
征討を行うことがあって、従軍人数を数えて3000人以上を満たしたならば、兵・馬の出発する日に、侍従を使に充てて、宣勅慰労して発遣すること。防人1000人以上を満たしたならば、出発の日に内舎人を派遣して、発遣すること。
衛士が京に向かい、(また、)防人が津(船着場。難波の船着場=難波津と特定する説もある)に到着するまでの間は、みな国司に自ら親しく部領(統率監督)させること。{衛士が京に到着する日には、兵部省がまず戎具を検閲して、三府に分配すること。もし欠けたり少なかったりしていることがあれば、事情に応じて推罪すること。}(防人が)津より出発する日には、専使が部領して、大宰府に預けること。往還するときには、途上で、(或いは(?))前後に落伍して留まり、百姓を侵犯し、または、田苗を損害し、桑漆の類を伐採させてはならない。もし違反することがあれば、国郡は事情を記録して太政官に申告すること。(この場合)統率者に対しては、法に依って罪を科すこと。征討軍の行路もまたこれに準ずること。
将帥(ここでは副将軍以上)の出征にあたって、彼に宿怨を抱く人を配下に任じてはならない。
軍営の門は常に厳重に警備を整えて、出入を呵叱〔かしつ〕(大声で責めただす)すること。もし勅使があったならば、みな先ず軍将に報告して、軍容を整え備えて、然る後に勅を承ること。
衛士は、下日といえどもみな安易に(京の勤務地から)30里(約16km)より外に私に出かけてはならない。もし事情があるならば、本府(所属する衛府)に報せて、許可の判断があったときに(勤務地を)離れること。上番している年は、重服〔じゅうぶく〕(父母の喪)があったとしても帰郷許可の範囲としない。{下番の日に(任務終了して帰郷した日から)服喪を終わらせること。}